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2010年7月31日 (土)

夏のミステリー・木乃伊が年金をもらっていた

   東京都内最高齢111歳のご老人が実はすでに30年も前に死んでいて、自宅で白骨化した遺体が発見されたというニュースは奇妙な事件である。年金610万円が何者かによって引き出されている。横溝正史の小説よりも猟奇的である。不正受給の疑いがあるが、犯人捜査は警察に任すとして、役所はいったい30年以上の間、どんな対応をしていたのだろうか。111歳という高齢者であれば気づかないものなのだろうか。年金受給には現況届という書類を提出することになっているが、それは本人でなくてもできるだろう。そうするとすでに死んでいても、死亡届がでていなければ、戸籍上いつまでも生きていることになり、年金受給資格はあり続ける。杜撰なお役所仕事の不備をつく不正受給者は、ほかにも多数いるのではないだろうか。それにしても木乃伊となった家族と30年も暮らすというのは、円谷英二の「恐怖劇場アンバランス」よりも奇怪な話だ。事実はドラマよりも恐ろしい。

森鴎外と団子坂

    森鴎外の「青年」に登場する小泉純一は田舎から出てきて東京方眼図を片手に根津神社から千駄木の団子坂に向かう。団子坂の由来は、坂近くに団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれる。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並びんでいた。「四つ辻を右へ坂を降りると右も左も菊細工の小屋である」と書かれている。実際に森鴎外は明治25年から大正11年まで、60歳で亡くなるまで、この地に住んでいた。鴎外は邸宅に2階建で12畳の書斎を増築し、遥か遠くに品川沖が眺められるので観潮楼と命名した。この地に昭和37年「鴎外記念本郷図書館」を開設した。(文京区千駄木1-23-4)

海老蔵・麻央結婚披露宴

    昨夜、市川海老蔵・小林麻央結婚披露宴のテレビ番組をみた。東京・芝公園のザ・プリンスパークタワー東京で芸能界・政財界から1000人の出席者、5億円の超豪華披露宴だった。鏡開きでは森喜朗・小泉純一郎らと共に、民主党の前原誠司大臣の顔も見えた。だが当日は両院議員総会があったことをネットで知る。前原は「冠婚葬祭は人生で極めて大事なセレモニーだ。社会通念として、どちらを優先させるのかということを、政治家は判断する」と述べている。公務より私的な付き合いを優先したということなのだろうか。かつて自民党の山東昭子は参議院環境特別委員長を務めていた時、テレビ番組「ゴルフだよ人生は」の収録のため本会議を欠席し、委員長辞任に追い込まれたケースがある。「冠婚葬祭だよ人生は」と前原誠司は嘯くが、政治家と歌舞伎役者との付き合いが公務より優先するという説明には納得しがたいものがある。結果は高視聴率で海老蔵・麻央の大勝利。日本社会はセレブが高級ワインをがぶ飲みし、海老料理をむしゃぼる様をテレビで庶民がみて楽しんでいるという構図。平和な国家ということなのだろうか。

2010年7月30日 (金)

原発情報は必要だ

Photo_3 サイエンス・ライブラリーは国民にとって重要な専門図書館である

  今年の広島平和式典に米大使が参列するという。オバマ大統領の「核兵器なき世界」演説の影響であろう。世界は変わっている。

    昭和38年、茨城県東海村の日本原子力研究所が、日本最初の原子力による発電(出力2400KW)に成功した。当初、「人類の未来のエネルギーは原子力」とまで言われ、膨大な税金が費やされた。結局、原子力とは20世紀の軍事技術として咲いた徒花であった。巨大な事故リスク、先の見えない放射性廃棄物の管理、財政的破綻など、今では世界は原子力からの撤退が始まっている。しかし、すでに膨大に生み出してしまった放射性廃棄物の後始末に悩んでいる。原発は「トイレなきマンション」ともいわれる。国と電力会社は瑕疵物件を国民に売り続けてきたのである。原発解体がこれからの大問題となる。そんな原発退潮ムードを反映してか、関西唯一の原発の資料を公開している大阪科学技術センターが運営している科学体験館サイエンス・サテライト(大阪市北区)が、8月末で閉館することが決まった。ここには全国の原子力の情報や資料が約230冊集められている。これらの資料は最寄の図書館に寄贈することも難しく、閉館後に処分されるという。科学体験館が無くなると、東京へ行くか、地元の電力会社を訪れるしか方法はない。ほんとうに重要となるのはこれからなのに無責任なやり方である。国民への情報提供のあり方からも問題のあることであるが、異議を唱える人はいないものだろうか。

三好之長の死

    三好之長(1458-1520)は細川政元、澄元に仕えた部将。室町時代、永正16年から17年にかけて、畿内は細川高国と澄元の激しい抗争が繰り広げられた。細川澄元と三好之長は兵庫に上陸、高国方の越水城(西宮)をめぐる攻防戦が戦われた。2月越水落城、高国は京へ逃れる。三好之長は京都を占拠する。近江勢4万~5万からなる細川高国の軍勢と、これを迎え撃った細川澄元の軍勢が、5月洛中等持院で激突した。三好之長は周到にも淡路水軍を支配下におさめて、一帯の制海権を手中にしていた。さらに西岡一揆衆を味方にとりつけ、京都への通路を確保していた。ところが阿波の国人にさえ逃げられ、わずか4000~5000の兵しかなかった。之長はとらえられ殺される。澄元も阿波の勝瑞城に逃れたが病死。あっけない幕切れとなった。

紙文明1900年、印刷文明560年

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   トーマス・フランシス・カーター(1882-1925)は、その著書「中国における印刷の発明とその西漸」のなかで「紙の発明とその伝播は印刷の発明とともに、宗教改革の道をひらき、教育の普及を容易にし、火薬・羅針盤の発明とならんで、近代世界を形成する上に大きな役割を果した」と述べている。今日いうところの紙は、中国において後漢の宦官・蔡倫が樹皮・麻くず・ぼろ・魚網くずなどの植物繊維を原料としてつくつたのが最初であると後漢書が伝えている。紙文明は、15世紀のグーテンベルクの印刷術の発明とともに、近代文明と教育の普及を担ってきた。だが20世紀の印刷物の氾濫は膨大な量に達し、その保存・整理が問題視されてきた。今年、日本でもアイ・パッドの発売により、紙の図書をめぐる状況は大きな変化をみせている。自分でスキャナーを購入して、紙の本を裁断機で切断して、スキャンして、自分で電子書籍をつくる人も出てきた。愛書家が聞いたら卒倒しそうな話だが、狭いマンション暮らしの人にとっては本の保管スペースなどをコストで換算すれば、処分するほうが得策と考えるのだろう。税金で運営される公共図書館でも書庫の収納限界に達した館では、電子化が促進される時代になってきた。本に対する専門的な知識を持たない職員の多いところでは、貴重な書籍が失われていく現状を知っているものにとっては、電子書籍元年という呼び声(新商品の販売戦略の営利行為)が愚行、蛮行の時代の時代の到来であることを確信している。なおカーターの大著は「中国の印刷術」として東洋文庫の一冊として翻訳されているが、執筆動機にはフランスのぺリオ(1878-1945)の千仏洞の経典の発見などの影響もみられる。つまり欧米人が砂漠の敦煌から東西文明の交渉史に衝撃を受けた著作なのである。文化史や文明論、および文化行政は1000年スパンの巨視的な態度でみなければいけない。

