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2010年9月30日 (木)

神無月の由来について

   明日から10月。空はどこまでも青く、野山はあざやかな色をそめ、草木はみのり、大気はひえびえと澄む。あてもなく郊外を散策するにはふさわしい季節である。古来より日本には月の和名がある。ムツキ、キサラギ、ヤヨヒ・・・。文献に初めて現れるのは「日本書紀」神武紀である。このなかの神武紀・戍午年を中心に、一月、二月という漢字に訓が施されている。

春二月キサラギ、三月ヤヨヒ

夏四月ウヅキ 五月サツキ 六月ミナツキ

秋八月ハヅキ 九月ナガツキ

冬十月カミナヅキ 十有一月シモツキ 十有二月シハス

ここでは、一月と七月が欠けている。しかし、神武天皇即位の辛酉年正月をムツキと訓ませ、さらに七月は安寧紀に即位の月として掲げてある。このような読み方は、後世に伝えられた月名と全く同じである。「日本書紀」の訓がいつ付けられたかという疑問はさておいても、月名はかなり大昔より同じ言い方をされてきた、基本的な言葉であることがわかる。さて、陰暦10月を神無月(かんなづき)という。この月は諸国の神々が、ことごとく出雲の国に旅立たれるため、神々が留守であるというので神無月といった。しかしその由来については異説がある。『語意考』では、10月は雷が鳴らなくなる月、だから「雷なし月」の意からきた月名だとしている。『大言海』では、10月は、翌月の新嘗の設けに、新酒を醸す月、つまり「醸成(かみなん)月」の意からきている月名で、神無月は当て字だとしている。また『和訓栞』などでは、「神嘗(かみなめ)月」「神奈月」あるいは「神の月」がその語源であろうと説明している。

太宰治ブーム

   太宰治(1909-1948)はこの60年間でもっともよく読まれた作家の1人だろうが、いままた原作の映像化でさらにその読者層を拡大しつつあるように思える。NHKの「太宰治短編小説集」というドラマは朗読で構成されている。毎回アニメや影絵や映像など様々。西川美和演出の「駆け込み訴え」を見て驚いた。当然、ユダの話なので古代のイスラエルであるべきなのだが、現代の女子高生に置き換えられている。清水くるみ(ユダ)が日南響子(イエス)に同性愛を感じているが、愛をえられず裏切るというストーリー。16歳のフレッシュな女優の魅力もさることながら、こういった解釈で太宰作品を味わうこともアリなのかと思わせる出来栄えである。原作を読むとくどいほどユダの心情が吐露されているが、映像で味わうと別世界に感じられる。ボランティアの寄付活動やお祭りでの浴衣姿、キャンプファイアーなどが次々と映像に映し出される。珍しい「駆け込み訴え」である。あの世の太宰が見ても面白ろがっているのではないだろうか。

山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し

    王陽明は1472年9月30日、浙江省の余姚に生まれた。朱子学に対して、心即理、致良知、知行合一と説く。日本では17世紀の中江藤樹、19世紀の大塩平八郎、20世紀の三島由紀夫などは王陽明の影響を受けている。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し。もし己が心服の冠を掃討して、よく廓清平定の実をあげるならば、これまさに大夫不世出の偉業である」(王文成公全書巻4、書簡)

キャロル・リンレー

    ヒッチコック劇場第6話「神に背きし者」(1962年)

   若い修道女パメラ(キャロル・リンレー)は不注意で貴重なブロンズ像を駅で盗まれる。犯人(クルー・ギャラガー)を捜すため、OLになって古道具屋で盗品をさがしだす。犯人にそのことが知れてパメラの身に危険が迫る。だがそのときブロンズを贈った男が再び現れて取り戻してくれる。パメラ役は懐かしい少女スターのキャロル・リンレー。可憐な少女時代を過ぎて当時は20歳くらいか。シスター姿やサンドイッチを食べるシーンなども必見。「青春の旅情」(1961)「ヤム・ヤム・カール」(1962)「バニー・レークは行方不明」(1965)の間、テレビ出演もしていたのだ。現在どうしているのだろうか。

1 キャロル・リンレー レッド・バトンズ パメラ・スー・マーチン

2010年9月28日 (火)

鶴女房譚

   木下順二の民話劇「夕鶴」の素材は、昔話の鶴女房譚である。昔、ある男が、人手にかかって死にそうになっているツルを助ける。その後、間もなくのこと、ひとりの美しい女が訪ねてきて、その男の妻になる。妻は機織りをするが、夫に機屋の中をのぞくなという。妻の織った布は高く売れ、夫は金持ちになる。あるとき、禁を犯して夫が機屋を見ると、そこには妻の姿はなく、ツルが1羽、機織りをしている。妻は布を織り上げると、自分は助けられてたツルで、恩返しにきたといって去るという話である。類話は大きな変化なく全国的に分布している。「夕鶴」は新潟県佐渡島の例から構成されたもである。

謎の農民画家

   スペインのプラド美術館でブリューゲルの新作が発見された。「聖マルティヌスのワイン」と題する絵画で、美術史に残る大発見とされる。聖マルティヌス(316-397)はローマ帝国時代に農村に分け入って布教した司祭で、フランドルでは国民的崇拝をうけている。

    ピーテル・ブリューゲル(1525-1569)は、「収穫」「雪のなかの狩人」「婚礼の宴会」「農民の踊り」など生き生きとした農民生活を描いた画家として知られている。だが、実際は庶民風俗を取材しながらも暗い宗教改革の時代の社会風刺した作品も多い。謎の多い生涯であるが、おそらく有力のパトロンと教養ある人をもち、ブリューゲル自身もルネサンス的教養人であったろうと思われる。

2010年9月26日 (日)

本日の英単語

attic               屋根裏部屋

barn       物置小屋

celing      天井

chimney     煙突

closet              押入れ

construction  建設

eaves       軒

gutter       雨どい

hausing      住宅

landing      踊り場

peephole     ドアなどののぞき穴

pillar        柱

rent         家賃

sink        洗面台

stairs       階段

structure     建築物

映画1年間に200本見るぞ!

 イチローが10年連続200安打を達成した。これまでルー・ゲーリッグ、ポール・ウェイナー、ウィリー・キーラーが8回、タイ・カップが9回、そしてピート・ローズが10回達成している。しかしアメリカでは本塁打に比べ内野安打への評価は落ちる。しかしイチローはこう言っている。「ホームランを好む女性は魅力的ではない。より高い技術を必要とすめ内野安打にこそセクシーさがあると僕は思っている」

年間200安打はバットマンの勲章だ。自分は年間200本の映画を見ることを一つの目標にしよう。

「ディープ・ブルー」(1999)トーマス・ジェーン、サフロン・バロウズ、ジャクリーン・マッケンジー、サミュエル・L・ジャクソン

「天使の恋」(2009) 佐々木希 谷原章介

「オリエント急行殺人事件」(1974)アルバート・フィーニー イングリッド・バーグマン ローレン・バコール リチャード・ウィドマーク ショーン・コネリー アンソニー・パーキンス ジャクリーン・ビセット バネッサ・レッドグレーブ ジョン・ギールグッド マーティン・バルサム

「汚名」(1946) ケイリー・グラント、イングリッド・バーグマン、クロード・レインズ、ルイス・カルハーン。ワインの黒い粉は原子爆弾に使用されるものらしい。

「午前中の時間割」(1972)羽仁進監督 国木田亜子(国木田独歩の孫娘)

「ビートキッズ」(2005)森口貴大 相武紗季

「ショコラ」(2000)ジュリエット・ビノシュ ジョニー・デップ アルフレッド・モリーナ

古代トラキア人の黄金文明

    5000年以上の昔、エジプト文明、メソポタミア文明より古く精密な黄金文明を確立し、紀元前5~3世紀に最盛期を迎えたトラキアは古代ギリシアの文献には「死をも恐れぬ勇猛果敢な騎馬戦士」として、トロイ戦争やアレクサンダー大王の遠征で活躍したことが記されている。しかし彼らは文字を持たなかったため、その実態はほとんど解明されないまま、歴史の中で幻の民族となっていた。今世紀に入り、遺跡から王の黄金のマスク、冠など副葬品が発掘され、黄金文明の担い手であることが明らかになってきた。ブルガリア北部、世界遺産になっているスヴェシュタリのトラキア人の墳墓はゲタイ民族の遺跡である。ゲタイ人はトラキアの一種族で、「霊魂の不滅を信じている」と古い文献に記されている。中部カザンルク郊外で発見されたトラキア人の墓は、かつて「薔薇の谷」と呼ばれていたが、今では「王家の谷」と呼ばれるようになったほど貴重な遺跡である。ここからオドリュサイ族の王の墓から黄金のマスクが出土した。南部ペルペリコンからべッサイ族の遺跡が発掘された。岩の遺跡であるが複雑な形をしており、上部は中世のキリスト教会、中部はローマ時代のもの、下部にトラキア時代の宮殿跡が見られる。太陽を信仰し、冬至の日の祭りには、男女が交わり、豊穣と子孫繁栄を祈った。奥行き25mの岩窟は子宮に似せて造られている。

2010年9月24日 (金)

暑さ寒さも彼岸まで

 猛暑の夏も終わり、秋本番。暑さ寒さも彼岸まで。英訳にはいろいろな文例がある。

No heat or cold lasts beyond the equinox.

Neither heat nor cold lasts beyond the equinox.

The heat and the cold last up to the equinoxes.

A mild climate comes with the equinox.

