中世末期の摂津・山科・播州の本願寺
石山本願寺は1496年蓮如によって創建された浄土真宗の寺である。当時の呼称は大坂御坊・大坂本願寺である。石山本願寺の呼称が普及したのは寺が消滅して以後の江戸時代になってからである。寺地は上町の北端にある小高い丘に造られた。台地にそった坂に町が形成されたことから、この地は「小坂」といわれた。「大坂」と呼ぶようになったのは、2年後の1498年頃からである。本願寺が淀川下流の低湿地に築城されたことは、すぐれた治水技術をもち、それで農民の指導にあたったものと推察される。周辺にある本願寺も若江(東大阪市)にあった若江城なども低湿地にあり、何度となく水害に襲われたが、治水に成功したと思われる。石山本願寺を中心として周辺にも多くの寺が存在していた。船場、深江、大物道場(尼崎市)、門真、若江(東大阪市)、萱振(八尾市)、顕証寺、堺御坊、播州に東本願寺姫路別院・船場本徳寺(船場御坊)など大寺院があった。1532年、法華宗徒(日蓮宗徒)らが山科本願寺を攻撃、炎上したため、証如は大坂へ退去して、石山本願寺が全国本願寺門徒の本山となり、以後大いに発展して戦国の一大勢力となった。1580年、織田信長との抗争の末、顕如は勅命により本願寺を明け渡し、同年8月2日、炎上した。秀吉による大坂城の築城が始まったのは、それからまもなくのことである。(1583年に開始、1585年に完成)
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