万葉の歌人、山部赤人は「田子の浦ゆ うち出て見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は零りける」と歌った。富士川口西方の蒲原町吹上ノ浜での作といわれているが、この歌ほど人口に膾炙されてきた歌も珍しい。大伴家持が「山柿之門」と仰いだのは山部赤人と柿本人麻呂である。自然に対して呪術的な性格を多く残している人麻呂に対して、自然と美的知巧的に把握した赤人の歌は、平安時代以後の歌風ともつながる。
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