1日33語。英単語を覚えるゾ!

bamboo  shoot   たけのこ

beans               豆

bean  sprouts    もやし

burdock  root    ごぼう

cabbage            キャベツ

carrot               ニンジン

Chinese  cabbage  白菜

cucumber         キュウリ

crab                 かに

eel                   うなぎ

egg                  卵

eggplant           なす

fish                  魚

flour       小麦粉

foodstuff    食料品

garlic       にんにく

green  soybeans  エダマタ

green  pepper    ピーマン

herring      ニシン

leek        にら

lettuce      レタス

lotus  root         レンコン

lobster      ロブスター

mackerel     サバ

marmalade    マーマレード

mayonnaise   マヨネーズ

meat       肉

mushroom    きのこ

mustard  sauce マスタード

octopus      タコ

onion       玉ねぎ

oyster       牡蠣

pumpkin             カボチャ

pepper      胡椒

pomegranate  ざくろ

pork       豚肉

potato      じゃがいも

prawn      クルマエビ

preserves    ジャム

provisions    食料

radish      大根

red  pepper      唐辛子

rice       米

saffron     サフラン

salt       塩

sardine     いわし

sauce       ソース

saury      サンマ

scallop     ホタテの貝柱

seasoning   調味料

shellfish    貝

soy  sauce  しょう油

spinach         ほうれんそう

squid     イカ

tuna      マグロ

vinegar    酢   

wheat      小麦

どこまで伸ばす白鵬の連勝記録

   横綱白鵬が千秋楽で大関日馬冨士を破って連勝を62に伸ばした。4場所連続優勝は、白鵬が強いのか、相手の力士が弱いのか。

初日   鶴竜    寄り切り

2日目  時天空  はたき込み

3日目  若の里  寄り切り

4日目  豊真将  上手投げ

5日目  栃ノ心   すくい投げ

6日目  琴奨菊  はたき込み

7日目  稀勢の里 押し出し

8日目  旭天鵬  すくい投げ

9日目  徳瀬川  うわて投げ

10日目  栃煌山  寄り切り

11日目  阿覧   上手投げ

12日目  魁皇   寄り切り

13日目  把瑠都  上手投げ

14日目  琴欧州  寄り切り

15日目  日馬冨士 寄り切り

2010年9月23日 (木)

新しき酒は新しき革袋に

Neither is new wine put into old wineskins.

新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない

   イエスは最後の晩餐で、パンを自分の肉とし、ぶどう酒を自分の血と思って、弟子たちに食べさせた。イエスは言う。「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れはしない。もしもそんなことをしたら、その革袋は張り裂け、酒は流れ出るし、革袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるべきだ」ここで古い革袋とはユダヤ教のことで、新しいぶどう酒とはキリスト教のことを意味している。

   ところで17日に菅改造内閣の新しい人事が発表され、葉山御用邸で静養中の天皇陛下が一時帰京して認証式が無事に行われた。新閣僚人事は「ノーサイド」「挙党態勢」の掛け声もあり、表向きは「新しき酒は新しき革袋に」というわけにもいかない。だが半数近くの小沢グループの議員は当分の間は冷や飯をくわされるのだろう。

ユダヤ総督ピラトはなぜ聖人化されるのか?

    ポンテオ・ピラト(ギリシア語はポンティウス・ピラトゥス)はローマ帝国のユダヤ支配のためティベリウス帝から派遣されたユダヤ総督であり、在職期間は西暦26年から36年の11年間である。その性格は、頑固・苛酷であり、私腹をこやすために法を踏みにじり、民衆を苦しめた。とくに無実の人、ナザレのイエスを十字架に処刑したことでその名を聖書に残している。イエスの死後のピラトについては聖書には何も記していない。ピラトが権力があったのは、ティベリウス帝の第一の側近、ルキウス・アエリウス・セヤヌス(前20-後31)の配下だったからとされる。だがセヤヌスが西暦31年に失脚すると、ピラトの影響力も徐々に弱まり、サマリア人を余りに苛酷に取り扱ったため、西暦36年にローマに召還された。ピラトのローマでの事績は明らかでないが、自殺したとも処刑されたとも伝えられる。

    イエスを死に追いやった者として、一般の人はまずイスカリオテのユダを記憶するだろう。ユダはゲッセマネの園で、接吻を合図にイエスを司祭長たちに逮捕させた。だがユダは後悔し、銀貨30枚を神殿に投げつけ、首をつって死んだ。ユダ自身は裏切者の代名詞として知られるもののイエス殺害の張本人ではない。ではピラトはどうであろうか。イエスの生死の権限を握っていたのは総督の地位にあったピラトであることは間違いの無い事実である。しかし実際は無理やりイエスを殺そうとしたのはユダヤ人の祭司たちである。むしろピラトはイエスを釈放しようと努力したといわれる。「わたしは彼に何の過失を見出せない」と宣言している。聖書においてもピラトがイエスの無実を宣言するのは5度も出てくる。ユダヤ人の執拗な死刑要求についにピラトはイエスの死刑を命ずるが、「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と杭の上に書いている。これはピラトのイエスに対する尊敬の念と、無理やりイエスの死刑を宣告せんとしたユダヤ人の祭司たちに対するいまいましい気持ちも現れであると指摘されている。もちろんイエスの死がのちのキリスト教になるとは、このときのピラトにはわからなかったであろう。しかし、イエスを尋問したピラトには何か不可思議ものを感じとっていたであろう。コプト教会、アビシニア教会ではピラトを聖人としている。ローマ帰還後のピラトについては何もわからないが、パレスチナでの不思議な体験からキリスト教について考えるようになったことは想像するに難くない。はたしてピラトやピラトの妻プロクーラ・クラウディアはキリスト者になったのだろうか。

腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

   何日も前に録画しておいてたまったHDDを整理しようと見た1本の映画がとても面白ろかった。タイトルや出演者にあまり興味もなくて見ずに消去しようとしたくらい。ではなぜ録画したのか、永作博美がでているからだろう。映画「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」(2007)もともと舞台で好評だったもので、映画でもキネマ旬報ベスト10位に入っている。女優志望の勘違い女(佐藤江梨子)を主人公に、漫画家志望の妹(佐津川愛美)、近親相姦の兄(永瀬正敏)、不幸な出自の従順な嫁(永作博美)など個性的な4人の出演者がいい。ブラックコメディ。主演のサトエリは超ワガママで現代風のスタイルがいいだけの性悪女。そのイジメにおびえる妹が最後には復讐して成功をつかみかけるというのが話の大筋。永作が蹴られてころがされたり、素麺を顔にかけられてたり、全身痣だられになったり、滅茶苦茶なところが受ける。奇想天外のストーリーというのは面白い。

2010年9月22日 (水)

ヨコワリの世界史・古代編

   世界史をヨコワリ、つまり同じ時間軸で眺めると、地球の西と東で意外な人物が同時代に生きていたことを発見する。 カルタゴの将軍ハンニバル(前247-前183)と西漢初代の皇帝高祖劉邦(前247-195)は同じ年に生まれている。ハンニバルは前202年にローマのスキピオにザマの戦いで敗れたが、劉邦は垓下の戦いで項羽を破った。ローマの詩人ウェルギリウス(前70-前19)と西漢の劉向(前79-前8)はほぼ同時代人。『対比列伝(英雄伝)』のプルタルコス(46年頃ほ120年頃)と『漢書』の班固(32-92)もほぼ同時代人。ローマ皇帝カラカラ(在位211-217)が巨大な浴場を造り、奢侈逸楽を貪っていたのは、孫権と劉備の連合軍が赤壁で曹操の大軍を破った(208年)数年後のことである。北魏の孝文帝(在位471-499)や梁の武帝(在位502-549)が仏教を保護していたころ、フランク王国のクローヴィス(在位481-511)は、妃クロチルダの影響のもとに、アリウス派からカトリックに改宗していた。

気になる日本語

   昨年から今年にかけてもメディアなどでいつのまにか頻繁につかわれる言葉がある。新語もあれば昔からある言葉だが急に使われ出した言葉もある。また今年のキーワードをいろいろ並べてみる。

無縁社会 高齢者所在不明 電子書籍 挙党体制 縦割り  野球賭博  断捨離 悪しき隣人 チリ落盤 ツィッター アバター アンドロイド ダークマター ブブゼラ 口蹄疫 小惑星探査機 仕分け

   最近、菅直人が「代表選、終わった後はノーサイドで」とよく言う。広辞苑には「ノーサイド(no side)とは、ラクビーで試合終了のこと」これだけでは菅の言葉の説明にはならない。サイドとは「側」の意から、菅派、小沢派、敵・味方の区別なくという意味で使用しているようだ。党内派閥抗争をラグビー精神でたとえるなど白々しいウソ臭い感じがする。「ノーサイド」という言葉そのものも日本以外ではほとんど使われないらしく、外人に通用するのだろうか。また日本人にも通用しているのだろうか。政治家のカタカナ語はなるだけ限定的に使用することが望ましいと考えるが、軽い人間がむしろ好まれる風潮にあるようだ。

芸歴90年?

   先日、サラリーマン役など飄々とした演技で人気のあった小林桂樹さんが亡くなられた。調べるとデビューは「微笑の日」(1942)だそうだが、戦後の「看護婦の日記」や「山猫令嬢」という作品は最近に見た。芸歴68年ということになる。昨夜、「醜聞」という映画を見ていたら、やはり千石規子がかなり大きな役で出演していたが80歳を過ぎたいまでも現役女優だそうだ。最近「トコリの橋」(1954)と「ナイトミュージアム」(2006)を続けて見たら、どちらもミッキー・ルーニーがでている。トコリでは喧嘩早い役だったが、そのやんちゃなイメージは老いてもそのままだった。ミッキー・ルーニーはアンディ・ハーディ・シリーズの頃が全盛期だったが、その後も脇役で長くアメリカ人に愛された俳優だった。もうじき芸歴はなんと90年になるという。

2010年9月21日 (火)

一汁一菜

    健康ブームである。バランスのとれた食事を心がけよう。野菜の摂取不足、塩分の摂り過ぎ、カルシウムを摂る、油と脂を控える。歩くことを意識し。体を動かす。睡眠を心がける。午前0時までに眠ること(シンデレラ就寝)。入浴・趣味活動など自分にあったリラックス法の活用。正しい歯磨き法を実践すること。生活習慣の改善をする。

    これらすべて人の忠告を素直に聞き入れ実践する。だがデジタル・チャンネルを見ていると、健康食品のCMが多い。1本4500円の水もあるし、乳酸菌、はちみつ、有機野菜、サプリメントも多い。がんに効くという健康食品もある。市場規模は一兆円産業といわれるが、科学的根拠はほとんど確認されていない。大学教授が一般の人が登場して効能を宣伝するが、半身半疑でも健康食品に頼る人が多いのだろう。今の時代に一汁一菜を貫く人がとてもえらく思える。

2010年9月20日 (月)

