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2010年2月28日 (日)

岩波書店「世界」の意外性

   「太平洋戦争は我国有史以来未曾有の屈辱的降服を以て結ばれた。我々の前途には暗澹たる不安と混乱とが横はり、国民の一人一人が悉く深刻な受難の唯中に在る。併しこの終戦と同時に、戦争中の無理と虚偽と擬勢と不正とは暴露され、我が国民は今こそ現実に立つて真理を仰ぎ、新たな発足をせねばならなくなった。」岩波書店の総合誌「世界」が創刊されたのは昭和21年1月号からである。以来60有余年、その論文は膨大な量となる。図書館では永年保存にしているものの、このまま保存すべきか、大図書館に保存を委ねるべきか悩んでいる館も定めしあるだろう。

    太宰治、三島由紀夫、石原慎太郎、松本清張、司馬遼太郎。彼らの中で一度も「世界」に寄稿したことの無いのは誰か。答えは、全員一度ないし数度寄稿している。太宰治は有名な「桜桃」が掲載されている。(昭和23年5月号)女優の吉永小百合もある。「シルクロードを旅して」(昭和60年2月号)手塚治虫は「座談会、漫画の世界」(昭和39年1月号)がある。当時、テレビ・アニメーションが始まり多忙な時期だが、どんな話がとびだしたのだろう。このような古い雑誌の面白味がでてくるのは実はこれからなのだ。索引もシッカリしたものができたときに、イザ近くの図書館へ行くと、あれはもう廃棄しました、というのでは情けない思いがする。国立国会図書館にあります、ウェブで閲覧できます、という時代になるのだろうが、貴重な知的文化財を身近で保存するという意識が希薄なのが残念だ。

死刑制度をめぐる論議

    死刑とは、受刑者の生命を剥奪し、その社会的存在を抹殺することを目的とする刑罰であり、わが国の現行刑法も死刑制度を刑罰体系の中に認めている。しかし、近年、刑罰の本質につき教育刑主義を唱える近代学派の立場から、また宗教的教義、人道主義の貫徹という立場から、さらには誤判の救済が不可能という理由から、これに対して廃止を主張する動きが顕著になってきている。たとえばEU各国は、死刑廃止を決定し、EUへの加盟条件の1つとしている。また欧州人権条約第3条で死刑を禁止している。そしてEU加盟を目標としているトルコは死刑制度を廃止した。ベラルーシはヨーロッパで唯一の死刑存置国であるためEU非加盟国である。2001年にEUは死刑を存続している日米両国に対し、死刑廃止に向けた実効的措置の遂行を求めている。いま世界で死刑を廃止している国は139ヵ国で、死刑制度を存続している国は58ヵ国である。

   日本では、かつて死刑の決定には永山基準といわれるものは「被害者2人までは有期、3人は無期、4人以上は死刑」という基準があったが、最近では複数、ないし1人の場合でも死刑となるケースがあり、厳罰化の傾向と、過去の判例に比べ著しく量刑にバラツキが生じている。被害者の遺族の感情を重視する日本式の裁判制度は、新しく制度化された裁判員制度でどのように進展していくか不安材料は多い。ドイツはナチスのユダヤ人虐殺の影響があり、イギリスでは冤罪事件の反省から死刑廃止に進んだ。元来、キリスト教国では「十戒」の第六「汝、殺すなかれ」とある根本倫理に由来するものとも説かれることが多い。このような世界的な死刑廃止の潮流のなかで、「死刑は残虐な刑ではない」(憲法36条に違反するものではない、という判例)とする日本の主張との隔たりは大きい。裁判員制度の導入によって、人間存在を真摯に考える者であるならば、日本国民誰しもが「死刑制度の是非」という直面する国民的課題としてつきつけられることとなった。ブログ論壇でも死刑制度存置の是非をめぐって論議が活発化されることが予測される。

2010年2月27日 (土)

窪田空穂門下の歌人たち

この子ゆゑ命懸けにし母なりと我は知られど子は知らずけり

   大正6年、窪田空穂(1877-1967)の妻の藤野は産のために30歳の若さで亡くなった。ここに歌われている子は当時まだ5歳の幼女にすぎなかった長女のふみである。その娘が今はすくすくと育って、あれほど愛してくれた母を忘れて育っていくのは、ある意味では自然であり、それがまた父親としての救いでもあろう。だが、無邪気な娘のさまをみていると、あれほどかわいがっていたのにと、ふっといいようのない寂しさが作者の胸をよぎるのだ。亡妻へのいとおしみ、子供を育ててきた父親としての喜びとかなしみともつかぬ感慨、そういういわば人間のあわれとでもいうべきものがしみじみ読者の胸をうってくる。

    窪田空穂の本名は通治。明治10年6月8日、長野県東筑摩郡和田村に生まれた。大正3年、雑誌「国民文学」を創刊。その門下から多数の歌人が生まれた。松村英一(1889-1981)、半田良平(1887-1928)、植松寿樹(1890-1964)、対馬完治(1890-?)、川崎社外(1884-1934)、宇都野研(1877-1938)らが出た。なお空穂門下から出発した歌人には、菊池庫郎(1881-1964)、宗不旱(1884-1942、氏家信(1882-1949)、丸山芳良(1884-1932)、豊島逃水(1895-1932)、谷鼎(1896-1960)、菊池剣(1893-1977)らがいる。比較的空穂系に近い歌人として、尾山篤二郎(1889-1963)がいる。大正6年、雑誌「自然」を創刊。自然に集った歌人には岸良雄(1884-?)、日比野道男(1905-1957)、矢沢孝子(1877-1956)、横山良一郎(1899-?)らがいる。また現代の歌人、馬場あき子、梅内美華子、坂井修一、米川千嘉子、今野寿美、日高堯子、松村由利子、日置俊次など窪田空穂の系譜に繋がる。

2010年2月25日 (木)

死刑囚、最後の18秒

    16世紀の人文主義者トマス・モアは死刑廃止論者として知られる。だが彼自身も1535年に死刑に処せられている。18世紀のブラック法は厳罰主義で知られており、後世「血の法典」と呼ばれている。一般庶民は絞首刑、貴族は斬首が適用された。1800年には10歳の子供が死刑に、1808年には7歳の少女が放火犯として死刑になっている。19世紀には英国の植民地であったオーストリアへ流刑するようになり、死刑回避の方法が考えられるようになった。1908年には16歳以下に対する死刑が禁止され、1933年には18歳以下に対する死刑が禁止された。また1931年には妊婦の死刑が禁止された。戦後、1949年のエヴァンス事件や1961年のハラッティ事件(A6殺人事件)などをきっかけに死刑が見直されるようになった。1965年に5年間死刑執行を停止する時限立法が議会で可決され、1969年にイングランド3地区で廃止された。1973年に北アイルランドで廃止、1998年に完全に死刑が廃止された。

