中国史 10
UNIT10.商鞅変法と秦の東方進出
第1次変法 衛鞅は秦の孝公に仕えるや、左庶長に任ぜられ、前359年、第1次変法を行う。什伍制、分家奨励、重農策、私闘禁止、軍功尊重、二十等爵制。
第2次変法 10年後の前350年、次の改革を実行。咸陽遷都、県制、耕地整理(開阡陌)、度量衡統一、分家分財強化。
変法の結果 衛鞅は、この功により商に封ぜられ、商鞅とよばれる。商鞅の改革により秦は最初に富国強兵のもとに中央集権体制を生み出し、のちの秦漢帝国形成の基礎となった。
秦の東方進出 秦の恵文王時代には、張儀の連衡策により、東方6国の連合勢力を破り、昭襄王のとき、范睢を登用し、遠交近攻策によって秦は七雄の第1となる。
長平の戦い 秦は趙と激しく覇権を争うと共に南方の楚に対しても攻勢を加える。前260年、秦は長平の戦いで趙に勝利する。これ以後、秦の東方進出と全国統一は進展する。
秦王政の天下統一 荘襄王は呂不韋を丞相とし、文信侯に封ずる。王は即位3年で亡くなり、前246年、太子の政が13歳で秦王となる。後の始皇帝である。10年後、呂不韋は漏相嫪毒の乱に連座して失脚する。政は法家の李斯を登用し、遠交近攻の策によって、前221年六国を滅ぼし、天下を統一した。
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