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2010年7月20日 (火)

区恵恭の生涯

   遣唐使「井真成」とは如何なる人物か?若者か、老人か。わずかに墓誌にその名前が記録されただけである。日本人だから問題にするのだろう。中国には異人の墓誌はたくさんある。正史その他の資料にも全く何も残さず死んでいった人たち、いわば名もなき歴史人物とでも呼ぼうか。詩人の区恵恭(くけいきょう)もそんな名もなき者の一人である。南朝宋(420-479)の頃の人ということだけは判っている。宋の詩人といえば謝霊運(385-433)が著名であるが、区恵恭の名前を知っている歴史家がいるだろうか。ネット検索でも1件もヒットしない。(ただし旧字体で検索すれば中国サイトで多数ヒットする)生卒年とも不明で、作品は一編も残っていない。外国人であったらしく、監典事という下級職名であり、下層階級に属する人であったと想像する。おそらく謝霊運より後の人であろう。謝霊運は反逆罪によって死刑にされたが、区恵恭の生涯が幸福であったか、不幸であったか、誰にもわからない。区恵恭のことは6世紀前半に鐘嶸(しょうこう)が著した『詩品』に一つの挿話が記されているからである。

    区恵恭はもともと外国人で、顔師伯の下で下級官僚となった。顔師伯が詩文を作ると、いつも恵恭がひそかに手を入れて完成した。のちにパトロンの怒りに触れて放逐された。大将軍劉義康が北の邸を建てたとき、選ばれて作業責任者にあてられた。そのころ、謝恵連は大将軍の記室参軍を兼任していた。恵恭は時おり彼のもとに出かけては、かの安陵君のいとなみをともにし、終わると「双枕の詩」を作って、謝に見せた。謝がいうには、「君はなかなかの才能だが、このままでは人に注目されまい。しばらく謝法曹(恵連)の作としておくがよかろう」。その詩を謝が大将軍におくると、彼は一読してすばらしい出来だと賞賛し、錦ニ反を謝にたまわった。謝はそれを辞退して、「この詩は、殿の作業責任者の作品にございますゆえ、なにとぞ彼にたまわり下さいますように」といった。

    鐘嶸がなにゆえこうした話を紹介したのだろう。詩が上流貴族階級に独占されて、次第に遊戯的な退廃的な風潮となっていた。男色も流行していた。区恵恭のような文才ある美青年が床の相手をし、ゴーストライターとなっていたことを物語っている。「双枕の詩」は伝わっていない。

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