    ここではイギリスの死刑執行官の実態をみてみよう。死刑執行官一行は、運動中に、あるいはドアののぞき穴から、囚人を観察して、身長、体重、体格などを推測した。そして、体重とほぼ同じ重量の砂袋を使って、死刑台のテストが行われる。この砂袋は、ロープを伸ばしきるために、一晩中吊るしたまま放置された。首の筋肉が発達していない痩せ細った死刑囚の場合、通常より長い落下距離が必要とされた。絞首刑の前夜には、刑務所長が死刑囚監房を訪れて、遺言を聞くのが習わしだった。死刑執行当日の朝がくると、通常、聖職者が囚人と最後の時間を過ごし、執行が完了するまでかたわらで見守った。死刑執行官と助手は、看守長とそのほか1名の看守とともに死刑囚監房の外まで出迎えにいく。合図とともに、死刑執行官が房内に進み、死刑囚を後ろ手に縛った。次に死刑囚は両側を1人ずつの看守にともなわれて、収監されて以来初めて開かれる死刑囚監房の別のドアから死刑台に連れて行かれる。死刑囚は、「落とし穴」の上、落とし板の合わせ目の真上に立たされ、両足を縛られる。死刑執行官は囚人の頭に白い帽子をかぶせ、ロープの輪を首にかける。そしてレバーが押されるのだ。死刑囚監房を出てからここまでのプロセスは、わずか18秒ですむ。死刑囚には、気分を落ち着かせるためらブランデーが与えられることもある。医務官が死刑囚の絶命を確認する。次に、執行室まの鍵がかけられ、死刑囚は1時間吊るしたままにされる。検視と埋葬は、その日のうちに行われる。死刑は必ず午前9時に執行されるのが、慣例だった。

2010年2月24日 (水)

カルチェラタンとサン・ジェルマン・デ・プレ

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    パリがなぜ文化、芸術の都となったのか。理由はいくつか考えられるが、歴史的にはヨーロッパの知識人、学生が集まる場所だったからだ。14世紀のパリの人口はおよそ15万人ぐらいだった頃、1万人以上の学生がいたといわれている。彼らはヨーロッパ中からやってきたのだが、自国語ではおたがいに話が通じないので、共通語としてラテン語を話した。そのため、高等教育機関が多く集まりパリの第5区と第6区にまたがる地区、いまのソルボンヌ大学のある周辺はカルチエ・ラタン(ラテン地区)と呼ばれている。

    サン・ジェルマン・デ・プレには、哲学書や専門書の版元が集中している。アカデミックな地区は、両大戦をはさんで、若い学生や芸術家がここに集まった。サルトル、ボーボワール、レヴィ・ストロースが実存主義を語った。いまでも夜半すぎてもこのあたりのカフェで議論が続いている。、

何を読むべきか

    今年は国民読書年である。読書室を経営している者としては、何をすべきかと考えさせられる問題である。「人と本とをつなぐ」と一言でいっても、喜びもあるが相当に難しい生業だ。とりあえず先ず自分が何を読むかということを起点にしたい。「書物を買いもとめるのは結構であろう。ただしついでにそれを読む時間も、買いもとめることができればである」と皮肉屋ショウペンハウェルが言っている。実際、十分な読書時間を毎日の生活でつくることが大事であろう。10分読書とか通勤時間で読む、という人もいるが、それでは十分な読書の醍醐味を知ることはできない。ブログのネタをさがすために、本を調べるのでなく、名作をじっくりと読む読書がしたい。丸山真男が「何を読むべきか」「勉学についての二、三の助言」という一文で成る程とおもわせることを書いている。これは東大生向きに書いたものであるが、かなり老成した学徒にもあてはまるように思う。つまり「学生諸君の読書の一般的な指針として、私の経験からいへば、平凡な事の様ですが、学生の間でなければなかなか読む暇とエネルギーのない様な相当大部の名著を、一つでいいから徹底的に精読することをお勧めします」とある。たとえば哲学を専攻したいと思う学生がいて、論理的、抽象的な哲学書ばかりを読むのではなく、社会科学の古典的な名著を読んでおく必要がある。日本の哲学者は哲学だけだが、欧米の哲学者のほとんどは社会科学の個別科学の専門を一つもっている。丸山は政治学だが歴史学を勉強した。ジョン・モーレー(1838-1923、イギリスの伝記作家)とかエミール・ルードヴィヒ(1881-1948、ドイツの伝記作家)とかの伝記を推薦している。(どうやら原書で読めといっているようだが)歴史を学ぶと、人間を再発見するという。大部の名著を読むにはエネルギーもいるが、収穫も大きいだろう。そういえば、まだ私はマックス・ウェーバーの本があるのにまだ全然、読んでいない。己の不勉強を恥じ入る。

2010年2月23日 (火)

在満邦人、ハルビン哀話

    松花江に面したハルビンは、もともと一寒村にすぎなかったが、1898年、東清鉄道の建設拠点として、ロシア人によって建設された。市内にはアール・ヌーヴォーの建築が立ち並び、「東洋のパリ」と呼ばれていた。ロシア人は秦家崗と埠頭を中心に都市づくりを進めていたが、その北東側の傳家甸(でんかでん、現在の道外区)に中国人の商人や労働者の住む町が形成されていった。1904年、浜江庁がおかれ、吉林省双城府の管轄とされたが、1913年、浜北県となった。ロシア革命に乗じて、中国はロシアのもっていた警察権、行政権などを自分たちのものにしていった。その後、ハルビンをめぐるソ連との紛争は未解決のまま、満州事変となり、1932年、日本軍はハルビンを占領し、翌年、満州国の特別市となって第二次世界大戦の終末にいたった。関東軍が白旗を掲げて停戦し、ソ連軍が満州の各都市へ進駐してくると、日本人の避難民は理不尽な掠奪、暴行などを受けた。さらに衣料や食べ物、暖をとるための燃料が十分でなく、栄養失調や病気で斃れる者が後をたたなかった。ソ連侵略時の混乱の中で親が死亡したり、行方不明になった子どもたちは、中国人に預けられ、あるいは拾われたりして、中国残留孤児となった。

    著名人では、漫画家・上田トシコは大正6年、東京に生まれ、生後40日でハルビンに渡る。梅宮辰夫は昭和13年のハルビン生まれ。加藤登紀子は昭和18年のハルビン生まれ。宝田明は昭和9年の朝鮮に生まれ、終戦時はハルビンの国民小学校6年生だった。

死刑と無期懲役の境は?近代日本の暗黒裁判史

    死刑と無期懲役との間には大きな違いがある。ある被告は「無期懲役」と宣告されて、「命が助かった」とほんとうに喜びをかみしめた。人が人を裁くことの意味、法曹に関わらない一般人がその問題に直面して正しく公正な判断が可能なのであろうか。裁判員制度がスタートして、誰もが裁判所から呼び出し状をもらうことがあるかもしれない。近代日本の裁判史を学習することは無駄ではあるまい。しかし日本の裁判史は公正なものとは対極の隠微で卑劣な歴史である。

    劈頭を飾るのは、やはり大逆事件だろうか。明治44年、管野スガ、幸徳秋水ら12名は処刑された。石川啄木は、「日本はダメだ」「朝に枕の上で国民新聞を読んでいたら俄かに涙が出た」「畜生!畜生!さういふ言葉も我知らず口に出た」と日記に書いている。

