中国史 6
UNIT6.西周
周武王の商討伐と建国 周は陝西省の渭水流域に起こり、すぐれた西方伝来の武器と農業技術をもって、周武王は前1023年に殷の紂王を倒して、鎬京(カチン)に建国した。周公旦は反抗的勢力を洛邑に移住させた。このため西周時代は先祖の宗廟のある鎬京と、中原を統治するのに便利な東の洛邑の二都が並立した。
封建制度 王は同族の功臣・土豪に征服地を封土として与え、その土地・人民を世襲させて、貢納・従軍の義務を負担させた。これらの諸侯は王に貢納を納め、戦時には出陣の義務をもったが、だいたい独立を認められ、王族より統制は比較的弱かった。
礼教政治 王は道徳的実践を理想とする礼を重んじて、政治を礼に一致させようとした。
宗族と宗法 宗族とは父系制にもとづく同姓・同氏の親族集団。その上限は4代まえの高祖父、下限は4代後の玄孫にいたるまでの九族ともいう。嫡長子を中心として長子相続の形で組織づけられ、団結を維持するために、祖先の祭祀その他を規定した宗法がつくられた。
土地制度 土地私有制がなく、『孟子』によると、農民は社(土地神)・稷(穀物神)を中心とする村落共同体で支配され、井田により土地を配分して租税を納税させたという。
共和元年 厲王は暴虐であったため、共伯和が摂政となった。この年を共和元年(前841年)という。これが中国最古の実年代である。(『史記』十二諸侯年表)
諸侯の抗争 血縁に支えられた部族都市国家は衰え、周の封建制はくずれはじめた。
Option 周の封建制と西欧のフューダリズムとの違いとは?
封建制度とは領主対農民の間の支配隷属関係、すなわち農奴制を封建制度とみなすならば、西ヨーロッパだけでなく、世界中どこにもみられる普遍的な現象である。しかし歴史用語フューダリズム(feudalism)と相違を明確にするならば、周の封建制度は血縁で結ばれた階級組織をもつ支配階級が村落共同体を通じて農民を支配する制度であるが、西洋のフェーダリズムは、氏族制とは縁のない中世社会に生れたもので、主従関係を結びつけたものは契約のみであった。
option 井田法は本当に実在したか?
郭沫若は「あのような整然たる土地区分法は後世儒家の理想であって歴史的事実でない」と説いた(『中国古代社会研究』1930年) その後、井田制をめぐり学界で論議されたが、現在では井田制度の実在は否認されている。
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