マザー・テレサが本当にライトアップを望んでいるのだろうか?
8月26日は、貧しい人々の救済に尽くした修道女マザー・テレサの生誕100年にあたる。キリスト者はキリストの誕生日や復活祭は祝うが、信者の一個人の誕生日をビルのライトアップで祝うというのは、あまり聞いたことのない新しい風習である。光輝くネオンで夜の帳を照らしたいと思うのはいかにもアメリカ人的な発想かもしれない。ところがニューヨークの摩天楼の象徴であるエンパイア・ステートビルでは、マザー・テレサ生誕100年のライトアップ申請を断ったというニュースがあった。宗教色の強いニューヨークでは、これに対して大規模な抗議集会が開かれるという騒動にまで発展している。他国の話、それもキリスト世界の話、無関係なのでどうのこうの言える立場ではない。「特定の宗教家をたたえるライトアップはしない」という拒否の理由には、うなずけるものがある。摩天楼のライトアップと比べると、話の規模は小さいけれども、日本でも公共施設のロビーの管理などで同様の問題が起きている。公共の大きな施設には、かなり広いロビーというか余裕スペースがある。そこを潤いのあるものにしたいので、花や美術品を飾る。役所の職員だけでは、なかなかセンスあるものもできないので、見かねた市民グループがボランティアの美化の一環でロビーの展示をいろいろと工夫する。花を飾り、絵画(かなりの芸術家の作品)、コンサート(音楽大学を卒業されたセミ・プロ)など素晴らしい。ここまでは誰が考えても賞賛されるべき活動である。だがコンサートの人が集まり、地元のケーブルテレビが実況中継するようになると、市長がいつも現れて市民に挨拶をして、テレビに登場する。選挙活動であることはいうまでもない。善男善女が多数集まる。いつもピアノや声楽の方は特定グループの発表の場となる。絵画も特定のグループの指定席となる。本来であれば、公民館などで使用料を払って、絵画の展示会や音楽会をしなければいけないところ、このロビーを使えば無料で感謝されて何でも思いのままに企画できる。何年間も特定グループがロビーを意のままに使用すれば、担当課長といえども異を唱えることなどできなくなる。「庇を貸して母屋とられる」の譬えのごとく、団体はあれこれ善意のようにみせかけて実利を得ている。だから公共を預かる者は強い覚悟で拒むべきで、最初から拒むのが正解なのである。もちつもたれつの関係、地方にいくほどよくある構図だがそこが悪の温床となる。行政の特定団体との癒着は好ましいことではない。アメリカでキリスト教団体が強いからこそ、むしろケジメをつけることは正しいことのように思える。そもそも天国のマザー・テレサが本当にネオンぎらぎらと自分の誕生日を祝ってほしいのだろうか。イスラム原理主義者のテロのターゲットとなって抗議集会で多数の死者の生け贄の血を見てマザー・テレサがお喜びになるとでも思っているのだろうか。マザーの行動を広めようとしている者たちは、何か別の目的で自分たちの権勢を拡張しようとしているとしか思えない。公共施設の花を代えたりする善行は隠れてするもので、仰々しく市民文化賞などもらう団体にも何かしらの魂胆があるのである。
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まったくそのとおりですね。
なにやら、日本も「ボランティア」花盛りですが、そのほとんどの人には「偽善」が見え隠れして、私も眉をひそめております。
ほんとうに「滅私奉公」の精神を以てボランティアしている人というのは数少ないですが、マザーテレサという方は、その数少ない人の1人だと感じております。
そうした「滅私」の方が、ライトアップなど望むはずもありません。
ライトアップをしようという人たちは、マザーテレサが、「そんなことを望むような俗人だ」と侮辱していることに他なりません。
本人の意向を無視し、侮辱することになってでも、ライトアップしようとするところに「作意」と「偽善」が見えます。
「善意の人」の栄光に群がり、「悪意の人」が利得を得ようとする姿を目の当たりにさせられると、厭世的な気分になってしまいます。
投稿: 世界史ドットコム | 2010年8月20日 (金) 13時32分