   昭和11年7月、香田大尉以下15名のニ・ニ六事件の主謀者に死刑を執行。また青年将校に思想的影響を与えたとして北一輝、西田税も死刑とした。これらクーデータの軍人、あるいは右翼の思想家、幸徳秋水らの社会主義者、無政府主義など、思想そのものを弾圧するための死刑がいかに問題であるかは、ここではおいておく。むしろ終戦まもなく起きた帝銀事件などに問題は多くはらんでいる。画家平沢貞通は物的証拠なきまま死刑の判決をうけ、のち確定した。ただし死刑は執行されず昭和62年、獄死。享年95歳。収監期間37年は世界最長記録。このレコードは到底自慢できる記録ではない。日本の法曹界の暗部を物語るものであろう。

  死刑か無期懲役か。平成22年2月、米子強盗殺人の裁判員10人が選任された。裁判所は事前の選考で「絶対に死刑を選択しないと決めてますか」と聞いている。これは宗教上の理由で死刑にできない人を除外する目的のようだ。こういった事前調査は裁判員制度法で認められているという。つまり立場や思考の異なる人を集めるのではなく、最初から死刑に適用する者だけを選別して判決をくだすというものである。被告にとっては不利なリンチ刑である。裁判員制度にはまだまだ多くの公正でない点が感じられるが、石川啄木の「日本はダメだ」という叫びは現在も続いている。

2010年2月22日 (月)

高校世界史はブログネタの宝庫

    むかしから高校世界史はよく学習してきたつもりだったが、まだまだ甘いことに気がついた。ドラマ「わが青春のとき」で笠智衆が若い医学研究者の石坂浩二に「何時間睡眠しているか」と聞いたところ、「8時間くらいです」と答えた。笠は「それはいかん。6時間で十分、時間を大切にして、勉強しなければいけない」と諭す場面がある。このドラマは単なる医学のヒューマンドラマというよりも、研究者とはいかなるものか、真摯に問うた作品で諸学問にもあてはまるものである。最近、古い世界史の参考書を捜している先生がおられて、話を聞くと、この世には自分と同じ考えの方がいるものかと驚いた。もちろん本職の偉い先生と、ケペルのような巷のインチキ学者とは異なるのだろうが、若い頃、受験参考書で歴史を勉強していたが、それが知らぬ間に歴史の深い森に分け入っていくのである。もちろん学生時代は気の合った友人と互いにクイズなど出し合いながら楽しんで学習していた。あまり相手がしらなそうのところを出す。「アルブケルケ」「キヴィタス」「アンボイナ」「マンジカルト」「ヘプターキー」などの項目を問う。最近の参考書を見ると、学生時代には習わなかった事項も新しく追加されている。「ラス・カサス」というスペインの残虐行為を批難した宣教師は先住民の問題で今日たいへん重要な人物として取り上げられている。また日韓関係が親密になってきたことで、朝鮮王朝の歴史も身近なものになっている。朝鮮王朝は27代続いたが、「イ・サン」という韓国ドラマで第22代の世祖(1752-1800)を知った人も多いだろう。世祖の時代は学術活動が盛んで朝鮮の文芸復興といわれる。山川出版社の「詳説世界史研究」や数研出版の「世界史辞典」にも追加されるかもしれない。高校世界史はブログネタの宝庫だ。

応援してまっせ、コリア・ヘチ

Photo_2 ヘチはソウル市のマスコット人形

    野球関西独立リーグに韓国人主体の球団「コリア・ヘチ」が春から参入する。選手21人は韓国人と在日コリアンで構成。球団名は、朝鮮王朝を守護した神獣「ヘチ」に由来する。もともと、李舜臣(イ・スンシン)が豊臣秀吉の朝鮮出兵を失敗に終らせたことで知られる亀甲船にちなんで「タートルシップ」とする予定だった。だが、「反韓感情を生まないか」との声が出て変更したという。ずいぶんとお互いに気を使うようになったものだ。ともかく韓国選手の豪快なプレーを期待したい。

「ああ無情」老姉妹の焼身自殺

    2月20日、大阪府大東市で人が焼けているという110番通報があった。警察が駆けつけたときは、すでに遅く2人の焼死体が発見された。この家に住んでいた80歳代の姉妹が自宅の庭で油をかぶって焼身自殺を図ったものらしい。付近には「ご迷惑をおかけします」と書かれたものが見つかった。何が2人を追いつめたのか。2人の家は借地で地代の滞納があった。22日には裁判所が強制執行することになっていた。家は姉妹の親から譲られたもので、自然と地代の支払いを負わされることになったのであろう。80歳をすぎればどれくらいの収入なのかはさしてしるべし。日本は福祉国家のはずだ。解決策はなかったのか。行政の窓口で相談はなかったのか。地区の民生委員は?シャイロックのような地主の取立てはどのようなものだったのか?裁判所は実態を知っていたはずだろうが?いま、行政では責任の所在のなすりあいがおこなわれていることだろう。老女が選んだ自殺の方法は「焼身自殺」である。古来、通例として「焼身自殺」というのは、何か訴えたのものがあるときにする方法である。つまり無言の抗議だ。では、老女は何を世間に訴えたかったのか。やはり、薄情な世の中に対してだろう。それは声なき声であり、行政は聞く耳をもたないだろうが、なんとも痛ましい話である。老人になり、資産がなくなれば、国家や自治体のお世話になることは当たり前ではないか。公的年金や医療制度など、医者や十分資産のあるもだけが潤い、本当に困っている人にゆきわたらないというこの国に憤りを感ずる。世間の人の薄情さも哀しい。

芭蕉発句集 あや~あら

    芭蕉は、自らの俳諧を「予が風雅は夏炉冬扇のごとし。衆にさかひて用る所なし」(柴門ノ辞)で記している。だが心のうちでは十七文字に人生の深淵をのぞくという自負があったであろう。生活が芸術と一体であることが蕉風の真骨頂である。

51  あやめおひけり 軒の鰯のされかうべ

52  あやめ草 足に結ばん草鞋の緒

53  鮎の子の 白魚送る別れかな

54  荒海や 佐渡によこたふ天の川

55  嵐山 藪の茂りや風の筋

56  あらたふと 青葉若葉の日の光

57  あら何ともなや きのふは過ぎて河豚汁(ふぐとじる)

58  霰きくや この身はもとの古柏

59  霰せば 網代の氷魚(ひを)を煮て出さん

60  霰まじる 帷子雪はこもんかな

2010年2月21日 (日)

時をかける少女

   物語は放課後の理科実験室で始まった。掃除も終り、深町一夫と堀川吾朗は手を洗っていた。そのとき、一人残った芳山和子は実験室で不審な物音を聞いた。誰もいないはずなのに。思いきって入ってみたが人の姿はなかった。が、突然和子は不思議な香りに包まれて気を失ってしまう。気がついた時には、すべて何事もなかったように整然としていた。しかし、あの不思議な香りだけはしっかりと覚えていた。あれはラベンダーの香り。

   芳山和子の心からはあの不思議な体験はすべて消されていた。そして初恋の思い出も。原作は筒井康隆のジュニア小説。高1コースに連載されていた。あれから半世紀。懐かしい昭和の時代の青春がリメイクされて甦った。今度は、芳山和子が交通事故にあい、昏睡状態で「深町一夫」の名をうわごとで呼ぶ。娘は母の恋を再体験するためタイム・リープとテレポーテーションする。島田淳子、原田知世、南野陽子、内田有紀、中本奈奈、安倍なつみ、そして仲里依紗。アニメーション。甘くそして切ない思いは時代を超えて語り継がれる。

