八条宮智仁親王と豊臣家後継者問題
桂離宮の創始者・八条宮智仁(1579-1629)は、誠仁親王(正親町天皇の子)の第6子、後陽成天皇の弟で、幼名を胡佐麿といい、1588年、豊臣秀吉はこの胡佐麿を猶子として迎え、豊臣家の継承君として期待した。しかし、翌年に淀君に鶴松が生まれたため、秀吉はこの養子計画をとりやめた。親王のために特別に八条宮家を創設した。当時親王は12歳で、下柱の地を所領され、桂離宮の造営にかかるのは、これより約30年の後となる。
一方、豊臣秀次(1568-1595)は秀吉の姉とも(瑞竜院日秀)の子で、養子となって、1591年に秀吉から関白を譲られていた。が、1593年8月に秀頼が生まれると、秀次が誕生した。この時点で、秀次の立場は以前の胡佐麿とよく似た立場に置かれたのである。秀次はその不行跡により高野山で1595年7月15日、自害する羽目になる。このとき智仁親王は17歳である。智仁は政治的なことよりも歌道・茶道の道一筋に研鑽するようになる。
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