おしらさま信仰

Photo

    東北地方の民家の神棚には養蚕の神様「おしら様」が祀られている。男女一対の桑の木の偶像で、馬頭のもの、鳥帽子を被ったものなどがある。「おかしらかみ」「おしらほとけ」ともいう。毎年、一家の主婦が新しい布ぎれを重ねるので、顔の出ている貫頭型以外の御神体を見た人は少ない。「おしら」という名称の由来や信仰の起源など明らかでない。おしら様の祭文となり、祭りの日に巫女によって唱えられる。もともと中国の四川省に起源譚が考えられる。娘に恋して殺されたウマの皮が、娘をくるんで天に昇り、のちにウマの皮はクワの木の下に落ち、娘はカイコに化した。そのとき現れた養蚕の神は馬頭娘とよばれ神としてまつられ、ウマの皮を着た娘が神体となっている。日本では「おしら様」の由来譚は土地によって少しずつの差異がある。遠野町の伝説では、昔ある田舎に父と娘がいて、その娘がウマにとついだ。父はこれを怒って、ウマをクワの木に繋いで殺した。娘はそのウマの皮をもって小舟を張り、クワの木の櫂を操って海に出てしまったが、後に悲しんで死んだ。ある海岸に打ち上げられて、その皮舟で娘の亡骸から、湧き出した虫がカイコになったという。

アウグスティヌス「三位一体論」

    ある日、アウグスティヌス(354-430)は浜辺を散歩していた。すると前方に、1人の子どもが砂遊びをしている。アウグスティヌスは子どもに近寄って言った。「坊や、何をしているの」子どもは「ぼくは砂の穴を掘って、ここに海の水を全部入れようとしているの」と答えた。アウグスティヌスは笑いながら、その子に言った。「それはできないことだよ、この大海の水を、こんなちっぽけな砂の穴にいれるなんて」。そのとき、子どもはアウグスティヌスを見つめながらいった。「三位一体のわけを人間の理屈でわかろうとすることに比べれば、大海の水を砂の穴に入れることのほうが、ずっとやさしいよ」そして、その子どもの姿は消えていった。これは、アウグスティヌスが実際に体験した本当の話である。

白洲次郎と麻生太賀吉

    9月20日は第92代内閣総理大臣・麻生太郎の誕生日。70歳。母方の祖父が吉田茂(1878-1967)であることはよく知られている。そして麻生太郎の出生秘話に白洲次郎(1902-1985)が関わっている。白洲次郎は昭和11年、イギリスからの帰途、浅間丸で麻生太賀吉(1911-1980)という青年と出会う。彼は九州の石炭王・麻生太吉(1857-1933)の孫である。しばらくして、白洲は吉田茂の妻雪子から三女和子の結婚相手を探してほしいと頼まれた。白洲はふと船中で出会った麻生青年を思いだした。白洲の紹介もあってか、麻生太賀吉と吉田和子は昭和13年に結婚した。和子は曽祖父に大久保利通、祖父に牧野伸顕、父に吉田茂をもつ政治家の家系。麻生家は九州の筑豊炭田を地盤とする実業家の家系。そして昭和15年9月20日、長男、麻生太郎が生まれた。平成20年9月24日、首相に就任。平成21年8月の第45回衆議院議員総選挙にて自民党が歴史的大敗を喫し、9月16日、首相を辞職。

2010年9月19日 (日)

人体の60パーセントは水

    人間の体の中には何が一番多く含まれているかという質問をすると、たいていの人は筋肉とか、骨とかいった回答をする。水という答えの返ってくることは少ない。ところが実際には、人体の最も主要な成分は水なのである。たしかに筋肉の量は体の中に多い。しかし、その筋肉もタンパク質だけでは成り立たない。これは、水を含んでいるから筋肉として成り立っているのである。ではどれくらいの水を人体が含んでいるのか。人体の水分比は新生児が最も多くて80%、続いて小児の70%、成人男性の60%、成人女性の55%、老人は50%以下である。のどが渇いたとき、水一杯を飲んだだけでまるで生き返ったような感じがする。身体的にも水は人にとって大切であるが、心理的にも気分が落ち着いたり、ストレスをやわらげる効果がある。もちろん緑茶であったりカモミール茶であってもよい。おいしい水が人間にとって大切である。この当たり前のようなことだが、やはりギリシアの賢人タレスが「水」を哲学的に考察している。タレスは「万物の始原(アルケー)」とは何かということを日夜考えあぐねていたら、足元にあった泉に気づかずに落ちてしまった。それでトラキア生まれの女奴隷にさえ笑われたそうだが、流石にタレス先生、「万物の始原は水なり」と悟ったらしい。ここでの水というのは、「みずみずしいもの」という意味らしい。生命はあたたく、水気のあるものである。それに反し、死んだものは冷たく、干乾びたものである。つまり生命の源はみずみずしいものである。ここに「学問のはじまりがあった」と、のちのアリストテレスも言っている。
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糸瓜忌

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

   子規の忌日を「糸瓜忌」という。糸瓜の水は痰や咳の薬といわれている。正岡子規は明治35年9月18日の朝、妹律をまくらもとによび、病床の唯一の慰めとしていた草花写生のための唐紙をはった画板をもたせ、黙って句を書きはじめた。いきなり中央に「糸瓜咲て」と書き、墨つぎをし、少し下がったところに「痰のつまりし」と書き、また墨をつぎ、結句は何と出るかと碧梧桐や虚子らが固唾をのんでいると、同じ高さに「仏かな」と書かれたという。他の二句「をととひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」も続いて同紙に書かれ、かくて、絶句三句ができたのである。子規はその19日午前1時、眠るように永眠した。享年34歳であった。短い生涯にもかかわらず、俳句・短歌の革新運動など不滅の業績を残した。墓は田端の大龍寺にある。

  子規の残した作品には病床のものが多いので、病弱な人だったように思われがちだが、若いころは元気で生来の新しもの好きで、大学予備門時代、野球が大好きだった。幼名である「升(のぼる)」にちなんで野球(のぼーる)というもじった雅号を用いたこともある。打者(バッター)、走者(ランナー)、四球(フォアボール)、直球(ストレート)、飛球(フライボール)と日本語に訳したのは子規である。子規は平成14年に野球殿堂入りをした。

2010年9月18日 (土)

ルドヴィコ・イル・モーロと幼な妻

Img_0013 ベアトリーチェ・デステ

  スフォルツァ家は15世紀中頃から16世紀初めにかけてイタリア北部ミラノを支配していた貴族である。その始祖ムッツォ・アッテンドロ(1369-1424)は「スフォルツァ」(強襲の人)と呼ばれ、傭兵隊長としてミラノ・ナポリの諸国に仕えた。その子フランチェス1世はミラノ公ビスコンチの娘と結婚し、ビスコンチの死後、ミラノ公となり、さらにジェノバを支配下においた。彼の死後、息子のガレアッツォ・マリアが跡を継ぎ、専制的統治を行ったが、1476年ジェノバの叛乱で暗殺された。続いて彼の子ジャン・ガレアッツォが継いだが、1494年叔父のルドビーコ・イル・モーロ(1452-1508)はガレアッツォを幽閉し、毒を盛って殺し、政権を簒奪した。

    レオナルド・ダ・ビンチ(1452-1519)がフィレンツェからミラノへ移ったのは1482年ころとされる。レオナルドが20年間も仕えたルドビーコ・スフォルツァとはどのような人物であろうか。ルドビーコは顔の色が黒いことから「イル・モーロ」(「黒い」の意)と渾名をつけられていた。黒は「ムーア人のように凶悪な、残虐な」という意味もあるのだろう。ミラノは芸術・文化ではフィレンツェに大きく遅れていたが、織物工業と兵器産業では進んでいた。ルドビーコは残忍で横暴な君主であったが、学者・詩人・芸術家を優遇した。レオナルドも絵画よりも、機関銃や大砲、戦車、飛行機などの奇想天外な発明で大公にとりいろうとした。だが彼が命ぜられたのは大公の巨大な騎馬像だった。この像を鋳造するためには90t以上の青銅を用意する必要があったが、青銅を要塞の大砲をつくるために使ってしまったので騎馬像の完成は遅れた。1499年末、フランス兵がミラノの侵入して、巨大な粘土像を見つけ、それを的あての練習に使ったため、スフォルツァ騎馬像は破壊されてしまった。ルドビーコは39歳のとき15歳のベアトリーチェ・デスタ(1475-1497)と結婚した。彼女の家柄は、ミラノに隣接する都市国家フェラーラを支配していた。この若い公爵夫人は贅沢な生活を楽しんでいたが、1497年1月、第3子を死産したのち死んだ。ルドビーコもフランスのシャルル8世およびルイ12世の攻撃を受けて、1500年フランス軍に捕らえられ、1508年に死んだ。

エピキュリアン

   ギリシアの哲学者エピクロスはアテネで学校を開いた。古代にあっては魂の救済者として尊ばれ、神に対する畏怖を取り除くことを願ったが無神論者というわけではなく、のちのキリスト教に似通う点もみられる。彼は人間にとって最高善は快楽(hedone ヘドネ)であると説いたが、それは精神的な幸福であった。「パンと水さえあれば、ゼウスの神より、わたしはしあわせだ」といったといわれるが、そのような物欲で心を動かされることのない生活をよしとした。なるべく公共の生活からは遠く、隠れて生きることを説いた。外物にとらわれず、精神を平静・無感動に保つことを幸福と考えたのである。しかし、後世では、エピクロスの快楽主義をもっと物質的、肉体的に解するようになり、今日「エピキュリアン」というのは、官能的な享楽主義者・快楽主義者を呼ぶ名になっている。

2010年9月17日 (金)

呪われた子

    ローマ法王べネディクト16世がエディンバラでエリザベス2世と面会した。16世紀にローマ・カトリックと決別後、公式訪問は初めてで実に476年ぶりの和解である。この時期、新教と旧教が結束してイスラームに対抗しようというのだろうか。ローマ法王暗殺のテロリストが5人(いずれもアルジェリア人)逮捕されたという。

    ヘンリー8世は熱心なカトリック信者で、教皇から「信仰の擁護者」の称号を受けたが、王妃キャサリン・オヴ・アラゴンと離別し、宮女アン・ブーリン(1507-1536)との結婚問題で、その許可を教皇に求めていたが、ローマ法王クレメンス7世はこれを拒絶した。このため、ヘンリー8世はカトリックから独立して首長令を発して、イギリス国教会が成立した(1534年)。ローマ教会は「邪悪な子をもつことになるだろう」といったが、アン・ブーリンの産んだ子がイギリス国家最大の繁栄をもたらしたエリザベス女王である。