三一独立宣言

Img_0026  崔南善

  「吾等はここに朝鮮が独立国であり、朝鮮人民が自主民であることを宣言する」という言葉で始まる「三・一独立宣言書」は崔南善(チェ・ナムソン1890-1957)によって起草された。崔は漢城(現・ソウル)に生まれ、早稲田大学に学んだ。大正7年2月8日、李光洙(イ・ガンス1892-1950)らが神田のYMCA会館に集まり「独立宣言書」を採択した。高宗の急死後、国葬が行われる3月3日に向けて独立運動が計画された。仁寺洞の泰和館で「独立宣言書」を朗読し万歳三唱をした。参加者は、孫秉熙(ソン・ビョンヒ1861-1922)、李昇薫(イ・スンフン1864-1930)、韓龍雲(ハン・ニョンウン1879-1944)、白龍城(ペク・ヨンソン)ら33人といわれる。当時17歳だった柳寛順(ユ・ガンスン1902-1920)は独立運動で逮捕、刑務所に収監され、獄死し、「朝鮮のジャンヌ・ダルク」と呼ばれている。起草者の崔南善も逮捕、投獄される。文学者の李光洙との出会いも日本においてだった。だが、独立運動の崔も、戦後、韓国で「親日派」としてみられ刑を受けた。

60の手習い「高校世界史」とイスラム

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    高校世界史の教科書が売れているという。書店には新刊「もういちど読む山川世界史」が平積みされている。斯く言うケペルも本物の教科書を大型書店で買う(世界史BはもちろんAも)。教科書だけでなく副教材「図説世界史」の類も買う。印刷技術の進歩はめざましくカラー図版に工夫があり面白い。「コンスタンティノープルの陥落」の鳥瞰図で説明し、トルコの船が山を越えるイラストは傑作。

    教科書的な概説書がそれほど求められる背景には、おそらく世界がグローバル化したことがあげられるだろう。従来、高校世界史は暗記物で大学受験のためか、さもなくば一般教養的な知識を得る目的が多かった。ところが現代では投資をするにしても海外の情勢を知る必要があるし、ベースとなる文化や歴史が不可欠となる。いわば実利的に見ても世界史が必須なのだ。とくに強調したいのはイスラム世界への理解だろう。どうしても日本国内の情報だけでは偏重するので、高校世界史レベルの基礎知識をたえず学習することを心がけている。たとえば、イドリース朝、アグラブ朝、ターヒル朝、サッファール朝、サーマン朝、ファーティマ朝、ブワイフ朝、カラハン朝、ガズナ朝、ムラビート朝、ムワッヒド朝、アイユーブ朝、セルジューク朝、ホラズム朝、ゴール朝、マリーン朝、ザイヤーン朝、ハフス朝、マムルーク朝、デリー・スルタン朝など知っているだろうか。どれが、アラブ系か、イラン・アフガン系か、トルコ系か、識別できるか。王朝の興亡史を知らないと、10世紀から12世紀にかけてのアジア、アフリカ、ヨーロッパ世界が理解できない。とくにアラブと非アラブの問題は複雑だ。イスラムを受容したアラブは、支配者として免税などさまざまな特権を有していた。しかし、非アラブのイスラム教徒が増大すると、これに反発して、すべてのイスラム教に同等の権利を保証すべきという運動がおこった。その結果成立した体制をイスラム国家という。

2010年2月20日 (土)

白鳥は悲しからずやスワンの涙

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    平成22年2月22日は、なんと「2」が5つ並ぶ。これを機会にと、禁煙推進学術ネットワークが毎月22日を禁煙の日にすることを発表した。「2」の形が、左を向いた白鳥(sawn)に似ていることから、「22」を「吸わん、吸わん」ともじったらしい。厚生労働省でも先ごろ、分煙では健康被害は防げないとして、飲食店などでの全面禁止化を推進していくという。タバコ自体も値上がりする。で、いったいタバコをどこで吸えというのか。愛煙家にとって辛い日々となりそうだ。いっそ、遠い北国の湖へ行って、一人でおもう存分にタバコを吸おう。懐かしのグループサウンド・オックスの歌を歌いながら。

  いつか君が 見たいと云った

  遠い北国の湖に

  悲しい姿 吸わんの涙

2010年2月18日 (木)

孤島ロンドン

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    ロンドンは世界的な大都市であるにもかかわらず、ここに居住する人々はまるで絶海の孤島であるかのように、互いに妥協することのない強力な個性を維持した個人主義を保っている。地理的には国土がヨーロッパ大陸からドーバー海峡によって隔てられているように(もっとも1994年には英仏海峡トンネルが開通したが)、大陸の動きから常に一定の距離を保ちながら現在に至っている。

    ところでロンドンの地下鉄には、なんと一人ひとりを区切る肘掛けがついている。これもロンドンの個人主義の現われであろうか。
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ある詩人の死

Img_0026 「チャタートン」 ヘンリー・ウォリス  1856年

    18世紀イギリスの詩人トーマス・チャタートン(1752-1770)は貧困のなかで死んだが、19世紀には天才として大いに称賛されるようになった。彼は幼少の頃から詩作を行っていた。彼はそれを古い羊皮紙に書き写して、中世写本と偽って制作していた。セント・メアリー・レドクリフ教会の記録保管室から出した古文書の中から発見したと称して、みずから偽造した古いバラード風な詩を発見したのがまだわずか15~16歳のころであった。15世紀のトーマス・ローリーという名の架空の詩人を中世末期に設定し、その遺作と偽り、当時の復古趣味に乗じて世の注目を集めた。彼はそれを「ローリー詩集」としたが、すぐに偽作であることは見破られ、詩才を生前に認められることはなかった。だが死後、彼の作品はロマン主義の先駆として高く評価されるようになる。ジョン・キーツ(1795-1821)などは、シェークスピアにつぐ最もイギリス的な詩人と絶賛し、さらにロセッティやモリスなどのラファエロ前派の芸術家もチャタートンの詩を評価した。チャタートンの人生は貧窮の極みでロンドンのホルボーンにある屋根裏部屋で毒を飲んで18歳の誕生を迎える前に自らの命を絶った。

澄んだ眼差し

Img_0025 澄んだ眼差し アバディーン美術館 1877年

    ジョン・エヴァレット・ミレー(1829-1896)は、ヴィクトリア朝時代を代表する肖像画家である。とくに子どもの肖像に優れており、この「澄んだ眼差し」もモデルであるフロレンス・コレッジの誠実な面持ちを正面観で描いている。同時代のフランスのマネの影響がみられる。

