井上靖「黙契」
黙契とは「無言のうちに互いの意思が一致すること」(広辞苑)
捷次が小学生のときに芝居小屋の男に頼まれて無理やり出演させられた。だが舞台の上からみたのは父の勝平と女中のおみよの姿だった。勝平も全く思いがけず、舞台に自分の息子を発見して、驚いたに違いなかった。おみよは十人近い女中の中で一番きれいな女だった。捷次は父が亡くなるまで、父がおみよと芝居に行ったことは一度も口外しなかった。いってみれば一つの黙契のようなものが、父と子供の間には成立していたかのようであった。勝平は3年後に脳溢血で亡くなった。それから30年が経つ。もちろん母も他界し、捷次自身がいつか当時の父親の年齢に近づいている。捷次は親の思い出の中で、芝居小屋の中の一件が一番好きである。おみよの消息は、その後何も聞いていない。その気になればすぐ判ることであろうが、彼女については何も知らない方がいいような気がしている。(「小説公園」昭和30年2月号)
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