源頼家
鎌倉幕府2代将軍頼家については現存する遺品はほとんどなく、死後もあまり知られないトップリーダーの歴史人物の一人であろう。わがままな行いが多く、正治元年4月、訴訟独裁を停められ、北条時政、義時、大江広元、三浦義純澄ら13人の元老の合議にするなど権限の掣肘が行われた。頼家はこれを無視し、妻の家比企能員一族をうしろだてとし、豪族御家人の所領削減を強行しようした。建仁2年7月、頼家は征夷大将軍に任ぜられたが、翌3年7月、にわかに重態となった。時政と政子は頼家を隠居させ、関西38か国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に、また関東28か国の地頭職と総守護職とを頼家の嫡子一幡に譲らせることにした。比企能員は時政に謀殺され、ついで比企一族も一幡を奉じてたてこもった比企ヶ谷で、北条氏に討たれて全滅した。その後、頼家の病気は快癒したが、9月7日、政子のために急に出家させられて、伊豆修善寺に送られて翌年浴室で惨殺された。
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