ありふれた日常

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  朝7時に起床。顔を洗って、歯を磨いて、それから朝食。トーストとサラダとコーヒー(砂糖なし)を食べて、トイレに入る。朝刊を見て、7時30分、BSハイビジョンで「ゲゲゲの女房」を見て、洗濯物を浴室に干す。(カワックで2時間半)フローリングを掃除。スーパー万代で買い物。10時に「女性の書斎ひとり好き」営業開始。銀行さんからセミナーの案内の電話。大阪ガス点検。夏休み中なので朝から小学生女児2人来館。昼食はライスと焼肉、目玉焼き、サラダ。午後から女性ブロガーの取材あり。ビデオの予約録画。妻は美容院へ。昼寝。3時半高校講座を見る。夕方から店番。ブログ記事のネタさがし。6時からナイター。今日も負ける。7時閉店。夕食は野菜いため、パン、スパゲッティ、キャベツのスープ。晩は入浴後、映画「メリー・ポピンズ」を観る。「チム・チムリー、チム・チムリー、チム・チム・チェリー、わたしは煙突掃除屋さん♪」と懐かしい。妻はこの有名な映画を観たことなかったという。セント・ポール寺院(ロンドンの金融街にある。イギリス旅行で行ったことがあるぞ)の鳩に餌をあげる老婆の話や銀行の話が最高。難病、純愛物にものに飽きた人には、奇抜で独創的なファンタジーがオススメ。ネットを見て12時に就寝。昨夜は疲れて快眠できた。

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2010年7月28日 (水)

室町時代の関東

    関東では、足利成氏(1434-1497)が上杉憲忠を殺害したことから享徳の乱(1455-1482)が起こった。成氏は幕府からの追討を避けるために下総の古河に移った(古河公方)将軍善政は成氏追討のために兄弟の足利政知を関東に派遣したが。政知は鎌倉に入れず、伊豆の堀越に御所を構えた(堀越公方)古河公方と堀越公方の対立は30年近くに及んだが、文明14年、幕府と和議が成立し、享徳の乱は完全に終息した。しかし、これによって関東の政治秩序は乱れ、これ以後も関東の動乱はおさまることはなかった。

    成氏は鎌倉公方将軍の庶子に生まれながら、永享の乱・結城合戦によって父と兄弟を討たれ、信濃に逃避行の漂泊生活を送った。12歳で鎌倉に迎えられて第5代の鎌倉公方となったが、反上杉勢力の旗頭にたてまつられたのであった。

あやかり商法とデモクラシー

   街を歩くと、ぺ・ヨンジュンの巨大広告がある。眼鏡市場。やはり有名俳優を起用するとインパクトがある。契約料は高そうだ。昨年のCM契約数は次のタレントたち。

13社 木村拓哉 石川遼

12社 上戸彩

11社 大橋のぞみ

10社 菅野美穂 相武紗季 仲間由紀恵 宮崎あおい

    毎日、漫然とテレビをみているとよくみる顔ぶれである。イチローや松坂大輔もCMでみる。だが何のコマーシャルだったのか記憶がない。むかしはCM商品とタレントが一致していた。大村崑とオナミンC、美空ひばりと金鳥、加山雄三とコカ・コーラ、三船敏郎とサッポロビール、アラン・ドロンとダーバン、ブロンソンとマンダム、渥美清とパンシロン、笑福亭仁鶴とボンカレー、保積ぺぺとコルゲンコーワ、大野しげひさとシャチハタ、王貞治とリポビタンD、三船敏郎とアリナミン、弘田三枝子とアスパラ…。リキホルモというのは力道山にあやかっているらしい。ナショナルの泉大助やキンカンの三輪完児は、その人を見るだけで商品が浮んでくる。いまのCMは販売促進に効果があるのか疑問だ。人気のあやかり商法は、商品だけでなく、ドラマや映画、ロケ地ツアー、ご当地ソング、ゆかり記念館、戦国武将グッズ、あげくは選挙・投票、つまり政治もそうである。しかし人気者にあやかってもコケたケースも多い。イチローが大リーグに挑戦して大成功を収めるや、「刑事イチロー」(加藤晴彦主演)というのがあったが、歴代最低視聴率だった。タイトルだけが妙に記憶に残る。先の選挙ではタレント候補者が多数落選したがもう忘れつつある。民主主義や支持率という一つの幻想も人気あやかりという妖怪が支配しているようだ。

リトルDJ

   映画「リトルDJ 小さな恋の物語」永田琴監督(2007)はカワイイ作品である。主役の神木隆之介くんは大河ドラマ「義経」のとき、幼少期を演じた少年で記憶にある。神木くんが自分の病気にきずき始め、福田麻由子ちゃんと病院を抜け出して、「ラストコンサート」を見に行く。この映画は少女が自分が白血病と知りながら明るく生きるという内容だった。麻由子は隆之介がそんな病気とも知らずに連れて行ったのだ。そのあと、星を見せたくて、ロープウェーで函館山に2人で登る。雨に遭い、頂上で野宿。突然に容態が悪化し、病院へ搬送される隆之介。西田尚美が麻由子にビンタ。このパターンは「世界の中心で、愛をさけぶ」でもよく見られる展開。映画も「ラストコンサート」(1976)というのはベタだし、最後のリクエスト曲がキャンディーズ「年下の男の子」というのもベタな感じがするが、主演の2人がフレッシュなので最後までみれる。白血病を難病としているので時代を1977年に設定している。いま流行のレトロ感が詰まっている。原作者の鬼塚忠ってどんな人なんだろうか。通俗的なライターのような気がするが、むしろ映画の原作にはお手ごろかもしれない。難病、出会い、初恋、純愛、これでもか、というほどベタな展開の映画。ベタな展開と演出は、「安心して観てられる」という人と、「あざとい、安直な、つまらない」という人と両極端に評価が割れる。創造性のない作品は芸術性からみると評価は低いが、反面、大衆受けするという大きな強みがある。この映画を観ようとする層は、副題「小さな恋の物語」から推測してベタな展開を期待しているのかもしれない。

2010年7月27日 (火)

始皇帝ブームの根底にあるもの

   かつて始皇帝は極悪非道の暴君して知られていた。日本では、学術論文を除くと、戦前・終戦期の始皇帝関連で出版された本は極めて少ない。

   宮地竹峰「秦始皇帝」大学館 1908

 村上知行「秦の始皇」大阪屋號書店 1940

 加藤繁「始皇帝」生活社 1946

戦後も長らく始皇帝本は出版されることはなかったが、1962年、大映映画「秦・始皇帝」(田中重雄監督)が勝新太郎主演でブームとなるや、鎌田重雄の「秦の始皇帝」が河出書房新社から出版されている。その後、中国で批林批孔運動が起こるや、始皇帝の歴史的評価は中国を統一した偉大なる英雄として最高位に浮上する。日本でも「秦の始皇帝その評価」東方書店(1975)など多数の出版がでる。1974年3月の兵馬俑坑の発見は、始皇帝ブームの到来を決定するものであった。映画では「テラコッタ・ウォリア秦俑」チン・シウトン監督、陸樹銘、1989、「異聞・始皇帝謀殺」周暁文監督、羌文、1996,「始皇帝暗殺」陳凱歌監督、李雪健、1998、「HERO」張芸謀監督、陳道明、2003。テレビドラマでは「始皇帝烈伝ファースト・エンペラー」チャン・フォンイー、ソージア、ガオ・ミン、ソンチュンリー。「大秦帝国」全51話は戦国時代から秦が強国になっていく過程が丁寧に描かれている。この映像をもとに歴史ドキュメンタリー「大秦帝国」がアメリカの歴史学者の解説付の番組まで制作されている。さすがに日本製作の映画は大映版以降ないが、出版物は盛んである。渡辺龍策「秦の始皇帝99の謎」産報ジャーナル、1978、「始皇帝 現代視点・中国の群像」旺文社、1985、A・コットレル「秦始皇」河出書房新社、1895、吉川忠夫「秦の始皇帝」集英社、1986、籾山明「秦の始皇帝」白帝社、1994、久松文雄「秦始皇帝」文芸春秋、1994、岳南「秦・始皇帝陵の謎」講談社、1994、NHK取材班編「始皇帝」日本放送出版会、1994、今泉恂之介「兵馬傭俑と始皇帝」新潮社、1995、陳舜臣「秦の始皇帝」尚文社、1995、伴野朗「始皇帝」徳間書店、1995、安能務「始皇帝」文芸春秋社、1995、樋口隆康「始皇帝を掘る」学生社、1996、保永貞夫「始皇帝」講談社、1996、守屋洋「始皇帝の謎と真実」青春出版社、1998、荒俣宏「小説始皇帝暗殺」角川書店、1998、津本陽「小説秦の始皇帝」角川春樹事務所、1999、鶴間和幸「秦の始皇帝」吉川弘文館、2001、鶴間和幸「始皇帝の地下帝国」講談社、2001、那珂太郎「始皇帝」思潮社、2003、塚本青史「始皇帝」毎日新聞社、2006、咲村観「始皇帝」PHP研究所、2007。

