牛のあゆみ
奥村土牛(1889-1990)は16歳のとき上京し、挿絵画家で知られた梶田半古(1870-1917)の塾に入った。そこでわずか6歳年長の塾頭・小林古径(1883-1957)から指導を受けた。その後、東京美術学校の講師となった土牛は、自宅と教室を直通し、事務所には全然立ち寄ることがなかった。1年ほど立って事務員が「先生、月給が溜まって困りますから取りにきてください」と言われた。土牛は俸給を受け取るということが念頭になかったのであろう。真顔で「私は月給をもらわなくてもなんとかやっていけますから、それを生徒のために使ってください」と言ったという。雅号「土牛」のように純真無垢で、功を急がず、たゆまぬ精進を続けた大器晩成の日本画家であった。
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