    ヘンリー8世は生涯6回結婚しているが、ロシアのイワン雷帝は7回結婚している。イワン雷帝の父・モスクワ大公ヴァシーリー3世も子どもができない妃ソロモニア・サブーロヴァと離婚して、タタール出自のリトワ貴族の女エレーナ・グリンスカヤ(1510-1538)と結婚しようとしたが、ロシア正教会は反対した。1522年、大公はロシア正教会のヴァルラームを追い出し、代わりにダニエールをすえた。ダニエールは結婚を承認した。母グリンスカヤは皇太子イワンを産んだ。のちのイワン雷帝である。イワン雷帝(1530-1584)とエリザベス女王(1533-1603)はこのように教会から認められずに産まれた子である。抵抗する者には徹底的に弾圧する残忍性など共通している。エリザベスは反対派のメアリ・スチュアートを斬首し、イワン雷帝はわが息子を自らの手で殺した。世界に恐れられた専制君主は生まれながら似ている運命にあったが、激しい気性で国家繁栄の基礎を築いた。

枕崎台風

    「シンギュラリティー」(Singularity)とは特異日のこと。例年、ある天気が高い確率で現れる特定の日。例えば、11月3日は晴れることが多く、9月17日と26日は強い台風の襲来が多い。本日は台風の特異日だが、快晴である。しかし65年前の今日「枕崎台風」が日本を襲った。枕崎台風は室戸台風(昭和9年)、伊勢湾台風(昭和34年)と並ぶ昭和の三大台風。昭和20年9月12日にマリアナ海域に発生し、9月17日、午後、鹿児島県枕崎付近に上陸、九州、中国地方、とくに広島県下に大きな被害を与えた。その後、北東に進んで山陰地方から日本海に出たが、酒田付近からふたたび本州に上陸し東北地方を横断して三陸沖に抜けた。全国の死者・行方不明3756人、傷害2452人、田畑被害16万5750㌶、建物被害44万6897棟であった。とくに広島県では秋雨前線による雨と重なったため記録的な大雨となり、洪水や無数の山津波が発生した。死者行方不明者約2400人。原爆投下から1ヵ月、人心の虚脱と自然災害に無防備状態が重なり大きな被害となった。長崎と沖縄は混乱のため正確な被害状況は不明である。枕崎台風の名称ともなった枕崎は今回、台風の目にはいった。枕崎は台風の通過地点となることが多いので、この名称の付け方に疑問視する声もある。

キッチナー元帥、オークニー諸島沖で戦死す

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    1898年イギリスのホレイショ・ハーバート・キッチナー(1850-1916)はスーダン人のマフディ軍を制圧した後、ナイル川上流のファショダ(現在の地名はコドク)におもむきフランスに撤退を迫った。イギリスはカイロからケープまでを結ぶ縦断政策をすすめ、フランスはセネガルからソマリランドまでのアフリカ横断政策を推進していた。英仏両軍がファショダで衝突したが、フランスは露仏同盟の弱化と国内政局の動揺のためにイギリスとの衝突を望まず、フランス外相デルカッセの譲歩によって11月マルシャン(1863-1934)はファショダを撤退した。翌年3月スーダンに関する英仏共同宣言が成立し、両国の勢力範囲が画定され、ナイル・コンゴ両川間の分水線が境とされ、イギリスはエジプト・スーダンを得、フランスはチャド湖畔一帯の地域を得た。キャスナーはスーダン征服とファショダ事件を有利に解決した功によりハルツーム男爵に任じられた。第一次世界大戦中、キッチナーは巡洋艦ハンプシャー号でロシアへの航行中、ドイツの機雷により沈没、オークニー諸島沖にて戦死した。現在メインランドの北西にキッチナー記念碑がある。(keyword;Horatio Herbert Kitchener )

Photo キッチナー記念碑

2010年9月16日 (木)

小便管から始まったフランス革命

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    フランス国王シャルル5世(在位1364-1380)がパリ防衛のため増城した城塞のうち、サンタントワーヌ郊外町につくられたものを特にバスティーユとよんでいたが、ルイ13世(在位1610‐1643)の時代から牢獄として使用されるようになった。投獄される者は政府を攻撃した文筆家などが多く、専制政治の象徴とみられていた。マルキ・ド・サドも筆禍のためこの牢獄の中で「ソドム百二十日または放蕩学校」をひそかに書きつづったといわれる。牢内には貴族やブルジョワが多く、だいたいにおいて、囚人の待遇は自由で快適なものであった。ただ一つの欠点は、この独房には便所がなく、小便はブリキ管の長い小便管で窓の鉄格子の外へ放出した。小便管は手前を漏斗状にした長いものであったらしい。サドは出獄したい一心で、その小便管を逆にもって、先の方を口へあて、つまりメガフォンの形にして、この牢獄内で非人道的な囚人虐待が行われていると、窓ごしに声をかぎりと放送した。ところが、この牢獄には厳重な城壁がなく、窓の外はすぐに街路だったので、サドの声は民衆の耳に響いた。当時食糧危機で不穏の形勢にあったパリの民衆はサドの言葉を信用し、バスティーユ牢獄を襲撃した。そして、この破壊が口火となって、フランス大革命というあれだけの大騒動がもちあがったというのである。(参考:田辺貞之助「西洋風流故事物語」)

フランス人の不寛容性

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    アンドレ・ジイドの「一粒の麦もし死なずば」の一節に次のような話がある。

僕の級も学校も二つの党派に分かれていた。カトリック派とプロテスタント派だ。アルザス学校へ入学して初めて、僕は自分がプロテスタントだと知った「貴様はカトリックか?それとも新教か?」これ等の奇異な言葉を生まれて初めて耳にしたので、完全にあっけにとられて、僕はそれが何のことか解らないと答えた。中に1人、親切な生徒がいて僕のために説明の労を取り、「聖母マリアを信じるのがカトリックだよ」と教えてくれた。それをきくと僕は叫んで云った。自分はプロテスタントに相違ないと。小さな痩っぽちの、今まで黙っていたのが、急に叫んで云った。「僕の父は無神論者だよ」偉そうな調子で言われると、皆が当惑してしまった。

    16世紀後半、カトリック教徒とユグノーと呼ばれたプロテスタントとの間で激しい戦争が行われた。有名な「サン・バルテルミの虐殺」という大量虐殺が行われたのもこの頃である。アンリ4世がナントの勅令を発して戦いはようやく終結したが、17世紀を通じてプロテスタントに対する圧迫はやまず、その結果、フランスではプロテスタントは減少した。現在、フランスではカトリック教徒は約80%以上であり、プロテスタントはわずか数パーセントにとどまり、ほかに若干のユダヤ教徒、イスラーム教徒がいる。さきごろフランス上院では、ブルカ禁止法が欧州で初めて成立した。

2010年9月15日 (水)

お吟さま

    今東光「お吟さま」(1956)はこれまで田中絹代(1962年)と熊井啓(1978年)によって二度映画化されている。千利休が豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対して自害したという話は今東光よりも以前に、海音寺潮五郎「天正女合戦」(昭和11年)によって小説化された題材である。今東光は、利休の娘お吟とキリシタン大名高山右近と愛をメインにおいた。昨年の大河ドラマ「天地人」では直江兼続が千利休の娘に慕われるという設定になっていた。千利休の娘の実像はどうだったのだろうか。

    まず利休はなぜ秀吉に殺されたのか。現在でもはっきりとした定説があるわけではない。映画「お吟さま」(1978)を見ると、中村敦夫演じる山上宗二が秀吉に朝鮮出兵を批判し、怒りを買い耳と鼻を削がれ打ち首にされる場面がある。だが聡明な利休が宗二のようにあからさまに政治に口だすとは考えにくい。歴史の記録によると、朝鮮出兵に反対したためではなく、大徳寺山門金毛閣に利休自身の木像を置いたという不敬罪と、茶器に法外の値段をつけて売買したという詐欺罪によって処罰されたという説がある。ではなぜ利休の娘が秀吉との揉め事の一因となったのであろうか。『松屋日記』には、利休の3人の娘が記されている。名前はわからない。千紹二の妻、石橋良叱の妻、万代屋宗安の妻、の3人である。秀吉と利休との揉め事の女は千紹二の妻とみられる。記録に「一乱起」とある。つまり切腹したというのである。これを根拠に作家がフィクションを成したものであろうか。利休の娘が女の身でなぜ切腹したのか、本当の理由は謎である。

2010年9月14日 (火)

白鵬50連勝

    横綱白鵬が3日目の若の里戦に勝利し、50連勝を達成した。50連勝は昭和以降では双葉山、千代の富士に続く3人目となる。白鵬の連勝記録がどこ続くか興味がでてきたが、大正以前の連勝記録は引分け、預かりなど含めたものであるため参考記録としてとどめるが、次のとおりである。

双葉山定次   69

谷風梶之助   63

梅ヶ谷藤太郎(初代) 58

太刀山峯右エ門  56

千代の富士貢  53

    このうち梅ヶ谷は明治9年から明治14年にかけて58連勝し、大関若島嶌に敗れたあと、明治17年5月場所まで35連勝したという。連勝記録はいつかは途絶える。しかし、気を落とさずに再び連勝するということができるかどうかということも興味の一つである。

敬老の日と悲田院

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 左は山背大兄皇子、右は殖栗王

  敬老の日は2003年から9月の第3月曜日になったが、それまでは9月15日であった。兵庫県多可郡野間谷村(現・八千代町)の門脇政夫村長が提唱した「としよりの日」が始まりである。俗説としては、聖徳太子が不幸な老人や病人を救うために、悲田院を建てた日とされている。悲田院は敬田院、施薬院、療病院とともに四箇院と称して大坂の四天王寺にあったとされるが確証はない。聖徳太子の悲田院の概要は不明なので、中国の悲田坊の制度を調べる。隋・唐の寺院にも設けられたという記録は、唐会要巻49「病坊」などに記されている。唐令には高齢または身体障害者で養い手のない人、貧乏で暮らせない人を地方団体(郷里)が安価に当たるべきことを規定している。悲田坊(悲田養病坊ともいう)は、開元5年(717年)の宋璟らの上奏文によれば、孤老窮人の保護に当たる収養施設で、長安をはじめ各地におかれ、悲田養病使が各施設に派遣されていた。国は僧侶のなかから悲田養病使を任命しただけで、実権は僧侶の手にあった。仏教寺院は六朝以来、社会事業に力をそそいでいるから、唐代において悲田坊が設けられたのは当然のことである。慈善事業とはいえ、その経費を寄付に仰いだので、寺としてはかえって黒字にある傾向があったという。悲田坊をやればもうかるので発展したともいわれている。