    ミレーには社交界を騒がせたスキャンダルがある。ミレーが評論家ジョン・ラスキン(1819-1900)と出会ったのは1851年のことだった。そのときラスキンには美しい妻ユーフィーミア(通称エフィ)がいた。三人はそろって旅行へ出かけた。やがてミレーとエフィは互いに愛するようになる。エフィの行動は社会から非難された。しかし彼女は満たされることのなかった不幸な結婚生活に終止符をうち婚姻無効の訴訟を起こした。つらい、スキャンダラスな審問ののち、婚姻は正式に無効となり、ミレーとエフィは結婚した。だがミレーを寵愛するヴィクトリア女王さえも二人の結婚は認めなかった。1896年、ミレーが喉頭ガンで死の床にあったとき、女王から「なにかできることはないか」との伝言が届けられた。ミレーは妻の拝謁を受けてほしいと願った。妻は醜聞のために宮廷の出入りを禁じられていたのだった。女王はエフィの拝謁を許した。数日後、ミレーは67歳で亡くなった。妻のエフィもその後を追うように翌年12月に亡くなった。

2010年2月17日 (水)

禅院に題す

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  觥船一棟 百分空し

  十載の青春 公に負かず

  今日鬢糸 禅榻の畔

  茶煙軽く颺る 落花の風

   若いころの杜牧は日々宴遊にふけり妓楼に出入りし、風流才子として評判であったが、やがてその彼も中年になった頃の作。「茶煙」とは茶を煎るときに出る煙のことで、その渋み、ほろ苦さが中年のしみじみとした感傷の気分がただよう。この詩から「茶煙鬢糸」という言葉も生まれた。

リチャード・キンブルは健康食品ブームをどうみるか?

「逃亡者第68話、蜜の奇跡」行き倒れとなったキンブル(デビッド・ジャンセン)はジョセファス(アーサー・オコンネル)という男の診療所で手当をうけた。男は医師の資格がなく、「医学は患者を苦しめるだけ」という信念で、ハチミツを製造して民間療法で病人たちに人気があった。だが、患者の一人が糖尿病であった。キンブルは医師としてのヒューマニズムからジョセフスに医療をやめて病院での治療をするよう説得した。まもなくその患者はなくなった。民間治療や健康食品への妄信のため犠牲となった。すでに60年代アメリカで社会問題となっていたのだろう。ハチミツは食品か医薬品か。もちろん食品だろう。過大な効能は被害を大きくする。「逃亡者」は追跡劇のアクション・ドラマ、あるいはサスペンスを期待するかもしれないが、アメリカの社会問題を扱ったヒューマン・ドラマの先駆である。なおこの回には、「勇気ある追跡」「いちご白書」の青春スター、キム・ダービーが登場している。キムにはハチミツよりイチゴがよく似合う。

Img_0025 キム・ダービーと歌手のグレン・キャンベル

2010年2月16日 (火)

アイルランド叙情詩 一編

ただ一輪、花開いた

夏の名残りのバラよ

美しい仲間たちはすでにみな

色あせ消え去った

その恥じろう頬の赤らみに応え

嘆きの吐息を分かつ

身寄りの花もなく

バラの蕾一つとしていまはない

     (トマス・モア「夏の名残りのバラ」)

    トマス・モア(1779-1852)はアイルランドのダブリンに生まれる。この詩は、わが国ではバラが白菊に置き換えられているが「庭の千草」として歌われている。

2010年2月15日 (月)

サマナ生まれの画家シャセリオ

    近代絵画の先駆者テオドール・シャセリオ(1819-1859)の生まれはカリブ海のドミニカ共和国北東部にある港町サマナ(19世紀当時はハイチ)。19世紀初めフランスから独立したものの、ムラートとブードゥ教を信仰する黒人との対立で内乱は続いていた。フランス人のシャセリオの家族が何をしていたかは知らないが、早くパリに帰国し、11歳で新古典主義の画家アングルの弟子になっている。シャセリオの特色は「水浴のスザンナ」をはじめ「エステルの化粧」「クレオパトラ」など官能的な女性美にみとめられる。ハイチでの記憶は無いかもしれないが、異国的趣味は出生地の影響がみとめられる。シャセリオの色彩表現は、のちのモローやシャバンヌに影響を与えた。

安藤昌益をめぐる人々

   「自然真営道」などの著作でしられる安藤昌益(1703-1762)は「万万人にして一人なり」と述べ、人の平等を説いた。昌益をめぐる八戸の江戸中期の人々については詳しいことはわからない。上級藩士の岡本高茂、藩主側医の神山仙庵、側医の関諄甫と関立竹、天聖寺の則誉守西と延誉擔阿和尚、法光寺充胤大棟和尚、南宗寺関龍祖雄和尚、禅源寺大江東義和尚、高橋大和守、中村忠平、上田祐専、福田定幸、北田静可、高橋栄沢、中村信風、嶋盛慈風、中居伊勢守など名のみ知られている。藩士、藩医、神官、僧侶たちである。このうち神山仙庵は昌益の号の確竜堂良中が一字もらって仙確と号した。ふつう神山仙確で知られる。昌益の原稿を校訂し、宝暦2年、江戸で「自然真営道」を刊行した。孫の由助は和算家神山久品として知られる。

2010年2月14日 (日)

芭蕉「笈の小文」の芸術観

    貞享4年(1690)10月、江戸を出発した芭蕉は、東海道を経て故郷の伊賀上野に帰って越年、翌年伊勢、吉野、高野山、和歌の浦、奈良をめぐり、4月、須磨、明石に至っている。関西には芭蕉の門弟も多く、「笈の小文」の旅は楽しいものだっだろう。「笈の小文」として刊行されたのは、芭蕉死後15年のちの宝永6年(1709)のことであるが、草稿が執筆されたのは元禄3、4年頃であり、「おくのほそ道」旅行後の芭蕉の芸術観をうかがうことができる。

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道する物は一なり。しかも風雅におけるもの、造化にしたがひて四時を友とす。見る処花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし。像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

    現実生活を風雅の中のみで生きることは、当然のこととして、現実生活はやせて、辛くなっていく。財なく、家庭なく、住まいない現実に甘んじなければならない。このようなつらい現実に対して、造化随順の覚悟を述べたものであろう。

真の愛とは

真の愛とは個人的な幸福を否定し、すてさった結果にほかならない(トルストイ)

    愛とは、自分よりも、自分の動物的な自我よりも、他人をすぐれたものとして認める心である。自己犠牲の域にまで達しない愛は、自分のかかわりあっている目のまえの出来事を無視してしまうなどということが起こりがちなもので、これなどは、個人的幸福のために、あるものをほかのものよりも重くみるという、ただのより好みの感情にすぎないわけだ。真の愛は、行為として形にあらわれないときも、たえず存在するふだんの状態でなければならない。愛は、なににもまして理知的で、すみきっていて、したがって、静かで落ち着いている喜ばしい状態なのである。(トルストイ「人生論」)

謎の推古朝

    崇峻天皇のあと、蘇我氏と関係の深い女帝の推古天皇が即位し、翌年には天皇の甥である聖徳太子が摂政となった。こうして聖徳太子を中心とした飛鳥文化がおこった、というのが従来の日本史教科書的な歴史だった。ところが昨日の朝日新聞にある「聖徳太子、存在は創作?実態は脇役」という河合敦の記事が興味をひく。

