川端康成と浅草
川端康成(1899-1972)は戦前の浅草が好きだった。大正12年の震災のとき、jまだ帝国大学国文科の学生で(当時24歳)、本郷区駒込千駄木町で被災したので、震災前後の浅草を鮮明に記憶している。震災前の浅草を象徴したのが十二階(凌雲閣)と活動、浅草オペラだった。震災後の浅草は軽演劇団カジノ・フォーリーである。川端が昭和4年12月から連載した「浅草紅団」という新聞小説は、震災後の浅草を徘徊する不良少年少女グループの話だ。ヒロイン弓子は「私は地震の娘です。地震の真中で生れ変わったのよ」と言う。そして「カジノ・フォウリイは(略)1930年代の浅草かもしれない。エロティシズムと、ナンセンスと、スピイドと、時事漫画風なユウモアと、ジャズ・ソングと、女の足と」と書いている。浅草十二階については、小説の中で次のように描いている。
古い浅草の目じるし、十二階の塔は、大正十二年の地震で首が折れた。私はそのころまだ本郷に下宿住まいの学生だった。昔から浅草好きの私は、十一時五十八分から2時間と経たぬうちに、友だちと二人で、浅草の様子を見に行った。(略)「ほら、あんなに十二階がぽっきり折れちゃってるだろう。見物が大勢登ってたんだから、たまらないや。皆振り飛ばされたさ。今見て来たんだが、瓢箪池にもその死骸が、うぼうぼ浮いてるんだぜ」
川端はその後、工兵隊が爆砕するときも、凌雲閣を野次馬見物している。
« 呉の諸葛一族 | トップページ | 戦国大名領域研究1560年 »
「日本文学」カテゴリの記事
- 堀辰雄と眼鏡(2012.05.28)
- 崇徳院御歌(2012.05.28)
- 奥の細道・尾花沢(2012.05.27)
- 三ヶ島葭子と左卜全(2012.05.26)
- 石川啄木と函館大森浜(2012.05.25)



コメント