  始皇帝再評価の背景には、国家統一の成功原因を秦国の政策に求める傾向がある。では何故、戦国乱世で中原からみると僻遠の地であった秦国が全国統一を成し遂げたのであろうか。その要因として4点が挙げられる。①秦の根拠地が要害を得ており、東方侵略に全力を傾注し得たこと②秦の国民の勇気③秦の君臣に英才逸材が多かった。孝公以降の歴代君主はおしなべて英明であった。臣下は商鞅、范雎、李斯など。④国の政策が一貫し、確立していた。日本にはないスケールの大きさを始皇帝に求めているのであろうか。

鄭和南海遠征の目的とは?

   鄭和(1371-1434)は1405年の冬、およそ200隻の沙船とよばれる外洋船と総勢2万7000人の乗組員で編成された大艦隊を率いて蘇州の劉家河を出発した。最大の船は全長50mとも100m以上あり、8000tに相当すると推測される。大航海時代にカリカットに到着したバスコ・ダ・ガマの旗艦が120tというから、いかに大きかったか想像がつく。ほぼ60隻の大艦隊の遠征は、7回にわたって行われ、南海諸国の珍奇な物品が中国にもたらされた。中国人の南方進出は、のちの華僑が急増する端緒ともなっている。

    だが莫大な経費のかかる大遠征の真の目的は何だったのだろうか。諸説あるが、①永楽帝がクーデターで倒した明朝第2代皇帝・建文帝(逃亡説あり)の行方を捜すため②モンゴル勢力の海からの攻撃に対して備えて、先手をうつため③南海の珍しい物産を手に入れるため④イスラーム商人の協力を得ながら、東南アジア・南アジア・西南アジアの諸国の朝貢を呼びかけるため

   鄭和は、本姓は「馬」で、雲南省に住む代々のイスラーム教徒で、ハッジHajji(哈只)の次男。永楽帝はイスラーム教徒の鄭和を登用することでイスラーム商人との関係を有利なようにしようとしたと考えられるので④説が近いかもしれない。

2010年7月24日 (土)

国学者・上田秋成

    上田秋成(1734-1809)といえば、今日では「雨月物語」「春雨物語」など怪奇・幻想の小説家として知られているが、生前はむしろ多趣味の文人という観があった。俳句をなし、歌を詠み、煎茶を嗜み、医術を修め、国史を論ずるなど、その興味尽きるところなし。だが生涯最も研究したのは万葉をはじめとした国学であった。秋成は建部綾足の紹介で加藤宇万伎(1721-1777)に会って入門している。その年には従来から諸説ある。大輪端宏は「結局、今のところは結論の出ないまま、明和3、4年ごろに秋成は宇万伎に入門したとしておくよりほかに仕方あるまい」(「上田秋成その生き方と文学」)とある。ところが長島弘明の「新潮社古典アルバム20上田秋成」には、明和8年の項に「この年か、大阪に来ていた加藤宇万伎に入門する」とある。加藤宇万伎は賀茂真淵(1697-1769)の高弟である。つまり真淵は明和6年(1769)に亡くなっているので、長島説であれば秋成は真淵に会っていないし、大輪説であれば秋成が晩年の真淵と会っていた可能性も残されているのである。

2010年7月23日 (金)

土用干し

   「芸」とは、苜蓿(うまごやし)に似た草の名。特有の香りがある。昔、書物の間に挟んで、防虫剤とした。転じて、蔵書や、書斎、芸香(うんこう)とも。蓺(げい)は別字。「藝」(うん)は、「芸」の異体字だが、のち「蓺」と混同され、「蓺」と同じ意味に用いられた。

   むかし、大正生まれの歴史教師が授業で、「藝」の字を「芸」と同字としたことを批判していた記憶がある。「藝術」(げいじゅつ)の藝の字と、「芸香」(うんこう)の「芸」の字はあきらかに別字で意味も読みも異なる。ようやくこの年になって、「藝」と「芸」の違いに気づいた。

2010年7月22日 (木)

世俗五戒

   古代・中世の朝鮮半島は仏教が国から外敵を守る「護国仏教」として発展を遂げる。「世俗五戒」とは、新羅の法師・円光が貴山と箒項という2人の若者に授けた教えのこと。

一に曰く、君に事うるに忠を以ってす

ニに曰く、親に仕うるに孝を以ってす

三に曰く、友に交わるに信を以ってす

四に曰く、戦に臨みて退くこと無かれ

五に曰く、殺生に択ぶあり

2010年7月21日 (水)

現在のイギリスの首相は誰ですか?

   イギリスはイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4つの地域から構成されている。このうちイングランドと北部のスコットランドと南西部のウェールズの3つを合わせてグレートブリテンという。つまりイギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国 United Kingdom of Great Britain and Northern,Ireland」と称する。(略してU.K.)

    日本人をはじめ外国人がイギリスのことをしばしばイングランドと呼ぶのは、政治的には正しくないとして公式な場では控えられる。イギリスという日本語はイングランド語あるいはイングランド人を意味する「イングリッシュ English」を「えげれす(漢字表記で「英吉利」)となまって呼び、それが「イギリス」に転化したものにほかならない。「ブリティッシュ British」という呼び名もスコットランド人やウェールズ人には、嫌うので避けるべきである。また彼らを「イングリッシュ」と呼ぶのもタブーといわれている。

現在のイギリスの首相は誰ですか?

Who is The prime minister of The U.K. now?

キャメロン首相です

Prime Minister Cameron.

恐怖劇場アンバランス

  「夜が明けたら一番早い汽車に乗るから切符を用意してちょうだい♪」淺川マキの「夜が明けたら」恐怖劇場アンバランスの一編はこの唄と同じタイトル。劇中にも淺川マキが登場するが、ストーリーとどのように関係するのかは意味不明。お話は初老の男・西村晃が街のチンピラに襲われ、手に持っていた鋏で逆襲、そのために2年の実刑を受ける。出所後、小さな洋裁店を開く。刑事の花沢徳衛と山本麒一はチンピラ3人が公園のアベックを狙った連続恐喝事件を捜査している。むかし知り合った花沢刑事は西村を尾行する。ある晩、アベック恐喝の現場を発見。3人を現行犯逮捕する。だがその現場には西村がいた。彼は過去の事件で社会の無関心を体験したが、その後、チンピラを支援して、自分も夜の公園で事件を傍観するという日常生活をすごすようになっていたのだった。原作は山田風太郎の「黒幕」。

2010年7月20日 (火)