    聖徳太子といえば、誰しもあの紙幣の肖像を思い浮かべるだろう。実は紙幣の原画となったものは法隆寺に所蔵(現在は宮内庁所蔵)されていたもので、あの人物が本人を描いたものだという確実な証拠はない。あの絵は太子の没後100年以上たってから描いたと推定する美術史家もあり、あくまで想像画である。摂政となっということすら疑問視する学者もいる。また皇太子という制度はこの時代に確立されていなかった。そもそも「聖徳」という名も太子が死んでから100年ほどたった日本書紀に初めて登場する。厩戸皇子が存在したとしても、有力な皇族の一人にすぎず、政治の主導力があったか疑問である。有名な十七条の憲法は太子信仰が高まった頃の僧侶の偽作と考えられる。かりに存在したとしても、外部に発表されて実効性のあったものとは考えられない。以上の近年の歴史界の動向を反映して、最近の教科書でも聖徳太子の扱いは小さくなりつつある。

2010年2月13日 (土)

who's who図書1973年6月

  たかのまさお(元東京大学附属図書館)はエッセー「無価値の価値、チラシは百年後宝になる」の中で「岩波の広報誌・図書を探し回ったことがある。バックナンバーを保存している図書館がなかなか見つからず苦労したものである」とある。(図書館雑誌2010.1)図書館関係者にとってはいささか耳がいたい。自分が勤めていた図書館でもある時期保存していたのだが、廃棄してしまった。やはり担当者が変わると、考え方にブレが生ずる。永年保存といいながら、数年後、人が変わるとどうなるか分からない。とくに岩波「図書」は購入するよりも、寄贈で送られることが多いので取り扱いが雑になるのだろうか。内容をみればわかるが、著者が自分の本にまつわる面白いエピソードが紹介されていることが多い。まさに宝の山だ。

秋岡榮子
五十嵐顕
石母田正
伊原敏郎
犬童一男
上山春平
大内兵衛
大塚久雄
大江健三郎
太田博太郎
大田堯
岡田昭雄
小田実
小野忍
小野寺信
小野寺百合子
勝田守一
川口弘一
斉藤孝
佐藤功
相良守次
柴田翔
千田九一
高津春繁
高橋里美
高階秀爾
高柳信一
武市健人
武田清子
田畑茂二郎
津田左右吉
寺田和夫
友枝啓泰
中野好夫
西川新次
野間宏
長谷川誠
平田清明
前川誠郎
増島宏
松下圭一
町田甲一
水野敬三郎
三田博男
矢島祐利
八代健朗
八杉龍一
山住正己
山田敏雄
吉野源三郎
我妻栄

2010年2月12日 (金)

who's who毎日新聞1978年11月29日

毎日新聞を典拠資料として人名録を作成。

相原友子
相本久美子
赤坂義昭
安倍晋太郎
安達治彦
荒船清十郎
有本富三
杏里
飯塚理八
伊賀和夫
石野真子
泉じゅん
市原清彦
五輪真弓
伊東正治
伊藤蘭
乾竜介
入川保則
井上靖
上枝一雄
上田康治
江川卓
江崎真澄
江守徹
大川橋蔵
大島靖
大橋純子
大津びわ子
大平正芳
押阪忍
風祭ゆき
鹿島郁夫
鹿取義隆
桂小金治
兼田正広
上岡竜太郎
金内吉男
金田竜之介
加山元治
香山美子
唐川満知子
川上のぼる
川崎麻世
キダ・タロー
北原由紀
倉石功
ケーシー高峰
古都清乃
小松左京
小山明子
小山乃里子
小柳ルミ子
郷ひろみ
五代路子
西郷輝彦
西城秀樹
斎藤茂太
榊原郁恵
坂田栄男
桜井長一郎
桜田淳子
佐藤仁哉
佐怒賀三夫
沢田研二
椎名悦三郎
志穂美悦子
白石奈緒美
杉原輝雄
砂田重民
竹井みどり
竹下登
竹村健一
立中修子
田崎潤
田中角栄
田中星児
田村正和
谷山浩子
玉置和郎
大松博文
壇ふみ
坪内キミ子
露乃五郎
鄧小平
遠山一行
道上洋三
中川紀子
中村吉右衛門
中村京子
中村弘海
成瀬国晴
二階堂進
二谷英明
西端行雄
西村英一
長谷川一夫
長谷川四郎
花井悠
浜野清吉
浜村純
原田伸郎
蟇目良
福田赳夫
藤下進
舟越保武
船後正道
古谷一行
古屋亨
彭真
彭徳懐
細川俊之
堀永子
堀内光雄
丸木孝雄
松沢雄蔵
三木武夫
水野晴郎
美空ひばり
三橋達也
三橋美智也
三林京子
望月美佐
本宮ひろ志
水島彩子
森昌子
森秀人
森乃福郎
森村誠一
八代英太
山川千秋
山下元利
山口百恵
横山金三郎
吉沢京子
ローザ姉川
若杉弘
若原瞳
渡辺真知子
渡辺美佐子

    昭和53年の11月といえば、ピンクレディーの紅白辞退、江川問題でゆれていた。当日の新聞には明治大学の鹿取義隆がひっそりと巨人入りの記事がある。ロッキード事件のもみ消しに中曽根康弘幹事長が暗躍したことが最近、フォード大統領図書館の資料であきらかとなった。30年以上前の話は時効なのだろうか。

読書不用論

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   本日の朝日新聞「声」欄。「本を読むことがそんなに大事なことだろうか。私は本が好きだ。だがいくら読んでも1円の利益を生まない。逆に本から仕入れた生半可な知識があるだけ人間関係が悪くなり失敗した」という手記がある。実はこのことで悩んだ人は多い。読書家で人よりいくら多くの知識を持っていたとしても、単なる「物知り」とみれるだけで、人からは「先生、先生」とからかわれ、実際の出世レースは惨敗する知識人のほうが多い。むしろ麻雀、ゴルフと部長のご機嫌をとるほうが気が利いている。部下も出世の見込みのない窓際万年係長にはバカよばわりする。つまり「学者ばか」は社会、世間では通用しない。むしろ人間通や世俗知のほうが役立つ。しかし世渡り上手になりたくて読書するのであろうか。先日、BSテレビでプロシアのフリードリッヒ大王のサンスーシー宮殿の円形の図書室をみた。さすがに啓蒙専制君主の蔵書だけにいまも立派なコレクションである。かれは政治家よりも哲学者になることを望んだという。世界史になだたる名君が愛した「憂いなき宮殿」にあったのは古今の名著なのだ。やはり真理を知ることこそなにものにも勝る宝である。財宝や地位はうつろいゆく儚いもの。知識こそ力なり。ソクラテスは「他人の書物を読むことに時間を費やせ。他人が辛苦したものによって容易に自己の改善をなしとげられる」とある。本を書くのはたいへんな労力を費やしているはずである。それに比べたら、読んで理解することは、それほどの労力はいらない。読書はもっとも効果的に知識が得られる方法なのだ。おそらく読書が人生を棒にしたというのは責任転嫁しているのだろう。また読書と人間関係についてもふれたい。一般に読書家は人間嫌いと見なされることは一概に否定しない。人とおしゃべりする時間があれば読書したいと思うだろう。結論でいえば、本人がいかに割り切るかだ。アナトール・フランスは「わたしが人生を知ったのは人と接触した結果ではなく、本と接触した結果である」作家や学者が書斎を出て、テレビや講演でタレントのような活動をしているが、名声や富とひきかえに大切なものを無くしているようにみえる。無為自然、隠者になって晴耕雨読の生活で静かに暮らすことが自然だと考える。もちろん仙人のように霞を食って生きれるわけではない。最後には餓死が待っているという覚悟が必要なのだろう。だが餓死するまでに本の下敷きとなって死んだ読書家もいたそうだ。マンションの一室には一万冊の本があったという。読書生活も恐るべし。

