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2010年6月 2日 (水)

摂関政治の展開と藤原氏

    平安時代9世紀初め、藤原冬嗣は、嵯峨天皇の信任を獲得し、娘の順子を正良親王(のちの仁明天皇)の妃とし、外戚政策を進めた。その子良房は、仁明天皇と順子との間の子である道康親王を皇太子とした(承和の変)。藤原良房は娘の明子を道康親王の妃とし、親王が文徳天皇として即位すると、両者の間に生まれた惟仁親王を皇太子に立て、858年わずか9歳で清和天皇として即位させる。ここに良房は、天皇の外祖父として実質的に摂政の役割を果たすようになつた。養子の基経は884年光孝天皇から関白に任じられ、887年、宇多天皇の即位直後におきた阿衡の紛議によって、その地位を確立する。基経の死後、醍醐天皇から村上天皇にかけての時期は、天皇親政がおこなわれたが、969年の安和の変以降、11世紀半ばころまでの間、原則として摂政・関白が常置されて、そのもとで国政が運営される摂関政治の時代となった。10世紀末までは兼通と兼家、道隆と道兼、伊周と道長ら、摂関家内の同族間の氏長者をめぐる争いが続いたが、結局、道長がこれらの争いに勝利し、彼とその子頼通の時代、摂関家は全盛期を迎えた。

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