「龍馬伝」と土佐山内家の末裔
嘉永元年に藩主となったのは、分家の出身だった山内豊信(容堂の号が有名だが)だった。容堂は吉田東洋を重用して藩政改革をおこない、長崎開港のときは岩崎弥太郎を派遣して海外貿易をすすめ、蒸気船の製造にも着手させた。容堂は坂本龍馬の献策をうけいれ、徳川慶喜に大政奉還を建白した。これが容堂の最大の功績となった。容堂の次の当主豊範は、廃藩置県まで高知藩の知事をつとめたりしたが、明治19年に亡くなった。幼くして当主となった豊景は陸軍士官学校に学び、やがて累進して陸軍少佐になった。豊景の跡を継いだ豊秋も軍人の道を歩んだ。晩年、司馬遼太郎の「功名が辻」を読んだ豊秋は、愚図でダメな男として描かれていることに憤慨し、「一豊は剛毅・謀将にして、わが家ではピカ一なり」と抗議したと伝えられる。
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