在満邦人、ハルビン哀話
松花江に面したハルビンは、もともと一寒村にすぎなかったが、1898年、東清鉄道の建設拠点として、ロシア人によって建設された。市内にはアール・ヌーヴォーの建築が立ち並び、「東洋のパリ」と呼ばれていた。ロシア人は秦家崗と埠頭を中心に都市づくりを進めていたが、その北東側の傳家甸(でんかでん、現在の道外区)に中国人の商人や労働者の住む町が形成されていった。1904年、浜江庁がおかれ、吉林省双城府の管轄とされたが、1913年、浜北県となった。ロシア革命に乗じて、中国はロシアのもっていた警察権、行政権などを自分たちのものにしていった。その後、ハルビンをめぐるソ連との紛争は未解決のまま、満州事変となり、1932年、日本軍はハルビンを占領し、翌年、満州国の特別市となって第二次世界大戦の終末にいたった。関東軍が白旗を掲げて停戦し、ソ連軍が満州の各都市へ進駐してくると、日本人の避難民は理不尽な掠奪、暴行などを受けた。さらに衣料や食べ物、暖をとるための燃料が十分でなく、栄養失調や病気で斃れる者が後をたたなかった。ソ連侵略時の混乱の中で親が死亡したり、行方不明になった子どもたちは、中国人に預けられ、あるいは拾われたりして、中国残留孤児となった。
著名人では、漫画家・上田トシコは大正6年、東京に生まれ、生後40日でハルビンに渡る。梅宮辰夫は昭和13年のハルビン生まれ。加藤登紀子は昭和18年のハルビン生まれ。宝田明は昭和9年の朝鮮に生まれ、終戦時はハルビンの国民小学校6年生だった。
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