ルドヴィコ・イル・モーロと幼な妻
スフォルツァ家は15世紀中頃から16世紀初めにかけてイタリア北部ミラノを支配していた貴族である。その始祖ムッツォ・アッテンドロ(1369-1424)は「スフォルツァ」(強襲の人)と呼ばれ、傭兵隊長としてミラノ・ナポリの諸国に仕えた。その子フランチェス1世はミラノ公ビスコンチの娘と結婚し、ビスコンチの死後、ミラノ公となり、さらにジェノバを支配下においた。彼の死後、息子のガレアッツォ・マリアが跡を継ぎ、専制的統治を行ったが、1476年ジェノバの叛乱で暗殺された。続いて彼の子ジャン・ガレアッツォが継いだが、1494年叔父のルドビーコ・イル・モーロ(1452-1508)はガレアッツォを幽閉し、毒を盛って殺し、政権を簒奪した。
レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)がフィレンツェからミラノへ移ったのは1482年ころとされる。レオナルドが20年間も仕えたルドビーコ・スフォルツァとはどのような人物であろうか。ルドビーコは顔の色が黒いことから「イル・モーロ」(「黒い」の意)と渾名をつけられていた。黒は「ムーア人のように凶悪な、残虐な」という意味もあるのだろう。ミラノは芸術・文化ではフィレンツェに大きく遅れていたが、織物工業と兵器産業では進んでいた。ルドビーコは残忍で横暴な君主であったが、学者・詩人・芸術家を優遇した。レオナルドも絵画よりも、機関銃や大砲、戦車、飛行機などの奇想天外な発明で大公にとりいろうとした。だが彼が命ぜられたのは大公の巨大な騎馬像だった。この像を鋳造するためには90t以上の青銅を用意する必要があったが、青銅を要塞の大砲をつくるために使ってしまったので騎馬像の完成は遅れた。1499年末、フランス兵がミラノの侵入して、巨大な粘土像を見つけ、それを的あての練習に使ったため、スフォルツァ騎馬像は破壊されてしまった。ルドビーコは39歳のとき15歳のベアトリーチェ・デスタ(1475-1497)と結婚した。彼女の家柄は、ミラノに隣接する都市国家フェラーラを支配していた。この若い公爵夫人は贅沢な生活を楽しんでいたが、1497年1月、第3子を死産したのち死んだ。ルドビーコもフランスのシャルル8世およびルイ12世の攻撃を受けて、1500年フランス軍に捕らえられ、1508年に死んだ。
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