カンボジア史 2
UNIT6.ポル・ポト政権
ポル・ポト(本名サロト・サル)は北京に亡命したシアヌークと手を組み、反ロン・ノル闘争を進め、1975年に全土を制圧すると同時にシアヌーク派を排除して、翌年1月、民主カンプチア政府を樹立。4月、ポトは首相に就任。親中国のポル・ポト政権(クメール・ルージュ)は過激な共産化を断行して、大量虐殺を行う恐怖政治を敷いた。1979年以降はヘン・サムリン軍とベトナム軍とにより政権を追われて内戦を続けた。
UNIT7.ヘン・サムリン政権
東部方面地方軍のヘン・サムリン師団長はプノンペンを制圧し、カンボジア人民共和国を樹立した。旧ソ連・ベトナムの支持を受けた社会主義国だったが、1989年に国名を「カンボジア国」と改め仏教を国教とするなど、社会主義色を薄めた。1990年にパリ和平協定が調印され、国連カンボジア暫定統治機構による停戦監視と総選挙実施が合意された。
UNIT8.カンボジア王国の誕生
1993年の総選挙の結果、カンボジア王国が誕生し、シアヌークが初代国王に就任した。シアヌーク派の民族統一戦線と旧プノンペン政権の人民党との連立内閣だったが、1998年の総選挙では人民党のフン・センが単独で首相となった。1999年4月には念願のASEANに加盟し、長く続いた内戦が終り、2000年代に入って政治状況は安定している。シハモニ国王が就任(2004年10月)
option ポル・ポト政権で行なわれた大量虐殺の実態とは?
ポル・ポト派は60年代にフランス留学経験者らが結成したカンボジア共産党が母体である。最高実力者のポル・ポトは私有財産を廃止し、農本主義的政策を採用。都市住民を農村に移住、強制労働に従事させた。1975年から1979年にかけて過労や病気で200万人近くが死亡したと推定されている。ポル・ポトは内部分裂でタ・モク参謀総長に実権を奪われ、1984年4月に死亡したが、ポト派は99年3月まで存続した。20年にわたった内戦で今もなおカンボジアには600個の地雷が埋まっている。
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