区恵恭の生涯

   遣唐使「井真成」とは如何なる人物か?若者か、老人か。わずかに墓誌にその名前が記録されただけである。日本人だから問題にするのだろう。中国には異人の墓誌はたくさんある。正史その他の資料にも全く何も残さず死んでいった人たち、いわば名もなき歴史人物とでも呼ぼうか。詩人の区恵恭(くけいきょう)もそんな名もなき者の一人である。南朝宋(420-479)の頃の人ということだけは判っている。宋の詩人といえば謝霊運(385-433)が著名であるが、区恵恭の名前を知っている歴史家がいるだろうか。ネット検索でも1件もヒットしない。(ただし旧字体で検索すれば中国サイトで多数ヒットする)生卒年とも不明で、作品は一編も残っていない。外国人であったらしく、監典事という下級職名であり、下層階級に属する人であったと想像する。おそらく謝霊運より後の人であろう。謝霊運は反逆罪によって死刑にされたが、区恵恭の生涯が幸福であったか、不幸であったか、誰にもわからない。区恵恭のことは6世紀前半に鐘嶸(しょうこう)が著した『詩品』に一つの挿話が記されているからである。

    区恵恭はもともと外国人で、顔師伯の下で下級官僚となった。顔師伯が詩文を作ると、いつも恵恭がひそかに手を入れて完成した。のちにパトロンの怒りに触れて放逐された。大将軍劉義康が北の邸を建てたとき、選ばれて作業責任者にあてられた。そのころ、謝恵連は大将軍の記室参軍を兼任していた。恵恭は時おり彼のもとに出かけては、かの安陵君のいとなみをともにし、終わると「双枕の詩」を作って、謝に見せた。謝がいうには、「君はなかなかの才能だが、このままでは人に注目されまい。しばらく謝法曹(恵連)の作としておくがよかろう」。その詩を謝が大将軍におくると、彼は一読してすばらしい出来だと賞賛し、錦ニ反を謝にたまわった。謝はそれを辞退して、「この詩は、殿の作業責任者の作品にございますゆえ、なにとぞ彼にたまわり下さいますように」といった。

    鐘嶸がなにゆえこうした話を紹介したのだろう。詩が上流貴族階級に独占されて、次第に遊戯的な退廃的な風潮となっていた。男色も流行していた。区恵恭のような文才ある美青年が床の相手をし、ゴーストライターとなっていたことを物語っている。「双枕の詩」は伝わっていない。

2010年7月19日 (月)

重森三玲と東福寺方丈

    京都屈指の紅葉の名所として知られる東福寺(東山区本町)は一国師(円爾弁円)を開山とし、嘉禎2年(1236)、摂政・九条道家が祖父の菩提寺として建立。造営には19年もの歳月をかけたといわれている。寺域内には日本最古の三門(国宝)をはじめ、敷石と苔で市松模様を描く方丈庭園(北庭)と枯山水庭園の方丈南庭がある。昭和14年、重森三玲(1896-1975)によって作庭されている。方丈とは住持の居所であり、訪客の接待、衆僧との対話、面談の場所をいう。

Photo 昭和37年の日活映画「男と男の生きる街」にも方丈がロケで使われている(平田大三郎、渡辺美佐子)

明治天皇と泉岳寺

   赤穂義士たちの討ち入り以来、地元では赤穂城内の大石邸で、小さな祠が設けられひそかに祀られていた。しかし幕府をはばかって、正式の神社にはしていなかった。江戸期、巷間では赤穂義士は芝居などでもてはやされてはいたものの、事件をそのまま脚色することは禁じられていた。たとえば大石内蔵助のことを大星由良助、吉良義央を高師直と変えていた。明治維新によってこのような状況は一変する。

    明治元年、京都から江戸に東幸した17歳の明治天皇は、泉岳寺の義士の墓に勅使を遣わした。これは義士・義挙の公認である。赤穂事件は、義士が天皇への忠誠、つまり忠君思想の普及に一役買うことになってしまった。この後、大石内蔵助隠棲の地である京都山科と赤穂に、赤穂義士を祀る大石神社が公認された。

2010年7月17日 (土)

近畿梅雨明け

    太平洋高気圧に覆われ、全国的に晴れ。最高気温も急上昇。近畿地方も梅雨明け。いよいよ夏本番の季節。花火大会もそろそろ来週から始まるところが多い。京都の夏を告げる祇園祭も今日が山鉾巡行。

    ところで祇園祭おけいはんのポスターの女性の帯が上下逆さ向きに巻かれていることが話題になっている。製作者側は、若者向けにお洒落感覚で逆さ帯にしたといい、関係者は伝統ある着物の京都なので非常識と指摘。さて、軍配はどちらに。

なぜ円の通貨記号は「¥」なのか?

Img_0014 インド・ルピー

   インド政府は通貨ルピーの通貨記号をつくった。米ドルは「$」、英ポンドは「£」。では、なぜ日本円は「¥」なのか。不思議なことに、日本人の誰がいつ考案したという資料は明らかでないという。

    日本の紙幣には「YEN」と記載されており、円の国際的つづりは「EN」ではなく、「YEN」である。日本のお金に「YEN」が登場したのは、明治5年12月に発行された「明治通宝」である。始め、わが国の造幣紙幣はドイツに依頼して印刷されていた。その際、円が「EN」ではなく、「YEN」とされたのである。江戸末期の貨幣単位「両」の別称として使われていた「円」は、欧米人が書くと「YEN」となるようである。「Y」と間違われないために、2本の横線を加えた。たとえば、「2」と「Z」を区別するために、Zの真ん中に斜め線を入れる。これで「Y」と通貨記号「¥」は区別できる。通貨記号「¥」は、日本政府が考案したのではなく、西洋人によって生まれたのだろう。

アドリア海の花嫁ベニス

   ベニスは潮が満ちれば水没しそうな島々からなる。水深を熟知していなければ航行不可能な潟のなかは、外敵から身を守るのに最適だった。5世紀のゲルマン人侵入の際、一時的に島に避難したのが町の発端となった。ベニスの商人は、地中海の制海権を握り、海上貿易で大発展をとげた。第4回十字軍(1202年)を起こして東ローマ帝国の首都コンスタンチノープルを占領したりした。ルネサンス時代数百年をつうじて、大きな内乱がなかったのは、このベニスだけである。ベニスが経済的に豊かだったこと、だれもが華やかな祭典に参加し、町との一体感を味わうことができたのが長期安定を支えた理由といわれる。ベニスはソフトツーリズムの典型として世界中からの観光客でにぎわう。

聖子明菜優劣論

   今年は松田聖子デビュー30周年。山口百恵が引退した年にデビューした松田聖子は三原じゅん子と共にポスト百恵を競った。方や参議院議員、方やアイドルから歌姫へ。コンサートのチケットは今でも入手が困難といわれるほどの人気は健在である。聖子のデビューに遅れること2年、常に聖子と比較されるのが中森明菜である。二度のレコード大賞受賞という栄光に輝きながら、歌謡界ではなぜか不運がつきまとう。だが明菜も21世紀になって彼女らしい道をさぐっていた。ユーミン、中島みゆき、吉田拓郎、井上陽水などの70年代のフォークの名曲を歌いはじめた。昨日NHKhiで放送されて「中森明菜スペシャルLIVE」は誰もが知っている名曲をたっぷりうたっていた。黒いドレス姿で譜面をみながら語りかけるように歌う。声の張りや伸びはなくなったものの、人生を経た美しい女性のささやきには男性ファンはたまらないものがあるだろう。ムードのある静かな、暗い感じの曲が中心。なぜか井上陽水の曲は彼女にはよくあっている。「心もよう」「ダンスはうまく踊れない」。もちろん百恵の曲「愛染橋」も。スター誕生で明菜は百恵の曲ばかり歌っていた。岩崎宏美の「思秋期」。なんと松田聖子の「瑠璃色の地球」もアルバムでカバーしている。このほか「雨の物語」(イルカ)、「旅の宿」(吉田拓郎)、「22才の別れ」(風)、「学生街の喫茶店」(ガロ)、「シクラメンのかほり」(布施明)、「無縁坂」(さだまさし)、「WOMAN」(薬師丸ひろ子)、「I love YOU」(尾崎豊)、「魔法の鏡」「ベルベット・イースター」(松任谷由美)、「悪女」(中島みゆき)。つねに新しいサウンドに挑戦する聖子と昭和っぽい明菜。対照的な両歌姫にエールを送ろう。