2010年2月11日 (木)

who's who 映画人名録1953年

Img_0025 イザ・ミランダ(1905-1982)は1930~1950年代、イタリアを代表するトップ女優。フランス映画にも進出。「生けるパスカル」「シピオネ」「鉄格子の彼方」「輪舞」「われら女性」「洪水の前」「旅情」

  「映画の友1953年1月号」を典拠資料しとて人名録を作成。

アナトール・リトヴァク
アール・ロビンソン
アリダ・ヴァリ
アルベルト・ラトゥアーダ
アレクサンダー・コルダ
アン・トッド
アン・バクスター
アン・ブライス
アンドレ・カイアット
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
アンリ・ドコアン
アンソニー・マン
アンナ・マニャーニ
アラン・ラッド
イザ・ミランダ
イブ・アレグレ
イングリッド・バーグマン
ヴァージニア・メイヨ
ヴァン・ヘフリン
ヴィクター・サヴィル
ヴィクター・マチュア
ヴィクター・ヤング
ヴィンセント・ミネリ
ウィリアム・タルマン
ウィリアム・ベンディクス
ウィリアム・ワイラー
エスター・ウィリアムス
エドマンド・グレンジャー
エドモンド・オブライエン
エドワード・ストリーター
エバ・ガードナー
エリオット・タウジェント
エリザベス・テーラー
エリナー・パーカー
オスカー・ウェルナー
オリビア・デ・ハビランド
カーク・ダグラス
キム・ハンター
キャシー・オドンネル
クリスチャン・ジャック
クリストファー・チャリス
グレゴリー・ペック
グレン・フォード
クロード・オータン・ララ
クロード・ドォファン
グロリア・スワンスン
グーチョ・マルクス
ゲーリー・クーパー
ゲェリー・メリル
サミュエル・ゴールドウィン
ジァンニ・フランチオリーニ
ジェシカ・タンディ
ジェームス・ギャグニー
ジェラール・フィリップ
ジェーン・ラッセル
ジェーン・ワイマン
ジジ・ジャンメール
シドニー・キングスリイ
シモーヌ・シモン
ジーン・ケリー
ジーン・ピータース
ジャック・ベッケル
ジャネット・リー
ジャン・ギャバン
ジャン・ドラノワ
ジャン・ドレヴィル
ジャン・マレー
ジャン・ルノワール
ジュディス・イブリン
ジューン・アリスン
ジューン・ヘイヴァー
ジュリアン・デュヴィヴィエ
ジョエル・マクリー
ジョージ・シドニー
ジョージ・マクレディ
ジョセフ・コットン
ジョセフ・H・ルイ
ジョセフ・トメルティ
ジョセフ・フォン・スタンバーグ
ジョン・ウェイン
ジョン・ジャスティン
ジョン・ドール
ジョン・ホティアク
ジョーン・ベネット
シルヴァーナ・マンガーノ
ジンジャー・ロジャース
スーザン・ヘイワード
スチーブ・コクラン
スチュワート・グレンジャー
ステフェン・ツヴァイク
スペンサー・トレーシー
セシル・B・デミル
ダナ・アンドリュース
ダニー・ケイ
ダニエル・ジュラン
チャーリー・ラッグルズ
チャールス・マッグロウ
ティ・ガーネット
テレンス・ラッティガン
デビィッド・ミラー
チェザレ・ザァヴァティニ
ディヴィッド・リーン
デンホルム・エリオット
ドミニク・ブランシャアル
ドリス・デイ
ナイジェル・パトリック
ノーマン・Z・マクロード
ハリー・ブラウン
パイパー・ローリー
バン・ジョンスン
ヒルデガード・クネフ
ヒュー・マーロー
ヒューム・クローニン
ピア・アンジェリ
ファーリー・グレンジャー
フレッド・マクマレー
ブライアン・トンレヴィ
ペギイ・カミンズ
ベティ・ハットン
ベラ・エレン
ベロニカ・レイク
ヘンリー・ハザウェイ
ヘンリー・フォンダ
ホセ・ファーラー
ボブ・ホープ
マーガレット・シェリダン
マギー・オブライエン
マーサ・スコット
マリー・アルドン
マール・オベロン
マルセル・パニョル
マリリン・モンロー
ミラード・ランペル
ラオール・ウォルシュ
ラズロ・ベネデック
リー・ガームス
リー・グラント
リチャード・ウィードマーク
リチャード・ウッブ
リチャード・コンテ
リチャード・トッド
リチャード・ベースハート
リザベス・スコット
ルイス・マイルストン
ルネ・クレール
レオ・ケン
レオーナ・ダナ
ロバート・テーラー
ロバート・ブレストン
ロバート・ミッチャム
ロバート・ロッセン
ロベルト・ロッセリーニ

この号に「探偵物語」が紹介されているが、カーク・ダグラスが現在93歳で元気であることがうれしい。

who's who図書館員1983年

「図書館雑誌1983年4月号」を典拠資料として図書館人名録を作成。

秋山由利子(東京経済大学図書館)
朝日奈万里子(冨山市立図書館)
有川勝見(京都市右京図書館)
安藤宗康(サンプラザ図書室)
池之上浩治(鹿児島県立図書館協会)
池田瑛
石井昭子(慶応大学)
石井秀雄(訃報)
石田俊郎(京都産業大学)
石山洋(国立国会図書館)
石割典子
市村利夫
伊藤峻(多摩市立図書館)
伊東孝
井上正則
稲川薫(米国大使館)
今まど子
上野博(国立国会図書館)
裏田武夫(東京大学)
絵鳩彰(静岡大学)
大口和枝(東京都立文京高校図書館)
大越朝子
大城善盛(京都産業大学)
大杉よし子
大谷木賢二
岡田政子(山梨県立女子短期大学)
小川聡
荻沢稔
奥井雅晴
尾原淳夫(金蘭短大)
小野正夫
柏悦子
狩野逸朗
金中利和(国立国会図書館)
川上博幸(枚方市立香里ヶ丘図書館)
川越峰子
川村源七(訃報・元高知県立図書館)
菊池勇
木村隆美
栗原均
黒岩高明(図書館情報大学)
黒岩光子
河野忠雄(京都教育大学)
小林信一
小松幸子(中央学院大学図書館)
酒川玲子(和光大学)
佐々木美穂子(坂戸市立図書館)
佐藤睦四郎
沢田正春
沢田容子
沢谷とし子
椎葉敒子(東京女子大)
塩見昇
渋谷嘉彦
篠塚宏三(大阪工業大学)
清水正三
志村尚夫
小路信次
杉山正彦
末吉哲郎
鈴木喜久一(東村山市立図書館)
関秀志
高雄善裕(九州大学)
宝田育久(京都産業大学)
舘かおる(お茶の水女子大学)
谷弥生
田中隆子(関東学院女子短期大学)
田中英夫(東京大学)
田村俊作(慶応大学)
田村太郎
伴野安江(東京女子大学短期大学図書館)
中村満次郎
名取宏
浪江虔(JLA)
能勢豊一(大阪工業大学)
浜田敏郎
馬場俊明
福井妙子(東京大学)
藤勝周次
古川保彦(豊中市立図書館)
細井五(JLA)
保土田政子
堀内孝軌(大阪市立住吉図書館)
本田明
升井卓弥(山口県立山口図書館)
松井博(中央学院大学)
松岡要(目黒区民センター図書室)
松本伸夫(岡山市立図書館)
丸山信(慶応義塾大学)
三神広子
三河秀行(足立区立東和図書館)
緑川信之(慶応義塾大学院)
溝渕日出世
宮坂逸郎
宮森久美子
毛利和弘
森清
森耕一
山口満(群馬県立図書館)
山下哲哉(新宿区立北新宿図書館)
山中宣昭(日本医科大学)
山本栄一
吉岡孝治郎(訃報)
リ・ハンヨル李漢龍(慶応大学大学院)
和田隆夫(京都産業大学)