2010年9月13日 (月)

王妃と詐欺師

   カリオストロ伯爵は窃盗、詐欺、女衒、紙幣贋造など悪事ならなんでも行う稀代のペテン師である。本名はジュゼッペ・バルサモ(1743-1795)といい、シチリア島パレルモの貧しいリボン商人の子であった。修道院を追放されて、ヨーロッパ各地を転々とし、そのあいだに魔術や錬金術を身につけた。偽名をつかってパリの社交界に入った。そのころマリーアントワネットは妊娠していたが、毎夜のように怖い夢をみる。そこでカリオストロに占ってもらおうと思いついた。カリオストロは、まず一人の処女に催眠術をかけてから、水の入ったガラス瓶をじっとみつめている。カリオストロは何が見えるかたずねた。「王妃さまが男の赤ん坊をお産みになっているのがみえます」と答えた。この予言は的中して、アントワネットは数週間後、無事男の子を出産した。これよりカリオストロと王妃の親交は始まった。有名なラ・モット伯爵夫人の「首飾り事件」(1785年)はカリオストロは無罪になった。王妃も実際何ひとつ責任がなかったのであるが、民衆の信頼は大きく失うこととなった。これがフランス革命の原因の一つという人もいる。カリオストロは詐欺がばれて、パリを離れ、ローマで逮捕されて終身刑で獄死した。マリーアントワネットも浪費と逸楽の生活が国民の恨みを買い、1783年断頭台で処刑された。

裏切者の末路

    日本史のなかで裏切者といえば関ヶ原の戦いでの小早川秀秋がよく知られるが、中国四千年の歴史のなかで裏切者といえば、明を裏切り、清に寝返った呉三桂(1612-1678)が筆頭格だろう。明朝が李自成の反乱に遭ったとき、山海関を守っていた明の武将の呉三桂は、昨日まで敵であった清の睿親王ドルゴンに降り、清軍を北京に先導した。清の北京入関には呉三桂の力に負うことが大きい。この功績によって呉三桂は雲南の平西王に封じられたが、のちに反乱(いわゆる三藩の乱)を起こして滅ばされ、自害した。

   なぜ呉三桂は祖国を裏切り、満州族に味方したのであろうか。むろん自身の栄達や政治的な思惑もあったのだろうが、後世の稗史の世界ではひとりの美女を奪い返すためという話になっている。李自成は陳円円(1623-1695)という美しい妓女との幸福な生活を過ごした。ついに彼は1678年、聖祖康熙帝によって滅ぼされた。呉三桂も一代の英雄ではあるが、裏切者としての誹りはいつまでも消えない。

2010年9月12日 (日)

公共図書館から消えていく戦前の図書

    図書の電子化がすすむ現在、公共図書館の現場でも大きな変化がみられる。資料の電子化をすすめるグループはこれまでの紙媒体が図書館書庫のスペースを大きくとることから、国立国会図書館にあればよしとして、各館での資料保存を無益と考える意見が巾をきかせている。これは国立国会図書館や府県立などの大図書館では資料の保存機能が使命の一つとして位置づけられているが、中小の公共図書館では書庫スペースの効率化を図るうえからも、資料の廃棄が急激なスピードですすめられているのである。書庫の廃棄というのは一般市民にはあまり表面にあらわれないだけに問題として顕在化するケースは少ない。「うちの図書館には保存的機能はない」と公言してはばからない館長もいる。だが図書館法第2条には「保存」という二語がはっきりと明文化されている。もちろん電子化の恩恵を受けるのは、地域の小さな図書館でも端末で過去の貴重な資料を閲覧できることにあり、電子化が有益であることは言うまでもない。問題はそのような光の部分ではなく、急激に紙の貴重な図書が地方の図書館から消滅しているという影の面である。30万冊の蔵書規模の図書館では毎年1万冊ぐらいの本は紙が劣化したわけでもなく、電子化を理由に廃棄されている。とくに戦前の図書、永年保存扱いになっていた雑誌(逐次刊行物)などがスペースをとるためターゲットになりやすい。もちろん専門性の高い司書が責任をもって管理していればそのような問題は起こらないのであるが、専門職制度の弱い図書館では市役所から配属された図書館経験の浅い職員が実務を担当するケースも多いのが現実である。市民の貴重な知的文化財であるという意識は希薄である。電子化がすすんでも図書館がこれまでの紙の図書の保存という役割を放棄すべきでないと考える。

谷崎潤一郎の女性崇拝

    最近テレビで川端康成の「片腕」や谷崎潤一郎の「富美子の足」(日本文学シネマBUNGO)を見る。「富美子の足」は大正8年に発表された小説だが読んだことはない。若い女性・富美子(加藤ローサ)の肉体に愛着をもつ老人(寺田農)は青年の画家に富美子の肢体を描かせる。老人は危篤状態になるが、富美子の足で顔を踏まれることに無上の快楽を感じ、足を踏みつけられながら死んでいくという話。谷崎の絢爛たる文体であれば、変態的な話も芸術として見る事ができるが、ドラマだとなかなか難しい面がある。珍妙な印象を受けた。大映の「瘋癲老人日記」の若尾文子を思い出した。老人は自分の墓を仏足石にするため女の足の裏の拓本をとるという話だった。思えば谷崎には女性の足の描写がよくある。処女作「刺青」にも女の肌に刺青を入れた後、真っ白な足の裏が印象的だった。戦後の作品「鍵」では「芸術か猥褻か」という物議が国会の法務委員会でとりあげられた。「瘋癩老人日記」は谷崎75歳のときの作品である。40年以上も「富美子の足」のモチーフをあたためていたのだろう。道徳も自我をも越えて、性の神秘に挑み、女体を賛美する。変態性欲への世界も畏れない。フェティシズムだろうがロリコンであろが美とエロスへの欲情は年老いても衰えることなく、ますます盛んとなる。現代は性に対して抑圧する社会の動きが見られるが、悪魔主義といわれる谷崎の面目躍如たるものが感じられる。

2010年9月10日 (金)

三位一体を信じなければクリスチャンとは言えませんか?

  「三位一体」という用語は高校世界史の教科書にも使用されているが、なかなか理解するに難解な語であろう。「カトリック入門」(中央出版社)によると、「①父と子と聖霊はそれぞれ別なかたでありながら唯一の神であられ、救いはその共同のみわざである。②父と子と聖霊は内的に互いに愛し合う限りない知恵と愛のいのちであり、その交わりは人知をはるかに越えた神秘である。③父と子と聖霊の愛の交わりが人々の心をひとつに結び、つねにより深く愛し合うように促し、助け、導いていく」とある。欧米キリスト教世界では、これまでクリスチャンであるかどうかは「三位一体の神秘」を信じるか否かだといわれてきた。

    ところがこのような説に対して、最近、デンマークの宗教社会学者のアニーカ・フフィタマルは、人々に自分がクリスチャンだと思う理由を尋ねたが、三位一体の神を信じているからだと応えた人はほとんどいなかった。三位一体の教理はキリスト教神学における難解な問題の一つである。三位一体の教理がわからずとも、イエスが命じた事柄を守り行なおうと努力している人は、確かにクリスチャンであると言えるのか、あるいは、三位一体を信じなければクリスチャンとは言えないのか、日本人にとっては理解しにくい問題だ。

あなたとあたしさくらんぼ

    サクランボの名産で知られる山形県東根で来年開校の校名を公募で「さくらんぼ小学校」と決めた。ところが同一の名称がアダルトサイトにあることが分かり大騒動に発展。市教委は苦渋の選択で校名を変更。記者会見で市長は「交通事故で向こうからぶつけられた感じ」と複雑な心境を語っている。市民からは「勇気をもって校名を貫いてほしい」という激励もあったそうだが、ネーミングにまつわる騒動を回避したいのだろう。結局、大森小学校という平凡な名前で決着した。

    それにしても「さくらんぼ小学校」とはラブリーな名称である。校歌はもちろん大塚愛の「隣どおし あなたとわたし、さくらんぼ♪」ちなみに大塚愛は本当はさくらんぼが好きじゃないが、特産のPR効果もあり、これだけの話題性は、ちょっぴり惜しい気もする。なお、東根市には1万人以上が参加する「さくらんぼマラソン大会」も毎年開催されている。観光マラソンなどは、いま流行のソフトツーリズムの成功例だろう。

死ぬかと思った瞬間

   人間だれしも自分に死期が何時やって来るのか誰もわからないだろう。20年先、10年先かもしれないし、明日かもしれない。「不慮の死」という言葉がある。毎日の新聞のニュースには思いもかけない死に方で亡くなっている人がいる。通り魔に切られて殺される人。自動車にひき逃げ引きずり死亡した人、駅ホームで押されて電車にひかれた人、航空機・船舶で事故で死ぬ人、工事中の落下物で死ぬ人、台風などの自然災害で死ぬ人、海で溺れて死ぬ人、つまり死に方は誰にも予測できない。

    ロシアの旅客機が高度1万メートルの上空で機体トラブルが発生した。機長は操縦を手動に切り替え、急遽、近くの小さな飛行場に不時着した。81人全員無事だった。「イジマの奇跡」と呼んでいる。「死ぬことは人のことだと思うだに俺が死ぬとはこれはたまらぬ」生と死の運命は何で分けるのか。その謎を解いたものは誰もいない。

2010年9月 9日 (木)

「日本史年表」とヘアヌード元年

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    ブログ記事を書くとき、吉川弘文館の児玉幸多編「日本史年表・地図」をよく利用する。比較的新しい記述には頭をかしげる記述が多い。1990年以降の「芸能」欄の記述をみると、藤山寛美、高峰三枝子、木暮実千代、観世左近、浜口庫之助と物故者の名前を並べている。年表の記述に物故者を羅列して時代感が生ずるであろうか。またインターネットの普及した今日において、芸能人や有名人の物故者の記述が年表に不可欠なものであろうか。むしろ事件を優先するべきではないか。スポーツ欄は事件、出来事を記述しているので整合性がないように思える。

