中国史 7
UNIT7.春秋時代(東周)
周室の衰退 遊牧民犬戎の侵入を受け、前770年、都を東の洛邑に遷した。周室は統率力を失い、権威のみを保有。有力諸侯は諸侯の同盟を指導して覇者とよばれ、尊王攘夷を唱えて勢力の拡充を図る。この時代を春秋時代(前770~前403)とよぶのは孔子の祖国魯の年代記『春秋』に由来する。
周代の社会 大きい邑は周囲数kmに及ぶ洛邑のような王都(大邑)があり、その下に地方氏族の邑があり、さらにその末端には数個~10数個の住居からなる集落も邑と呼ばれていた。人々は農民もすべて、城壁の中で生活し、城壁の外で生活する者は人でない「野人」といわれていた。
周代の地理概念 『書経』禹貢篇には夏王朝の始祖禹が洪水を治めて全国を9つの州に区分したとある。禹貢図は戦国時代のものと考えられるが、天下を九州説であらわす地理概念はかなり古くから用いられたものとみられる。
中華思想の成立 漢民族は夷狄蛮戎と総称される異民族の侵入に苦しんだが、文化的優越性から強い中華思想をもつようになり、中国民族のアンデンティティーが確立されるようになったのもこの時代からである。
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