キッチナー元帥、オークニー諸島沖で戦死す
1898年イギリスのホレイショ・ハーバート・キッチナー(1850-1916)はスーダン人のマフディ軍を制圧した後、ナイル川上流のファショダ(現在の地名はコドク)におもむきフランスに撤退を迫った。イギリスはカイロからケープまでを結ぶ縦断政策をすすめ、フランスはセネガルからソマリランドまでのアフリカ横断政策を推進していた。英仏両軍がファショダで衝突したが、フランスは露仏同盟の弱化と国内政局の動揺のためにイギリスとの衝突を望まず、フランス外相デルカッセの譲歩によって11月マルシャン(1863-1934)はファショダを撤退した。翌年3月スーダンに関する英仏共同宣言が成立し、両国の勢力範囲が画定され、ナイル・コンゴ両川間の分水線が境とされ、イギリスはエジプト・スーダンを得、フランスはチャド湖畔一帯の地域を得た。キャスナーはスーダン征服とファショダ事件を有利に解決した功によりハルツーム男爵に任じられた。第一次世界大戦中、キッチナーは巡洋艦ハンプシャー号でロシアへの航行中、ドイツの機雷により沈没、オークニー諸島沖にて戦死した。現在メインランドの北西にキッチナー記念碑がある。(keyword;Horatio Herbert Kitchener )
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