2010年7月16日 (金)

食生活の改善

   生活習慣病という言葉がよく使われている。適度な運動、休養、飲酒、喫煙対策などが大切であるが、とりわけ食事は健康を維持するうえで大切である。食事が嗜好本位になったり、加工食品などに偏った食事をしていると、栄養素バランスが崩れていき、いつかは病気を招くことになり、糖尿病や心臓病、がん、肝臓病の原因となる。ケペルはついに医師からイエローカードをつきつけられた。

生活習慣病を予防するには

①太り過ぎない ケペルは現在、身長172cm、体重76㎏。腹囲1m。健康診断でメタボといわれた。毎日、体重を量り、体重を減らすことに心がける。

②塩分を減らす 望ましい塩分量は1日10g。うす味で食べ、減塩に努める。

③動物性脂肪を減らす 動物性脂肪に多く含まれている飽和脂肪酸はコレステロール値を高め。血栓を作りやすくする

④食物繊維をしっかりとる 根菜類を含む野菜や豆類のとり方の減少、米の摂取量の減少などがその背景にある。成人の望ましい食物繊維摂取量は1日20~25gぐらい。

白木みのる唄「♪動脈硬化も高血圧もコレステロールのせいなるぞ♪」晴れたら武庫川河川敷を散歩し、野菜・豆類・サラダ・乳製品・果物で栄養バランスを摂り、睡眠を十分にとる。

お台場

   NHK高校講座「余暇と観光産業」観光には、既存の環境や地域の資源を生かすソフトツーリズムと、人工的な施設を活かしたハードツーリズムがある。東京お台場は年に3000万人前後の観光客が訪れ、現在東京を代表する観光地の1つとなっている。1979年に埋め立てが完成し、もともと住宅地やオフィス地区として計画されたが、現在では観光スポットとして注目されている。1999年にヨーロッパの街をイメージした商業施設がつくられた。ハードツーリズムの典型といえる。

2010年7月15日 (木)

異端者の悲しみ

Img_0013 潤一郎の妹たち。左より末、一人おいて伊勢

    雑誌「中央公論」の編集長だった滝田樗陰(18882-1925)の遺族が日本近代文学館に谷崎潤一郎「異端者の悲しみ」、室生犀星「性に目覚める頃」、志賀直哉「雨蛙」などの原稿を寄贈したというニュース。「異端者の悲しみ」は肺病の妹の死が印象的である。

「かあちゃん、・・・・あたいウンコがしたいんだけれど、このまましてもいいかい」

「ああいいとも、そのままおしよ」

母はわが子の最後のわがままを、快く聴き入れてやった。暫くの間、病人はハッキリ意識を回復して、左右の人々にぽっりぽっりと言葉をかけた。

「あああ、あたいはほんとに詰まらないな。十五や十六で死んでしまうなんて、・・・だけど私は苦しくも何ともない。死ぬなんてこんなに楽な事なのか知ら・・・」

その言葉こそ、今肉体から離れて行こうとする霊魂の、断末魔の声であった。それが終わると、次第に病人は息を引き取った。

    潤一郎には園、伊勢、末の3人の妹と精二、得三、終平の3人の弟がいた。「異端者の悲しみ」は長女園がモデルになっている。園は明治44年腸結核のため数え16歳で亡くなっている。

明窓浄几

   人類は地球上における動物の進化の過程で、その一分岐として出現した。近年エチオピアで発見された440万年前のラミダス猿人と呼ばれる化石は、明らかにチンパンジーとは異なる特徴をもっており、これが現在知りうる最古の人類=猿人Ape man とされている。その特徴は直立して二足歩行し、両手で道具を用い、火を扱い、労働して、言語を基礎とする文化をもつことだといわれている。だがこのような特徴だけであれば部分的には他の動物でも行える。ペンギンやカンガルーは直立して歩くし、動物園のゴリラやチンパンジーなどでもテレビを見る。室内で飼っているイヌやネコはテレビを見る。人間だけが行い、他の動物が絶対にマネできない行為とは何か。それは、読書するということである。人間以外の動物は本を読まない。ではケータイやアイ・パッドで読書すればよいのか。近頃、ケータイを診ながら町を歩いている人をよくみかける。まるで人をやめた、サルがケータイを手にしているような感覚にとらわれる。読書とは毎日同じ時間にする生活習慣でなければならない。明窓浄几、明るい窓と清らかな机、書斎があってはじめて行える行為である。

名前には意味がある

    肥満体で人のよさそうな俳優ジョン・グッドマン。グッドマン(goodman)とは、「善人」の意味。「小さな恋のメロディ」のジャック・ワイルド。「wild」名前のとおり野性味のある少年だった。フランスの女優パスカル・プティ。プティ(petit)とは「ちっちゃい」「可愛いらしい」の意味。みんな芸名はその魅力をアピールしている。

   「可愛いにもほどがある」で売り出し中のイギリスの美少女ベッキー・クルーエル。だがクルーエル(cruel)とは「残酷な」「むごい」の意味。およそ本人のイメージからかけはなれた芸名だが何か理由があるのだろうか。

衆縁和合

   平城遷都1300年を迎えてにぎわう奈良。今年はコンサートがさかんに催されている。薬師寺コンサートは有名で、すでに南こうせつ、堂本剛のコンサートが行われた。これから安蘭けい、安全地帯、石井竜也、AKB48のコンサートが開催予定。キリストの教会でもクラシック・コンサートはどこでも開催されている。イスラム教でも、例外的ではあるが、「ウルス」と呼ばれる聖人の記念日には、カッワーリやスフィアナ・カラムのコンサートが催されることがある。しかし、あくまで祈りのための神聖な場所ということは忘れていない。日本のように宗教と無縁の音楽を盛大に行うことは世界的にみて稀なことだろう。この考えに理解することはむずかしいが、仏教の「衆縁和合」という言葉をひきあいにするらしい。すべてが合わざらないと、すべてが成就しない、縁が欠けるとものが生じてこない。コンサートで、来られる方にお寺と何らかの縁が生まれればいい、という考え方らしい。やはり仏教側でもコンサートの来る人はお寺や仏には何らの関心もないことはわかっている。イベントで大勢くることに意味があると考えているのだろう。(もとろんビジネスとして考えているのだろう)日本の仏教の商魂たくましさをみる。

2010年7月14日 (水)

もう一度人生の再スタートを

   人生で頂点を極めたタレント・芸能人たちもやがては、ピークをすぎる。毎度、参議院選挙で話題になるのはそんなピークを過ぎたタレントたち。人生のリベンジ、当選したのは、結局、石井浩郎(野球)、谷亮子(柔道家)、三原じゅん子(女優)のわずか3人だけ。石井は「日本一無口な政治家」と揶揄されているが、頑強な肉体と誠実そうな人柄が評価されたのだろう。「さすらいの一発屋」が大ホームランをかっ飛ばし、見事にリベンジを果した。しかし、人生の真価が問われるのはこれからである。谷亮子や三原じゅん子にもいえる。有権者の目は厳しい。岡部まり、岡崎友紀、庄野真代は涙を呑んだ。原田大二郎、桂きん枝、敏いとう、八代英太らベテランも落選。堀内恒夫、中畑清、江本孟紀ら野球解説者たちも枕を並べて討ち死に。解説者は勝負に責任はないが、政治家には責任がともなう。口だけの解説は不要ということか。イグ・ノーべル賞の発明王ドクター中松、数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞に輝いた広中平祐夫人・広中和歌子ら文化人も落選。総じて消費税増税論議がタレント候補に逆風になった。人寄せパンダで立候補したり(「ザ・パンダ」桂きん枝)、政治家の甘い言葉にのせられるのは「よせばいいのに」(ムード歌謡、敏いとうとハッピー&ブルー)、「いつまでたっても、バカなわたしね」

