糸瓜忌
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
子規の忌日を「糸瓜忌」という。糸瓜の水は痰や咳の薬といわれている。正岡子規は明治35年9月18日の朝、妹律をまくらもとによび、病床の唯一の慰めとしていた草花写生のための唐紙をはった画板をもたせ、黙って句を書きはじめた。いきなり中央に「糸瓜咲て」と書き、墨つぎをし、少し下がったところに「痰のつまりし」と書き、また墨をつぎ、結句は何と出るかと碧梧桐や虚子らが固唾をのんでいると、同じ高さに「仏かな」と書かれたという。他の二句「をととひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」も続いて同紙に書かれ、かくて、絶句三句ができたのである。子規はその19日午前1時、眠るように永眠した。享年34歳であった。短い生涯にもかかわらず、俳句・短歌の革新運動など不滅の業績を残した。墓は田端の大龍寺にある。
子規の残した作品には病床のものが多いので、病弱な人だったように思われがちだが、若いころは元気で生来の新しもの好きで、大学予備門時代、野球が大好きだった。幼名である「升(のぼる)」にちなんで野球(のぼーる)というもじった雅号を用いたこともある。打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)、直球(ストレート)、飛球(フライボール)と日本語に訳したのは子規である。子規は平成14年に野球殿堂入りをした。
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