周防・大内氏の盛衰
家譜によると、百済の聖明王の第3子琳聖太子が周防の多々良浜に着岸し、その子孫が大内村(山口市)にすみ、以来姓を多々良、氏を大内と称したという。この所伝は伝説の域をでないが、多々良という名前からもうかがわれるように、渡来系氏族が製鉄技術をもって周防に土着し、発展したことは考えられる。南北朝期、弘世は南朝方として周防の統一をなしとげ、さらに長門の厚東氏を討って室町幕府より周防・長門・石見の守護職に任じられ、本拠を山口に移して祇園社を勧請するなど京都を模した町づくりをおこなう。義弘は豊前の守護職を兼帯するなど幕府内に重きをなし、また対朝鮮貿易につとめて財政的発展の基礎をつくる。義隆は北九州を制圧し、全盛期をもたらすが、1551年家臣の陶晴賢と対立して自刃、義長も1555年の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就に敗れたあと、自刃して滅亡する。
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