頼経と頼嗣
源頼朝の死後、狂躁無能な頼家、文学青年の実朝が将軍を継いだが、1219年、実朝が公暁によって暗殺され、源氏の正統は3代27年で断絶した。北条義時は親王を奉じて将軍に立てようと願ったが、後鳥羽上皇はこれを許さなかった。そこで頼朝の遠縁にあたる左大臣九条道家の子の頼経(1218-1256)を迎えることにした。大納言公経の孫で、頼朝の妹の曾孫に当たる。わずか2歳であった。実質的には北条政子が将軍といってよく、いわゆる尼将軍である。頼経は1256年、39歳で急死した。翌月には頼嗣も死去している。北条氏はつねに実権を握る体制を維持するために、承久より幕府滅亡に至る115年間に頼経、頼嗣2代の藤原将軍と宗尊、惟康、久明、守邦4代の親王将軍を送り迎え、北条氏の絶対的地位の確保を図った。
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