めぐみの雨

   梅雨の大雨は、作物などの生育に必要だが、尊い人命や建物に甚大な被害を与えることもある。また雨で物事の明暗の分かれることもある。昨夜の甲子園の巨人・阪神戦はまさに伝統の一戦にふさわしい首位攻防戦だった。雨中で決着をつけたのは巨人のルーキー長野の価値あるホームランだった。本日の試合は雨のため中止。巨人にとっては恵みの雨のような気がする。

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2010年7月12日 (月)

玉座の上の最初の近代人フリードリヒ2世

    NHK高校講座世界史第13回「十字軍の時代」まとめ

    シチリア王国の王で、神聖ローマ帝国の皇帝でもあったフリードリヒ2世(1194-1250)は、文芸を奨励し、その比類なき事績、人物から「玉座の上の最初の近代人」とか「世界の驚異」とか言われる。

   フリードリヒ2世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の子、母方の祖父はノルマン朝シチリア王国のルッジューロ2世。わずか3歳でシチリア王国の王位につき、シチリア王国という異文化が共存する世界の中で成長した。ドイツよりもシチリアにいることを好んだといわれる。法王グレゴリウス9世によって十字軍遠征を命ぜられたが、平和的にエルサレムを奪回する方法を考えた。アイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルと粘り強い平和交渉の末、9ヵ条からなる休戦協定を締結し、10年間の和平を実現した。

    十字軍は1096年から1270年まで続いたが、結局エルサレムを奪回したのは、第1回からの約90年間と、第5回のフリードリヒ2世の交渉で得た約10年間のみであった。

    今回の講義、高山博の「異文化の衝突と交流」には深い内容があり優れている。トレドやシチリアのラテン、ギリシア、イスラムの文化の融合、12世紀ルネサンスなど文化の重層性を考えさせられた。

愚陀仏庵が豪雨で全壊

    12日午前7時30分ごろ、松山市一番町の夏目漱石ゆかりの建物「愚陀仏庵」が裏山が崩れて全壊した。松山では梅雨前線の影響で午前6時から1時間に46.5ミリの豪雨を記録し、土砂崩れが起きたらしい。

    明治28年6月下旬ころ、松山中学校の英語教師夏目金之助は、中堀貞五郎の世話で上野義方(小説「坊っちゃん」では荻野となっている)の離れの二階建てに明治29年4月11日まで住んでいた。ここを愚陀仏庵と称して、一時期、正岡子規も居候していた。(明治28年8月29日から10月19日まで52日間)

建物は昭和57年に復元されたものだが、人気観光スポットになっていただけに惜しい。

旦那さま、家が火事です

    ドイツの観念論哲学者のヘーゲルは、その難解な著作から堅物の学者の印象があるだろう。ヘーゲルの数あるエピソードの中でもよく知られるのは火事の話である。

    ヘーゲルがいつものように書斎で研究していると、だしぬけに使用人が「大変です旦那さま、火事です」という。ヘーゲルはこの使用人を不思議そうな顔をして見つめて、やがて大声で頭をふって言った。「家事のことは妻に言っておくれ。お前は、ぼくがこの家のことには一切かかわり合わないといことを知らんのか」ヘーゲルは落ちついて机に向かったまま、その思索にふけっていた。

   まるで笑い話である。ヘーゲルは「火事」と「家事」を聞き間違えたというのだ。ところがこのエピソードの信憑性には多くの疑問がある。ドイツ語の火事(feuer)と家事(hausliche)との間には発音に大きな違いがあって聞き間違えることはないらしい。もしかしたら日本人のつくり話かもしれない。元は、ナポレオンのイエナ侵入ではないだろうか。ナポレオン軍がイエナに侵入したとき、ヘーゲルはイエナ大学の助教授であった。市街は砲弾に見舞われ、占領されてしまったが、ヘーゲルはひたすら「精神現象学」の最後を書き上げていた。そして原稿を手にもって無事に避難した。社会現象に無関心なところから、このようなエピソードを誰か思いついた作り話かもしれない。(参考:「西洋故事物語」存在するものはすべて理性的である)

2010年7月10日 (土)

ベニスの夏の日

   キャサリン・ヘプバーン演じるジェーンはアメリカで秘書として働くうち、結婚適齢期をとっくに過ごしてしまう年齢。そこで夏の休暇を貯金をはたいてはるばるベニスまで観光旅行にやってきた。はたせるかな中年のイタリア男、レナートが現れる。純情な女学生のように若返って、ジェーンはレナートを愛してしまう。レストランで買ってもらったクチナシの花。レナートは「バラやランでなく、なぜクチナシ?」とたずねる。ジェーンは「初めてのダンスパーティーでの思い出がクチナシだった。でも相手はまだ高校生で進展しなかった」と。やがて2人に別れのときがくるが、駅にやってきたレナートの手にはクチナシの花があった。旅行先でのつかの間の恋の話は無数にあるが、いまだにこの「旅情」をこえた作品はない。

2010年7月 9日 (金)

すくすく赤ちゃん

Photo

   くり返しのある親子のふれあい遊び。赤ちゃんには言葉のリズムと調子を聞かせるつもりで話す。

おつむてんてん

 手で頭をたたく

かいぐりかいぐり

 両手を軽くにぎり、腕前で上下に手を回す

とっとの目

 左手の手の平らを右人差し指でチョンチョンと突く

アワワ

 手を口にあてる

ひじ ぽんぽん

 片手でもう一方のひじをたたく

はいはい

 四つんばいになり前後に動く。ボトムシャッフリング

いないないばあ

 「いない、いない」といって顔を両手で隠す。次に「ばあー」といって両手をとって顔をみせる。赤ちゃんを喜ばす遊び。ピーカーボー(peekaboo)

「龍馬伝」と土佐山内家の末裔

   嘉永元年に藩主となったのは、分家の出身だった山内豊信(容堂の号が有名だが)だった。容堂は吉田東洋を重用して藩政改革をおこない、長崎開港のときは岩崎弥太郎を派遣して海外貿易をすすめ、蒸気船の製造にも着手させた。容堂は坂本龍馬の献策をうけいれ、徳川慶喜に大政奉還を建白した。これが容堂の最大の功績となった。容堂の次の当主豊範は、廃藩置県まで高知藩の知事をつとめたりしたが、明治19年に亡くなった。幼くして当主となった豊景は陸軍士官学校に学び、やがて累進して陸軍少佐になった。豊景の跡を継いだ豊秋も軍人の道を歩んだ。晩年、司馬遼太郎の「功名が辻」を読んだ豊秋は、愚図でダメな男として描かれていることに憤慨し、「一豊は剛毅・謀将にして、わが家ではピカ一なり」と抗議したと伝えられる。

天皇名に見える京都の地名

   歴代天皇135代のうち京都の地名に由来する天皇は31人いる。なかでも第111代の後西(ごさい)天皇は少しビミョーな話である。もともと京都には「西院」(さいいん)という地名があるが、実は古くは「西院」は「さい」と呼ばれた。後西天皇も古くは、後西院天皇は「ごさいてんのう」と呼ばれたらしい。それが大正時代に歴代天皇の名前を確定するとき、「院」の字を宮内庁事務官が誤って院号とみなしたため除いてしまった。つまり、名を「後西天皇」(ごさいてんのう)とした。正しくは「後西院天皇」なのである。

