無料ブログはココログ

« 帽子が似合う外国女優 | トップページ | 真の愛とは »

2010年2月14日 (日)

謎の推古朝

    崇峻天皇のあと、蘇我氏と関係の深い女帝の推古天皇が即位し、翌年には天皇の甥である聖徳太子が摂政となった。こうして聖徳太子を中心とした飛鳥文化がおこった、というのが従来の日本史教科書的な歴史だった。ところが昨日の朝日新聞にある「聖徳太子、存在は創作?実態は脇役」という河合敦の記事が興味をひく。

    聖徳太子といえば、誰しもあの紙幣の肖像を思い浮かべるだろう。実は紙幣の原画となったものは法隆寺に所蔵(現在は宮内庁所蔵)されていたもので、あの人物が本人を描いたものだという確実な証拠はない。あの絵は太子の没後100年以上たってから描いたと推定する美術史家もあり、あくまで想像画である。摂政となっということすら疑問視する学者もいる。また皇太子という制度はこの時代に確立されていなかった。そもそも「聖徳」という名も太子が死んでから100年ほどたった日本書紀に初めて登場する。厩戸皇子が存在したとしても、有力な皇族の一人にすぎず、政治の主導力があったか疑問である。有名な十七条の憲法は太子信仰が高まった頃の僧侶の偽作と考えられる。かりに存在したとしても、外部に発表されて実効性のあったものとは考えられない。以上の近年の歴史界の動向を反映して、最近の教科書でも聖徳太子の扱いは小さくなりつつある。

« 帽子が似合う外国女優 | トップページ | 真の愛とは »

「日本史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 帽子が似合う外国女優 | トップページ | 真の愛とは »

最近のトラックバック

2017年4月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30