   「風俗・芸能」として、政治、外交、経済などの欄には記入できない、時代、世相を反映する事項を記述すればいい。例えば1991年は「湾岸戦争とヘア・ヌード元年」と記憶すれば、時代が鮮やかに甦る。篠山紀信による樋口可南子のヌード写真集はヘア(陰毛)がはっきり見える日本初の写真集で、当局の規制にかかわらず合法的かつ記念碑的作品として大きな話題を呼んだ。これをきっかけに、ヘアヌード写真集が氾濫、宮沢りえ「サンタフェ」は4500円したが、130万部突破した。思わずニャニャとするような過去の珍事件から、歴史への興味や関心がでてくるものである。

イタリア教皇領(ピピンからガリバルディまで)

Img_0026 ピピン(左右にいるのは聖職者)

  ローマを中心とし、ローマ法王を君主といただく独立国家は、いまはわずかにヴァチカン市国にその名残りをとどめるが、8世紀から19世紀までは独立国家としてイタリア中央部に君臨していた。

    5世紀の西ローマ帝国の滅亡後、ローマ皇帝に代わって政治の中心となったのはローマ教皇であった。とくにグレゴリウス1世は世俗支配権を著しく強めた。8世紀前半には教皇は完全な独立君主としてロンバルディア王国と対立していた。教皇ステファヌス2世は、754年フランク王国に援助を求めた。ピピン(小ピピンともいう)は、教皇ザカリウスの承認のもとに敵対王ヒルデリヒを廃して、王位につき、カロリング朝をひらいた。そしてイタリアに遠征し、ランゴバルド族を破り、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇ステファヌス2世に寄進して、教皇権との結びつきを強めた。いわゆる「ピピンの寄進」(756年)により、教皇領が成立した。カロリング朝衰微の後は、神聖ローマ帝国の庇護の下に教皇領も成立した。15世紀以後のルネサンス教皇時代には、権勢欲の強い教皇により領土は拡大された。しかし宗教改革以後ふたたび領土は縮小したが、教皇の支配権はむしろ安定し、ナポレオンのイタリア征服により、1808年、一時まったく解消した教皇領は、ウィーン会議によって復活したものの、自由主義の波に押され、ついに1861年イタリア統一の犠牲として、縮小されて、1870年にはヴァチカン市のみを残して他の領土を失うにいたった。

ロートレック礼賛

 画家トゥールーズ=ロートレックは我が国では単に「ロートレック」と呼んでいることが多いが、「トゥールーズ=ロートレック」とひとつの姓なので切り離さないで呼んだほうがいいそうだ。トゥールーズ家というフランスでも屈指の名門である。そして正式名は「アンリ・マリ・レーモン・ド・トゥールーズ=ロートレック」というからやけに長い名前である。山高帽に鼻眼鏡、ステッキを片手に夜毎の歓楽街を徘徊する短躯の紳士は、まさしくモンマルトルの象徴であった。だがその生涯は短い。享年37歳。今日はトゥールーズ=ロートレックの命日である。幼少期より虚弱体質だったが、彼の運命を変える事故が14歳のときにあった。客間で転倒して左足を骨折したのだ。さらに翌年は、みぞに転がり落ち右足を骨折した。以後、上半身は普通に成長したが、両足の発育は停止した。そのため彼は画家になることを決心する。晩年は夜更かしとアルコール中毒により、幻覚症状を起こしたが、最後まで絵筆をはなすことはなかった。

龍馬・お龍の新婚旅行

    楢崎お龍(1841-1906)は京都柳馬場三条下ル青蓮院宮家侍医楢崎将作の長女として天保12年に生まれた。一説によると西陣有職織物商井筒屋喜右衛門の女で、14、15歳の頃、楢崎家の養女に入ったとある。坂本龍馬より6歳年下になる。弟妹らの世話をしながら伏見寺田屋に住み込みで働く。慶応2年、寺田屋事件では、入浴中のお龍は風呂から飛び出して注進、薩摩屋敷に通報し、龍馬の危難を救う活躍をする。その後、西郷の取り計らいで、2人は薩船で鹿児島へ新婚旅行に出かける。船で浜之市にあがり、犬飼瀧、和気神社を訪れる。塩浸温泉で10日ほど滞在。霧島神宮、霧島温泉郷、天の逆鉾、と薩摩の旅は83日間だった。その間の霧島での26日間の滞在はとくに楽しかったと見え、その様子を乙女姉さんに手紙で詳しく書き送っている。これがいわゆる日本最初の新婚旅行といわれている。もうすぐ福山雅治、真木よう子による「龍馬伝」もハイライトを迎える。

タルピオットの骨壷はキリストか?

   1980年にエルサレム郊外、ゴルゴダの丘の近く、タルピオットという所から古いユダヤ人の家族のものとみられる墓が発見された。そこには10体分の石灰石の骨壷が納められており、棺には、イエス、マリア、マタイ、ヨゼフ、マグダラのマリアという名前がアラム語で書かれていた。そして、6番目の名前として、「イエスの息子、ユダ」が刻まれている。当時のユダヤの風習では家族は同じ墓に葬る。これがイエス・キリストの家族のものである可能性は非常に高いと調査チームはいう。しかし専門家たちの意見は否定的である。十字架で死刑された(金曜日)イエスは、死後3日後(日曜日)に、墓から復活して、40日後にオリブ山から昇天したことになっている。つまりイエスの復活は科学的には有り得ない事柄であるが、キリスト教社会では動かすことのできない、一回限りの出来事なのである。現在の聖墳墓教会はゴルゴダの岩丘上の古代採石場に1149年に建てられたもので、イエスの棺や骨壷はない。復活したイエスに骨は存在しないのである。またイエスやヨゼフという名前は当時ありふれた名前であり、別人だという。そしてイエスの妻マグダラのマリア、息子ユダについても否定的である。はたしてこの世紀の謎の真実が明らかにされるであろうか。

2010年9月 8日 (水)

奈良県難読地名一覧

  奈良県には珍しい地名がたくさんある。奈良市北京終町??「ペキンおわり」ではない。「きたきょうばて」と読む。御所市に「蛇穴」という地名がある。「さらぎ」と読む。奈良県は「あをによし」古く平城(なら)の都だから、難しい地名、古代の地名がたくさんありそうだ。710年に平城京に遷都してから今年でちょうど1300年。万葉集にある地名も含めて調べてみる。

阿騎野    あきの

麻生田    あそだ

藺生      いう

五百家    いうか

井光     いかり

櫟本     いちのもと

櫟原     いちはら

今国府    いまごう

五百瀬    いもぜ

磐余      いはれ

菟田野    うたの

東川     うのがわ

小夫     おうぶ

栗原     おうばら

崗本     おかもと

小墾田宮  おはりたのみや

帯解寺    おびとけ寺

恐の坂    かしこのさか

葛下川    かつげ川

萱生     かよう

神名備    かむなび

軽       かる

象山     きさやま

北京終    きたきょうばて

城上      きのへ

行者還岳  ぎょうじゃ岳

櫛羅     くじら

倶留尊山  くろそ山

神下     こうか

川迫川    こおぜ川

巨勢     こせ

木津     こつ

小坪瀬    こつもぜ

小橡     ことち

佐紀     さき

佐田の丘  さだのおか

蛇穴     さらぎ

三昧田    ざんまいでん

入之波    しおのは

磯城     しき

武木     たきぎ

玉置川    たまいかわ

中峯山    ちゅうむざん

都祁     つげ

九尾     つづらお

戸毛     とうげ

飛羽山    とばやま

飛火が岳   とぶひがたけ

跡見     とみ

伴堂     ともんどう

洞川     どろがわ

長柄     ながら

穴闇     なぐら

尼寺     にんじ

野迫川    のせかわ

榛原     はいばら

初瀬     はせ

泊瀬     はつせ

吐田     はんだ

引手の山  ひきでのやま

福貴     ふき

二上山    ふたがみやま

布留     ふる

勾田     まがた

大豆生     まめお

水分山    みくまり山

山陵町    みささぎちょう

弥山      みせん

水間      みま

耳成      みみなし

女寄峠    みより峠

向淵      むこうじ

守道      もち

矢釣山    やつりやま

結崎      ゆうざき

吉隠      よなばり

伃邑      よむら

神武以来の出来事

    「神武以来」(じんむいらい)とは「先例のないことの誇張した表現」(広辞苑)とある。ただし読みは「じんむこのかた」とある。昭和31年の春闘を前に、総評副議長の太田薫(1912-1998)が2・1スト(昭和22年)を上回る「神武以来のストを打つ」と言ったのがきっかけで流行した。「神武以来の美少年・丸山明宏」、「神武以来の天才・加藤一二三」などいわれた。この年半ばからの好景気は「神武景気」と呼ばれたが、設備投資や輸入額を激増させはしたものの、労働者への見返りは少なく、「天照らす景気」と揶揄された。

   ところで気になるのが民主党代表選。いまのところ菅が一歩リードという新聞報道もあるが、現実は数の論理で決まるだろう。もし新首相誕生になれば、2006年9月の小泉→安倍→福田→麻生→鳩山→菅→小沢、なんと4年間で7人の首相。これこそ神武以来の出来事だろう。代表選はポイント制。国会議員822p、地方議員100p、党員・サポーター300pの計1222Pである。一部白紙投票が流出したり、名義貸しサポーターにも投票用紙が送られていることなどから公正な選挙とはいえない。週刊誌には小沢と青木議員とのスキャンダルが流出している。仁義なき権力争いで数ポイント差の勝負となれば紛糾することも考えられる。今回の選挙は事実上の首相を選ぶ選挙だけに明るく正しい選挙でありたい。

和歌山県の難読地名

   兵庫県では「朝来」を「あさこ」と読むが、和歌山では「あっそ」と読む。このように同じ字でも、場所、地域により、地名は大きくかわるから難しい。和歌山といえば、日本最古の金石文で知られる「隅田八幡宮人物画像鏡」がある。「すみだ」ではなく「すだ」と読む。