   京都の地名がつく天皇をあげる。

第52代 嵯峨天皇

第60代 醍醐天皇

第61代 朱雀天皇

第66代 一条天皇

第67代 三条天皇

第68代 後一条天皇

第71代 後三条天皇

第72代 白河天皇

第73代 堀河天皇

第74代 鳥羽天皇

第77代 後白河天皇

第78代 二条天皇

第79代 六条天皇

第80代 高倉天皇

第82代 後鳥羽天皇

第86代 後堀河天皇

第87代 四条天皇

第88代 後嵯峨天皇

第89代 後深草天皇

第90代 亀山天皇

第92代 伏見天皇

第93代 後伏見天皇

第94代 後二条天皇

第95代 花園天皇

第96代 後醍醐天皇

第99代 後亀山天皇

第102代 後花園天皇

第106代 正親町天皇

第108代 後水尾天皇

第111代 後西天皇

第113代 東山天皇

北条氏得宗家

   北条一門の中で、その嫡流の家督を得宗といい、はじめは執権の地位と密着していた。徳宗とも書くが、義時を徳宗と称したことにはじまる。北条氏の中でも、他と区別された特別の地位と考えられ、北条時宗の時代以後は、執権の地位とは関係なく、急速に権力が得宗に集中し、やがて得宗の専制権力が生まれて、政治史上、重要な意味をもつに至った。得宗はつねに数国の守護を兼ね、また全国に散在する得宗領をもつ。また得宗の家制機関として、公文所、御内侍所などが設けられた。得宗の被官を御内人と称したが、彼等はその最上位者たる内管領を中心に得宗専制政治を推進した。

①時政②義時泰時経時時頼⑥長時⑦政村⑧時宗貞時⑩師時⑪宗宣⑫凞時⑬基時⑭高時⑮貞顕⑯守時(①~⑯は執権就任順、太字は得宗)

2010年7月 8日 (木)

非御家人

    鎌倉時代に、寺社領、公家領の荘園内の在地武士などの中には、全く幕府の支配と関係のないものもいた。こうした武士すなわち侍の身分で、御家人関係にないものを非御家人といい、幕府の保護もうけず、また義務もなく、幕府法の上では凡下(一般庶民)と殆ど同様に扱われた。そして御家人の所領が非御家人にうつることは禁止されていたが、鎌倉末期にはその傾向が強まり、幕府財源の減少を招いた。なお非御家人はモンゴル襲来の頃から、異国警護役などについて守護の統轄下で勤仕を命ぜられ、次第に御家人との区別が失われてきた。(参考:「鎌倉幕府 日本史シリーズ6」世界文化社 1967)

冊封体制

   紀元前後、中国を中心とする東アジア世界は、中国文化が自然にその周辺に伝播することによって出現したものではない。その文化伝播の基礎として、中国とその周辺国家との間に政治的関係が設定されることが条件であると考えられる。その政治的関係とは、周辺諸国の君主が中国皇帝の冊封を受けて、中国皇帝と君臣関係を結び、その外藩となることであったと考えられる。日本が中国と直接的な政治関係をもつにいたるのは、後漢の光武帝の時代である。邪馬台国の卑弥呼が親魏倭王に封ぜられると、そのことから君臣関係が生ずることになる。首長の中国皇帝からみれば、倭国は外藩国である。このような外藩国の成立は、皇帝から与えられた冊命(任命権)によって封ぜられることによるものであるから、この任命行為を「冊封」と呼ぶ。卑弥呼は倭王に冊封され、倭は魏王朝の冊封国となったのである。このように中国と倭との関係が冊封という君臣関係の設定によって、東アジア世界の国際関係の中に位置するようになったと、東京大学の西嶋定生は説いている。

    東アジアの冊封体制は隋唐から明清まで続く。中国でその朝貢国の国王に封ずる詔勅を持参する使いを後世には「冊封使」と呼んだ。琉球へは応安5(1372)年の察度への詔論以来、最後の王尚秦まで22回行われた。一行は4~500名からなり、滞在は5~9ヵ月に及ぶ。薩摩藩の支配下ではこの間、大和風の年号・言葉・風俗が禁止された。

離婚後も共演している芸能人

    小泉今日子が別れた元夫・永瀬正敏と映画で共演することが話題になっている。来年春公開の「毎日かあさん」で夫婦役らしい。元夫婦ならではの妙味がでるものと今から期待している。

    離婚後、別れた2人が共演することは異例なこと。大原麗子は渡瀬恒彦とドラマ「十津川警部シリーズ」に特別出演している。ナタリー・ドロンは1964年にアラン・ドロンと結婚し、69年に離婚、映画「もう一度愛して」(1971)で2人は共演している。つまり映画では小泉今日子はナタリー・ドロン以来の快挙ということか。お笑いの世界ではミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓介、庄司敏江・玲児と大物夫婦漫才師はみんな浮気とか離婚とか自虐ネタを売りにするプロ根性が関西風土に伝統的にあるようだ。最近でも、さんま・大竹しのぶ、のように離婚後も共演する人が出てきた。でもふつう離婚後に共演することはありえない。マイク真木と前田美波里、つなき&みどり、夫婦ユニットが「思い出のメロディー」に出演することはありえないだろう。森進一と森昌子が「歌謡コンサート」で共演することはありえない。ハリウッドでも離婚したカップルが映画で共演する(それも夫婦役)という事例は知らない。離婚後、いろいろ成長して、ライバルとして共演するのはちょっとイイ話のように感じている。

ラントフリーデ立法

   11世紀の、クリュニー修道院から発した教会粛正運動は、その社会的発現である「神の休戦・平和」運動を生み、12世紀に盛んとなる。神の平和運動は都市自治体の成立により平和団体を組織し、13世紀にはフランス・イギリスの国家とドイツの領邦を単位とする君侯のランドフリーデ立法(領域治安立法)の形で近代国家権力の原型を形成する。(参考:世界歴史シリーズ10 「法王の時代」事項辞典 世界文化社 1972)

2010年7月 6日 (火)

カタリ派とアルビジョア十字軍

    アルビジョア地方には11世紀末以来、南仏トゥールーズを中心にキリスト教異端分派が広まっていた。アルビ派は12世紀ころカタリ派と呼称せられた広汎な一派の分派。「カタリ」とはギリシア語の「清浄(Katharos)」に由来する。10世紀初頭、修道院的禁欲と使徒的生活を説くボゴミールがブルガリアに現れ、11世紀以来この派はマニ教を思わせる二元論を展開し、バルカン半島に普及したが、11世紀初頭のイタリア、フランスの西欧的異端に刺激を与えたものと思われる。このボゴミール派と11世紀末期から12世紀初頭に教会内部の改革運動より発生した異端的遍歴説教者の清貧運動が1140年ころに結合してカタリ派が生まれた。

    1181年以来カペー王権の浸透に対抗する南フランスの封建諸侯勢力と結合、異端運動の反乱が起こった。北フランス諸侯により、フィリップ2世治下に第2回(1209-1214)、ルイ8世治下に第3回(1326-1329)のアルビジョア十字軍が組織され、その結果、トゥールーズ伯と南仏都市を屈服させ、王権を浸透させた。

2010年7月 5日 (月)

