明治天皇と泉岳寺
赤穂義士たちの討ち入り以来、地元では赤穂城内の大石邸で、小さな祠が設けられひそかに祀られていた。しかし幕府をはばかって、正式の神社にはしていなかった。江戸期、巷間では赤穂義士は芝居などでもてはやされてはいたものの、事件をそのまま脚色することは禁じられていた。たとえば大石内蔵助のことを大星由良助、吉良義央を高師直と変えていた。明治維新によってこのような状況は一変する。
明治元年、京都から江戸に東幸した17歳の明治天皇は、泉岳寺の義士の墓に勅使を遣わした。これは義士・義挙の公認である。赤穂事件は、義士が天皇への忠誠、つまり忠君思想の普及に一役買うことになってしまった。この後、大石内蔵助隠棲の地である京都山科と赤穂に、赤穂義士を祀る大石神社が公認された。
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