芭蕉「笈の小文」の芸術観
貞享4年(1690)10月、江戸を出発した芭蕉は、東海道を経て故郷の伊賀上野に帰って越年、翌年伊勢、吉野、高野山、和歌の浦、奈良をめぐり、4月、須磨、明石に至っている。関西には芭蕉の門弟も多く、「笈の小文」の旅は楽しいものだっだろう。「笈の小文」として刊行されたのは、芭蕉死後15年のちの宝永6年(1709)のことであるが、草稿が執筆されたのは元禄3、4年頃であり、「おくのほそ道」旅行後の芭蕉の芸術観をうかがうことができる。
西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。
現実生活を風雅の中のみで生きることは、当然のこととして、現実生活はやせて、辛くなっていく。財なく、家庭なく、住まいない現実に甘んじなければならない。このようなつらい現実に対して、造化随順の覚悟を述べたものであろう。
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