「龍馬伝」の女たち

Img_0026 岩崎美和

    NHK大河ドラマ「龍馬伝」男たちの活躍と成功を陰で支え激動の時代を生き抜いた女たち。ここでは武市富(1842-1898)と岩崎美和(1814-1900)を取り上げる。第27回「龍馬の大芝居」で武市半平太の妻・富(奥貫薫)は、獄中の夫と同じ境遇に自らの身を置くため、夏は蚊帳なし、冬は板の間で生活したと言われる。岩崎弥太郎の母・美和(倍賞美津子)は安芸の町医者小野慶蔵の二女で、岩崎家に嫁いだときは18歳だった。賢母で、明治に入って、岩崎家隆盛を支えた。幼少時代の弥太郎は癇癖の強さ、もの覚えの悪さ、悪童ぶりに手こずられている。弥太郎の死もみとった。葬儀には料理・菓子など6万人分を用意して、会葬者に立食の饗応をするなど、空前の豪華な葬儀であった。

地底旅行

    ジュール・ヴェルヌの空想小説「地底旅行」(1864)物語は1863年、鉱物学者リデンブロック教授がルーン文字で書かれた暗号を手に入れたことから始まる。それは16世紀アイスランドの錬金術師アルネ・サクヌックセルが残したものだった。教授が甥のアクセルと共に暗号を解読してみると、なんとそれにはアイスランドの死火山「スネッフェルス」に、地球の中心へ通じる入口があると書いてある。教授、アクセル、そしてガイドのハンスら3人は地底旅行を開始した。一行は数数の苦難と闘いながら巨大な地底湖までやって来た。イカダで地底湖を航海しながら、恐竜を見たり、嵐に会って遭難しながらも旅を続ける。しかし、巨大な岩に行く手をはばまれる。そこでその岩を火薬で爆破すると、その衝撃で地底に裂目ができて、海水もろとも呑み込まれてしまった。ところが、火山の噴火口と一緒に首尾よく地上に押し上げられ、そこはイタリアのストロンボリ火山の火口だったのだ。昨夜の日曜洋画劇場の「センター・オブ・ジ・アース」(2008)もジューヌ・ヴェルヌの小説が下敷きになっている。恐竜、人食い植物、浮遊石、空飛ぶピラニア、光る鳥など次々と3D映像で現れ、大人でも楽しめる。出演は「ハンナプトラ」のブレーダン・フレーザー、「テラビシアにかける橋」のジョッシュ・ハツチャー、そして山岳ガイドの美女アニタ・ブリエム。パット・ブーンの「地底探検」(1959)をもう一度見比べてみたい。

琴瑟相和す

    世界史で最も有名な離婚といえば、16世紀のイギリス、ヘンリー8世がカザリンと離婚し、若いアン・ブーリンと結婚したことだろう。最近では、1996年のチャールズ皇太子とダイアナ妃の離婚は記憶に新しい。タイガー・ウッズの慰謝料616億円は世界中をアッと騒がせている。クリントン政権で副大統領だったアルバート・ゴアの熟年離婚も話題になっている。

   夫婦仲がよいことは昔から最も祝福すべきことの一つである。中国には、「琴瑟相和す」「連理の枝」「比翼の鳥」など夫婦仲のよさを褒めたたえた多くの言葉がある。琴と瑟とを弾じてその音がよくあう。つまり音調がよく整って、夫婦の響きが相応じ調和し、楽しい雰囲気をかもしだすように、夫婦仲のよいことをいうのである。日本でも夫婦演歌は一つのジャンルとして定着している。「夫婦春秋」「浪花恋しぐれ」「だんなさま」「二輪草」など。「おしどり夫婦」という言葉もある。「濡れ落ち葉」といって退職して何もすることなく奥さんさんにつきまとう亭主を、払っても払っても箒についてくる濡れ落ち葉にたとえた流行語もあったが、いまではあまり使われない。NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」に見られるように、「貧乏」「昭和」「成功」が日本人が好む三要素なのである。

悲惨な戦争

    「アンディ・ウィリアムス・ショー」(1966年放送)にピーター・ポール・アンド・マリーが出演していた。若い頃、「パフ」や「虹と共に消えた恋」「風にふかれて」「レモン・トゥリー」「500マイル」「ハッシャバイ」などラジオで聞いていたが、歌詞のほんとうの意味は知らなかった。昨夜の放送では、「悲惨な戦争」を歌っていた。ベトナム戦争最中の反戦フォーク。歌詞は、戦争に行く兵士ジョニーに、恋人が髪を切り、男のなりをするから連れて行って、という内容。南北戦争時代の古い歌で、ジョニーというのは南軍兵士の愛称だった。そういえば、ティモシー・ボトムズ主演の「ジョニーは戦場へ行った」(ダルトン・トランボ監督、1971)という映画もあった。あれは第一次世界大戦の話だが名作だった。

    ショー・コーナーのナンシー・ウィルソンとの「映画界のダンスパーティー」も楽しい。

スターが次々にやってくる

  華やかだ

ウォーレス・リードが車から降り立つ

ゼダ・バラの誘惑

  アリス・ブラディの魅惑

腕一本で立つ バスター・キートン

  曲芸だ

ヴィルマ・バンキーはつま先で踊る

  マック・セネットの水着美人も来ている

映画界のダンス・パーティー

  ダグラス・フェアバンクスが登場

あでやかなゼダ・バラも

  ヴァレンチノの踊りに女性はウットリ

クララ・ボウは監督と大騒ぎ

  ハーボ・マルクスは女を追いかける

メアリー・ピックフォードは男を振り切る

  チャップリンは見事なステップを披露

映画界のパーティーで踊りましょう

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2010年7月 3日 (土)

日本女子テニスの起源

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    日本にテニス競技が輸入された年代は、はっきりしていない。個人的にリクリェーションとして外人たちや日本人の海外留学生たちが用具や技術を持ってきたということは、いろいろな文献に散見する。しかし、正式のスポーツとして日本の大学、専門学校のテニス部やクラブでとりあげるようになったのは、大正10年以後といわれる。「国際写真情報 大正12年6月号」(2巻第6号)には花形女子テニス選手の写真が掲載しているので、すでに競技会がさかんに行われていたことを物語っている。美しい二人のテニス嬢は、梶川久子(右)、田村富美子(左)お茶水高女在学生である。服装は制服なのかテニス服なのかわからないが、靴はテニスシューズにみえる。

2010年7月 1日 (木)

森の生活と都会生活

   ジェーン・ワイマンの懐かしい映画「天はすべて許し給う」(1955年)をBSでみる。夫に先立たされた未亡人が若い庭師と恋に落ち障害を乗り越えて結ばれる愛の物語。平凡な筋のなかにアメリカ人の自然への考え方があらわれている。ワイマンは庭師ロック・ハドソンが建てた森の小屋でソローの「ウォールデン 森の生活」を見つける。庭師が愛読したソローとはいかなる人か。ソローはエマーソンの影響を受け、独立自尊と生命維持に最小限の要求を満たす実験的生活を実行した人である。定職につかず、結婚をせず、教会にも出席しない。もちろん投票さえしない。肉食、酒、煙草を遠ざけ博物学者でありながら罠や銃を用いなかった。彼が湖畔での生活体験と思索をまとめたのが「ウォールデン」である。彼が森での原始的な生活を送ったのは決して厭世的な理由ではなく、物質からの自己解放である。そこが東洋の陶淵明のような文人生活とは異なる。あくまで建設的なところがアメリカ人に支持されるところである。ハリウッドのスターにも、グレン・フォードが西部で牧場を経営したり、ロバート・レッドフォードがモンタナの森に住んだり、自然志向の人は多い。このころのロック・ハドソンも「ジャイアンツ」のように西部のたくましい男だった。だが、60年代あたりから、主演作も変化をみせ、都会的になっていく。主演のジェーン・ワイマンもアカデミー賞女優であり、夫のロナルド・レーガンは政治に意欲的で、妻のワイマンは歌とパーテーが大好き。現実の俳優生活と映画の役柄とは大きな隔たりがあるが、アメリカ人の理想的な生き方とはこの映画のようなものであったということがわかる。

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