ユダヤ総督ピラトはなぜ聖人化されるのか?
ポンテオ・ピラト(ギリシア語はポンティウス・ピラトゥス)はローマ帝国のユダヤ支配のためティベリウス帝から派遣されたユダヤ総督であり、在職期間は西暦26年から36年の11年間である。その性格は、頑固・苛酷であり、私腹をこやすために法を踏みにじり、民衆を苦しめた。とくに無実の人、ナザレのイエスを十字架に処刑したことでその名を聖書に残している。イエスの死後のピラトについては聖書には何も記していない。ピラトが権力があったのは、ティベリウス帝の第一の側近、ルキウス・アエリウス・セヤヌス(前20-後31)の配下だったからとされる。だがセヤヌスが西暦31年に失脚すると、ピラトの影響力も徐々に弱まり、サマリア人を余りに苛酷に取り扱ったため、西暦36年にローマに召還された。ピラトのローマでの事績は明らかでないが、自殺したとも処刑されたとも伝えられる。
イエスを死に追いやった者として、一般の人はまずイスカリオテのユダを記憶するだろう。ユダはゲッセマネの園で、接吻を合図にイエスを司祭長たちに逮捕させた。だがユダは後悔し、銀貨30枚を神殿に投げつけ、首をつって死んだ。ユダ自身は裏切者の代名詞として知られるもののイエス殺害の張本人ではない。ではピラトはどうであろうか。イエスの生死の権限を握っていたのは総督の地位にあったピラトであることは間違いの無い事実である。しかし実際は無理やりイエスを殺そうとしたのはユダヤ人の祭司たちである。むしろピラトはイエスを釈放しようと努力したといわれる。「わたしは彼に何の過失を見出せない」と宣言している。聖書においてもピラトがイエスの無実を宣言するのは5度も出てくる。ユダヤ人の執拗な死刑要求についにピラトはイエスの死刑を命ずるが、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と杭の上に書いている。これはピラトのイエスに対する尊敬の念と、無理やりイエスの死刑を宣告せんとしたユダヤ人の祭司たちに対するいまいましい気持ちも現れであると指摘されている。もちろんイエスの死がのちのキリスト教になるとは、このときのピラトにはわからなかったであろう。しかし、イエスを尋問したピラトには何か不可思議ものを感じとっていたであろう。コプト教会、アビシニア教会ではピラトを聖人としている。ローマ帰還後のピラトについては何もわからないが、パレスチナでの不思議な体験からキリスト教について考えるようになったことは想像するに難くない。はたしてピラトやピラトの妻プロクーラ・クラウディアはキリスト者になったのだろうか。
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