鮎川    あいかわ

粟生    あお

安居    あご

安宅    あたぎ

新子    あたらし

朝来    あっそ

石船    いしぶり

一雨    いちぶり

印南    いなみ

熊野    いや

初湯川   うぶゆかわ

衣奈    えな

煙樹ヶ浜 えんじゅが浜

生石ヶ峰  おいしが峰

相賀     おうが

逢阪峠    おうさか峠

小河内    おかうち

皆瀬川    かいぜがわ

上洞      かばら

垣内      かいと

笠田東     かせだひがし

河根      かね

上洞      かぼら

学文路     かむろ

苅藻島     かるも島

梶取崎     かんどる崎

吉備       きび

熊野速玉大社 くまのはやたま大社

御所       ごせ

小匠       こだくみ

木守       こもり

金剛峰寺    こんごうぶ寺

篠尾       ささび

冷水       しみず

周参見      すさみ

隅田        すだ

寒川        そうがわ

高家        たいえ

調月        つかつき

次々谷      つげだに

防己        つづら

動木        とどろき

鞆淵川       ともぶち川

富田         とんだ

中辺路       なかへち

二河        にこう

温川        ぬるみかわ

根来        ねごろ

早藤        はいくず

橋杭岩       はしくい岩

芳養         はや

日置         ひき

兵生         ひょうぜ

広          ひろ

吹井         ふかい

伏菟野        ふどの

樮川         ほくそがわ

北郡         ほくそぎ

鉾尖岳        ほこだい岳

真砂          まなご

三百瀬        みおせ

三十木        みそぎ

三尾川        みとがわ

南部          みなべ

箕島          みのしま

三百瀬        みませ

見老津        みろづ

梁瀬          やなせ

台風近畿接近

Photo

 台風9号の影響で朝から雨脚が強い。近畿地方には昼過ぎに接近。午後本州を横断するらしい。江戸中期の歌人、加賀千代(1703-1775)は安永4年9月8日に亡くなっているが、新暦では10月2日になる。むかしから習慣で千代女忌は今日である。「朝顔に釣瓶取られてもらい水」

北条早雲没(1519年)、加賀千代女忌(1775年)、リヒャルト・シュトラウス没(1949年)、湯川秀樹没(1981年)

9868   +0

9777   -91

9800  +23

9789  -11

9741  -48

9720  -21

9702  +18

9984  +282

9978  +18

9874  -104

9833  -52

9871  +49

9911  +40

9906  -5 

9917   +11

9984 +67

2010年9月 7日 (火)

女優の出自について

    深津絵里がモントリオール映画祭で最優秀女優賞を受賞した。田中裕子以来27年ぶりの快挙。寺島しのぶ(ベルリン国際映画祭)に続き日本人女優が海外でも高く評価されている。1973年生まれの深津絵里も芸歴は古い。「1999年の夏休み」(1988年)では「水原里絵」という芸名の少女だった。少女から大女優への道は険しい。ここまで来るのに言葉ではいいあらわせない努力があったのだろう。だが先輩の女優たちが扉を開けたことを忘れないでほしい。昨夜のNHK「ファミリーヒストリー」見てつくづく思う。関根恵子がデビューした頃は映画は斜陽産業だった。コストが安くできるピンク映画をほそぼそ作っていた。関根恵子にとってはラッキーだったともいえる。人気に陰りが見えた渥美マリに代わってすぐにヒロインの座を得た。当時の青年たちは新しいセックスのシンボルの登場を歓迎した。大映は倒産したが、関根恵子はテレビ「太陽にほえろ」のお茶汲み役でようやくお茶の間の認知をえることができた。熊井啓監督の「朝やけの詩」(1973)は異常と思えるほどのヘアー騒動だった。実際にあの映画は名作だった。農家の娘は関根恵子の祖父の代からの苦難の歴史が息づいていた。北海道の原野の大木を伐採し、根株を除去する作業のどんなに辛いことか。酪農は楽農ではなくて苦労だった。思えば女優の出自を語ることはタブーの時代があったと思う。松坂慶子しかり、山口百恵しかり、大竹しのぶ、浅野ゆう子。だが自らの暗い過去を「砂の器」の和賀英良のように隠すよりも、奮闘努力した家族のルーツを直視することはとてもいいことに思える。

因伯人国記

Photo 豪円

    中国地方北東部、山陰地方の東部にあって日本海にのぞむ因幡・伯耆両国32万5000石。伯耆といえば富士山に似ているので伯耆富士の名がある大山(だいせん)。紀成盛は大山寺の再建に尽くした。また鎌倉時代に佐々木高綱が山陰守護となる。南北朝時代には名和長年(?-1336)は隠岐から脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えて守護佐々木清高と戦う。山名氏は室町時代に強力であったが、戦国時代、山名豊国(1548-1628)や吉川経家(1547-1581)は豊臣秀吉の攻撃を受けて降伏。17世紀初めから池田長吉が封ぜられ、池田光政、池田光仲と江戸時代には池田氏が2国を統轄した。藩祖光仲から明治まで12代が続く。最後の藩主池田慶徳(1837-1877)は、将軍慶喜の異母兄。

    近世初期には、大山寺の復興に努めた豪円(1535-1611)、米子城主・中村忠二の重臣・横田村詮(1552-1603)が知られている。また町人として元和年間(1615-1623)、竹島に漂着占拠、以後80年間、竹島から物資の採取を続ける端緒を開いた米子の大谷甚吉(?-1618)、村川市兵衛。また幕末多額の献金をおこない、藩の許可のもとに反射炉を設け、1857年から洋式大砲の鋳造を始めさせ、さらに私設の農兵隊も編成した八橋郡瀬戸村(大栄町)の豪農武信佐五右衛門(1805-1889)、弓ヶ浜半島出身の藩儒景山龍造(1817-1872)も知られる。文化人としては米子の歌人・竹内自安斎(1638-?)がある。近代には、生田長江、生田春月、伊良子清白、尾崎方哉がいる。

忘れられた思想家・田岡嶺雲忌

    今日は山東京伝忌、田岡嶺雲忌、泉鏡花忌、吉川英治忌。嶺雲が亡くなったのは明治45年9月7日であるが、この年の夏は日本列島は、何とも重たい空気がたれこめていた。明治天皇が7月初旬から体調を崩し、7月30日午前零時43分崩御業された。そして9月13日大葬の日、乃木希典大将夫妻が殉死している。田岡嶺雲も明治を生きた人だ。だが嶺雲は天皇制や資本主義に対して鋭く批判を浴びせた。家永三郎の著作に「数奇なる思想家の生涯」があるが、すでに半世紀前のものであり、いまでは嶺雲の名さえ知る人は少ないであろう。

    田岡佐代名(1870-1912)。高知県土佐郡石井村の出身。評論集「嶺雲揺曳」(明治32年)によって広く文壇に認められた。硯友社などの文壇を批判し、下層社会の窮状を訴えて、当時の悲惨小説の理論的支柱となった。のちに社会主義に接近し、日露戦争後は、幸徳秋水らの運動を支援した。著作はことごとく発禁処分を受け、いまでは忘れられた思想家といえる。

コロンブスとオリノコ川

    今では誰でも知っているようなことだが、広大な南アメリカは、北アメリカにつながるひとつのせまい陸橋のところから南半球に折れ曲がっている。新大陸の発見者としての栄光につつまれているクリストファー・コロンブス(1451-1506)だが、彼自身はルネサンス的合理性と中世的神秘主義が混沌としていた人物であった。第1次航海(1492年)でサン・サルバドル、キューバ、エスパニョーラを発見したものの、彼は死ぬまでインドに到着したものと信じていた。

    そして、第3次航海(1498年)では南米のトリニダード島を発見、その島をまわって対岸のパリア半島に到着した。部下たちはパリア湾にそそぐオリノコ河口のデルタに上陸した。これはヨーロッパ人とアメリカ大陸との最初の接触だった。コロンブスは最初これを島だと主張したが、オリノコ川から流出する水量が多いので、「いままで知られなかった非常に大きな大陸(ティエラ・フィルメ)の一部」と判断した。ところが、この地域を探検しているうちに、コロンブスは地上の天国の入口のような感じにとらわれ、「オリノコはその源を地上天国に発している」と国王に報告している。

    オリノコ(Orinoco)とは、インディアンのカリブ語の名詞で「川」を意味する。これがスペイン人に固有名詞と間違えられ、地名になったものである。

2010年9月 6日 (月)

興譲館

   江戸時代、藩校が盛んであった。萩の明倫館、秋田の明徳館、会津の日新館、水戸の弘道館。なかでも米沢の上杉鷹山(1751-1822)は儒学を奨励し、興譲館は知られている。細井平洲、神保蘭室、片山一積らが教授にあたった。だが同名の藩校が各地に存在している。小城藩、徳山藩、荻野山中藩。それから民間教育機関として、甲斐の谷村(やむら)興譲館、私学の岡山興譲館がある。

    たとえば甲斐国では由学館という藩校があるが、甲府代官所の山本大膳が文政6年に「石和教諭所」(八代郡)とよばれた庶民教育の機関を設立した。のち雨宮哲助(六園)は石和教諭所、甲府学問所を勤めた後、代官佐々木道太郎に招かれて谷村興譲館の教授として、活躍した。槇田斯興(1830-1889)、田村一郎、笠井光謙らの教授へと明治まで存続していた。米沢と岡山興譲館は高等学校として現存する。

2010年9月 4日 (土)

雪舟とダ・ヴィンチ、左甚五郎とデカルト

   邪馬台国の女王卑弥呼は魏に遣いを出した。つまり卑弥呼は曹操や諸葛孔明ら三国志の人と同じ時代の人であったことがイメージできる。このように日本史は世界史とつねに関連している。源義経=ジンギスカンというトンデモ学説も同時代人だから言えることである。戦国時代の風雲児織田信長(1534-1582)がロシアの絶対王政のイワン雷帝(1530-1584)やエリザベス1世(1533- 1603)とほぼ同時代ということも頭に入れておけば世界史と日本史が関連して覚えられる。雪舟とダ・ヴィンチはほぼ同時代。雪舟が周防の大内教弘のはからいで「四季山水図」(山水長巻)を描いていたころ、ダ・ヴィンチはミラノのルドビーコ・イル・モーロに仕えて「スフォルツァ騎馬像」を制作していた。東西の最高の画家が同時代に生きたということも興味深い事実である。徳川家康とシェイクスピアの没年は同じ1616年だが、1600年の関ヶ原合戦の年にシェイクスピアは悲劇「ハムレット」を書いていた。江戸初期の大工の棟梁、左甚五郎(1594-1651)と「われ思う、ゆえにわれあり」の哲学者デカルト(1596-1650)という一見関係のなさそうな二人が同時代人だという話も面白い。篤姫と西太后も同じ年。徳川家と清朝の滅亡と共通する。

