廃仏から神仏習合へ
在来的な神祇信仰に対して、6世紀に仏教が日本に伝来して、飛鳥時代には崇仏、排仏の主張が対立したことはよく知られている。しかし奈良時代には仏教の信仰が隆盛をみるようになり、神は仏法を喜び、仏法を擁護するという神仏習合の思想があらわれた。しかしながら両者の習合は決して一朝一夕にスムーズに進展したものではなかった。
たとえば、平安時代の貴族たちは、その邸内に持仏堂をもち、平素は仏像をそこに安置したが、内裏で神祭りの行われる日には忌みのかかっているものと同様に、僧侶を参内させなかった。神事と仏事はその場所を別にし、両者がたがいに障りあいしないように配慮がなされていた。
平安時代の末、藤原頼長の日記「台記」天養2年(1145)3月7日条には、伊勢神宮への勅使の役を命ぜられた左大将雅定が、邸内の仏像・経文の類を邸外に出して精進潔斎していたとこめ、にわかに寝殿の屋根から煙があがったので放火かと思い、あわてて天井を破ってみたら、天井裏に絵像の仏五体と法会に使う色旗など゛があったので、これらを門外に運び出したら煙が消えたという話が記されている。これなど、王城鎮護の神である京では神祇信仰が第1であり、私邸でさえ、清浄を保持して異物の侵入を防がねばならないという事例である。
本日の葵祭。祭の起源は欽明天皇の時代といえが明らかではなく、賀茂神社の創建は社伝によれば、天武6年(677)とある。文武2年(698)に賀茂祭(葵祭)の記事があり、このころすでに賀茂神社は強大な神社となっていた。平安帝奠都以後、祭は皇室のなかば公的な祭として盛行をみた。祭の中心人物は斎王であり、9世紀中頃以後は内親王がこれにつくのが慣例となり、皇室との関係が深まった。
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