幸せを呼ぶ青い鳥

    根岸吉太郎監督の映画「遠雷」のラストで2人が桜田淳子の「わたしの青い鳥」を歌うシーンがある。メーテルリンクの「青い鳥」に代表されるように青は幸せを呼ぶ色とヨーロッパでは言われている。だが、理由はそれだけではない。「サムシング・ブルー」(なにか青いもの)という意味が隠されているのだろう。マーザーグースに「なにかひとつ古いもの、なにかひとつ新しいもの、なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの、そして靴の中には6ペンス」という歌がある。これは花嫁の幸せを願うおまじない「サムシングフォー」で、4つを身に着ければ幸せになれるという。一般的にガーター・ベルトに青色のリボンを飾るのが一般的であるが、「わたしの青い鳥」を一曲デュエットするのも一興だろう。ちなみにメーテルリンクの原文では、この鳥は tourrterelle となっており、キジバトである。

ペネロペの機織

   イタカの王オデュッセウスの妻ペネロペは、夫がトロイア戦争のために20年も出征しいてる間、留守を守っている。数多くの求婚者たちがイタカの屋敷にやってきて、オデュッセウスが死んだはずだから再婚すべきだと主張し、言い寄るのであるが、ペネロペは今織っている壁掛けが仕上がった時に新しい夫を迎えるつもりだ、と巧みに言い逃れ婚礼を延期していた。夜になると、彼女はその日織った箇所をほどいていたから、その日が訪れることは決してなかった。そして遂にオデュッセウスが帰還して、求婚者たちは皆殺しにされ、2人は再会を果した。「ペネロペの機織」は結婚の貞節の象徴とされる。英語で、「The web of Penelope」とは、「決して終わることのない仕事」という意味で使われます。

周防・大内氏の盛衰

    家譜によると、百済の聖明王の第3子琳聖太子が周防の多々良浜に着岸し、その子孫が大内村(山口市)にすみ、以来姓を多々良、氏を大内と称したという。この所伝は伝説の域をでないが、多々良という名前からもうかがわれるように、渡来系氏族が製鉄技術をもって周防に土着し、発展したことは考えられる。南北朝期、弘世は南朝方として周防の統一をなしとげ、さらに長門の厚東氏を討って室町幕府より周防・長門・石見の守護職に任じられ、本拠を山口に移して祇園社を勧請するなど京都を模した町づくりをおこなう。義弘は豊前の守護職を兼帯するなど幕府内に重きをなし、また対朝鮮貿易につとめて財政的発展の基礎をつくる。義隆は北九州を制圧し、全盛期をもたらすが、1551年家臣の陶晴賢と対立して自刃、義長も1555年の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就に敗れたあと、自刃して滅亡する。

やさしい英語

① Ⅰ wake up.

② Ⅰ turn off the alarm clock.

③ Ⅰ turn over in bed.

④ Ⅰ get up.

⑤ Ⅰ get out of bed.

⑥ Ⅰ takc a shower.

⑦ Ⅰ wash myself.

⑧ Ⅰ dry mybody.

⑨ Ⅰ turn off the lights.

⑩ Ⅰ get into bed.

   *  *  *  *  *

① 目がさめる

② 目覚ましを止める

③ 寝返りをうつ

④ 起きる

⑤ フトンから出る

⑥ シャワーをあびる

⑦ 体をあらう

⑧ バスタオルで体をふく

⑨ 電気を消す

⑩ 布団に入る

2010年9月 3日 (金)

グローバル言語と世界史

    英語が広く世界中で使われている言語であることは誰しも認めるところである。英語を第一言語(母語)として使う人がおよそ3億7500万人、第二言語(共通語)として使う人がおよそ3億7500万人。さらに、英語を外国語として学びかつ使っている人が7億5000万人で、これらを合わせると世界の英語人口は15億人を超えるであろう。インターネットの普及はさらに英語情報の普及を拡大している。だが英語を本当に「グローバル言語」として無抵抗に認めていいのだろうか?

    わが国では、明治以来、「英語信仰」「英語中心主義」があった。文明開化は国是であり、進んだ欧米の文化を移入し、近代化することは必須であった。この傾向は戦後もさらに加速されている。トニー谷のような気障な英語をペラペラ話すタレントが人気者だった。親たちは競って子供を幼児期から英会話教室に通わせた。最近、ある企業は英語を社内公用語とすると宣言した。またある総理は所信演説で意味不明のカタカナ英語を羅列した。次の総理は漢字を変な読み方をして知性を疑われた。次の総理は宇宙語といわれたが、結局、人の心をうごかすことはできなかった。コミュニケーションは大事だ。しかし、今もとめられている能力は外国語を話すよりも、日本語を正しく話し、伝える当たり前の能力であろう。

    世界史的な流れで考えてみよう。英語が世界の中で優位になったのは、この2世紀のことである。ビジネスの世界では産業革命により、「世界の工場」といわれたことが大きい。フランスのナポレオンがイギリス経済に打撃を与えるために大陸封鎖令を布いたことが、かえって大陸諸国の反抗を招いて、滅亡を早めた。つまりもしもナポレオンがトラファルガーでイギリスを破っていたら、フランス語がグローバル言語になっていたかもしれない。いまでもフランス人の大方は英語が嫌いだという。フランスでは自国語を守るために、1994年にフランス語使用法(トゥーボン法)を制定している。公文書や国際会議でフランス語の使用を義務づけ、テレビやラジオでの外国語の濫用を防ぐための法律である。また世界史的に、生きながらえた民族は漢民族、朝鮮族、日本民族である。たとえばピラミッドを築いた古代エジプト民族や旧約聖書のユダヤ民族が現在のイスラエル人のご先祖とは思えない。なぜ漢民族らは激動の歴史の中で生きながらえたのか。民族としてのアイデンティティーを維持できたのは、異民族の侵入にあっても、儒教、仏教、道教、民間信仰、などはもちろん、詩文、絵画、書などを重んじる文化的伝統性を継承したからであろう。自国の言語を捨てた民族は滅ぶことを歴史が証明している。

2010年9月 2日 (木)

戦国大名の出現

    戦国大名の成り立ちはさまざま。①武田氏、大内氏、島津氏など守護大名がそのまま戦国大名に成長した②上杉氏、陶氏、尼子氏などのように守護大名の家臣の頭である守護代が、下克上で主君を倒し、戦国大名にのし上がっていった③伊達氏、浅井氏、毛利氏などのように国人たちが一揆(同盟)を結び、その中から一人が頭角を現していった④伊達宗瑞(北条早雲)、斎藤道三のように出自不明で実力で大名の座を占めた。など色々ある。

武田氏

清和源氏、新羅三郎義光の3男義清が武田郷にすみ、武田氏を称したという。名氏の地については、従来甲斐武田郷(韮崎市)と考えられてきたが、最近は常陸武田郷(勝田市)説が有力視されている。鎌倉時代に甲斐守護に任じられ、のち安芸守護を兼任。1519年、信虎は本拠を躑躅ヶ館に移した。

上杉氏

上杉頼重の孫憲顕以降、関東管領職を世襲、関東に一大勢力をもつ。越後上杉は山内上杉からの分流。1510年、長尾為景は房能を滅ぼし、越後の実権を握る。

浅井氏

北近江の守護大名だった京極氏の被官から身をおこした浅井亮政からはじまる。亮政、その子久政、さらにその子長政と3代にわたって発展する。長政は六角義賢を破り、近江半国の戦国大名となった。

尼子氏

尼子経久は、守護である京極政経を追放し、出雲の守護となった。

楽水楽山

Img_0001 孔子廟大成殿内の孔子像

   猛暑が続くが、この夏、山や海へ出かけた人も多いだろう。「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」という。『論語』雍也第6にある孔子の言葉である。

  知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ

  知者は動き、仁者は静かなり

  知者は楽しみ、仁者はいのちながし

    水は形を変えよどみなく流れるように、知恵ある人は臨機応変に事にあたり、巧みに処理をする。山は安らかにゆったりとしていて動かないことで、人の本来の姿を取り戻せるというのである。孔子は知者を評価しつつ、仁者をいっそう高く評価した気持ちがよくうかがわれる。

    口先の巧みな菅首相に比べ、口が重くどっしりと落ちついている小沢。菅や鳩山のような軽い人は海をイメージするし、小沢のような鈍重な人は山をイメージする。小沢出馬するや、大山鳴動、菅・鳩山が慌てふためき、「トロイカ+1」会見は滑稽であった。英米は菅や鳩山を好み、中国などのアジアは小沢を好む。何事にも対照的なのが面白い。

情報産業と本の運命

    IT・情報技術の進歩は流通時間の短縮をもたらし、情報戦略を駆使した国際的な競争の激化や、ロングテールという新しいビジネス形態も見られるようになった。アマゾンはもともと洋書販売であったが、いまでは在庫商品の豊富さで1年間に数点しか売れない商品であっても、提供することでビジネス拡大に成功している。インターネット販売の成功例といえる。情報産業という新しいビジネスではプラットホーム(通信網)を整備し、いかに課金するシステムを構築するかが不可欠である。都市部ではネットカフェ、ブックカフェという新しい読書スペースも多数現れている。図書情報の電子化によってますます非図書館(紙の本のない図書館)が出現していく。世界のインターネット普及率をみてみよう。2007年のインターネット利用者数は14億7006万人で、世界人口約64億人の中で24%くらいの割合である。普及率の高いのは、オランダ91.4%、カナダ85.2%、ノルウェー80.9%、ニュージーランド80.4%、スウェーデン76.8%である。IT化の恩恵を受けられるのは先進国であり、途上国の中でも一部の富裕層の人に過ぎない。通信網の整備が行き届かない山間部や離島の人々の中にはIT化された製品を使いこなせない人が多数いる。このような情報格差(デジタル・ディバイド)をいかに解決するかが今後の課題である。また今年は「電子書籍元年」といわれるように、アップルの多機能情報端末iPadアイパッドの登場を契機に、日本でも電子書籍の普及が現実味を帯びてきた。プラットフォームの整備という課題はあるものの、急伸する電子書籍というのは書店や図書館にとって抗いようのないのも事実である。日本の書籍・雑誌の年間販売額は約2兆円といわれ、企業にとっては大きな魅力である。アメリカでは今年、百年以上続いた全米にチェーン店をもつ書店が身売りされたという。紙の本は時代遅れとなり、書店は姿を消すのか。いま出版流通は大きく変わろうとしている。

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