   往年フランスの映画に「舞踏会の手帖」というのがある。むかしの舞踏会で踊った相手を訪ねて歩く。かつて自分は図書館に勤めていた。あの頃は若くてなにもかもが楽しかった。そんな思い出にひたるため図書館雑誌の古いページをめくる日々。あの人は今どうしているだろうか。でも訃報欄は日本図書館協会の役員ばかりで、一般の会員は載っていない。入会のときは名前があるが、死んだらおしまい。日本図書館協会の会員が減少しているというが、こんな役員のためだけの冷たい雑誌だから誰も入会する者がいなくなるのは当然だろう。全国大会で多く集っているように見えるのは、コンピーター業者や関係企業、ボランティアの方が多いので、本当の会員は少ない。いわば団体として烏合の衆で結束力はない。100年経つと腐敗、堕落するというが、日本図書館協会の将来はないと見た。青春の夢は誰でも破れる。

2010年2月10日 (水)

名もなき図書館員

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 下線や書き込みから持ち主の真剣な読書態度が偲ばれる「高田蔵書」

    ケペルの蔵書の1冊に長沢雅男著「参考調査法」理想社、昭和45年刊行がある。購入した本ではなく、先輩の図書館員から譲りうけた本である。その先輩は「高田格太郎」という図書館に勤める方からもらったという。その本には、高田蔵書という印があり、欄外には書き込みがたくさんある。本は何度も読んだらしく、ボロボロでレファレンス・ワークがいかに図書館業務において重要であるか認識されていたのであろう。その高田格太郎さんについて、どういう方なのか知りたいと思うが、残念ながら今のところわからない。おそらく大阪府下の公共図書館の館長さんをされて退職されたと思う。もちろん図書館雑誌などの古い会員名簿などを調べれば判明するかもしれないが、バックナンバーを探すのも面倒でやっていない。いま昭和戦後期を中心に普通の図書館員の名前と所属のみを記した「who's who図書館員」を手がけたのは、そんな小さな動機からである。個人情報保護の問題はあるが、30年くらい以前の公刊された資料を典拠としてフルネームと所属(これがないと同姓同名の場合の区別がつかない)のみの単純な事実を記載することは許容範囲と考えている。もちろんまだ現役でご活躍の方もおられるし、現場をリタイアされた方、故人となられた方さまざまであろうが、図書館雑誌に掲載される訃報記事に扱われる図書館員はごくわすがであろう。つまり「名もなき図書館員」(名前があるので失礼な言い方であればご容赦ください)が図書館で働いた痕跡である。日本図書館協会の役員などでなく、雑誌論文を書くのでなく、大会・研究会の発表者となるのでなく、図書館長として出世するでなく、毎朝、図書館の扉を開け、新聞を綴じ、雑誌を並べ、カウンターにいつもいる、わたしはそんな図書館員を愛する。

2010年2月 9日 (火)

who's who図書館員1977年

図書館問題研究会「みんなの図書館」1977年8月から12月までを典拠資料として人名録を作成(肩書きは1977年現在のもの)このころ「図書館の自由」にかかわるピノキオ問題、陰山三保子さんの不当配転などが起こった。

秋岡梧郎
石川由紀子(名古屋鶴舞図書館)
伊藤寿朗
今村勲(社会教育推進全国協議会)
大久保満知子(大阪市立天王寺図書館)
岡川和義(大阪府交野市)
小川剛(お茶の水女子大学)
小沢八重(緑区図書館活動をすすめる会)
陰山三保子(荒川図書館)
兼子仁(東京都立大学)
北川彌生(名古屋市瑞穂図書館)
木下淳子(京都府立図書館)
栗原均(大阪府立中之島図書館)
酒川肇(図書館問題研究会)
坂田多嘉子(横浜市山内図書館)
宍戸伴久(国立国会図書館)
島田修一(中央大学)
清水正三(立教大学)
寺井素子(徳島県立図書館)
戸室幸治(福島市立図書館)
野島一恵(須崎市立図書館)
野中新児(西宮市立図書館)
広瀬恒子(親子読書・地域文庫全国連絡会)
藤丸昭(徳島県立図書館)
松尾昇治(昭島市民図書館)
真野節雄
武藤美男(福島県立図書館)
森崎震二(国立国会図書館)
矢野暉雄(都立日比谷図書館)
山崎翠(札幌なかよし文庫)
山田育子(名古屋市瑞穂図書館)
山田邦子(大田区立大森南図書館)
若杉隆志(神奈川県立川崎図書館)
和田匡弘(名古屋市立名東図書館)

雪山

Photo

「雪に埋もれたものは雪どけにあらわれる」ニューヨーク株式市場はダウ工業株平均が大幅反発した。財政危機に陥っているギリシアに対し、欧州諸国が支援して乗り出すとの観測が広がったことから世界的な景気悪化懸念が後退し、幅広い銘柄に買い戻しが入った。

Who's Who図書館員1984年

昭和59年度全国図書館大会記録(大阪大会)を典拠資料として人名録を作成(肩書きは1984年現在のもの)。「図書館は人なり」というが残念ながら世に図書館人名録というものは存在しない。公に刊行されたものより人名のみを収録し、図書館史に刻みこむ作業を徒労を恐れず行う。

相山良雄(高槻市立図書館)
安達一美(舞鶴高専図書館)
姉川宗夫(大阪市立大学図書館)
荒尾正治(国立国会図書館)
池田弘一(東京都立高専図書館)
一色誉富(大阪府立中之島図書館)
石井浅子(白梅学園短期大学)
市来陽子(女子聖学院短期大学)
稲本吉次(神戸市立中央図書館)
伊藤キミ子(島根県立図書館)
伊東俊(多摩市立図書館)
伊藤松彦(鹿児島短期大学)
井上宏二(平安女学院短大図書館)
今村慶之助(大阪大学図書館)
岩猿敏生(関西大学)
上田良太郎(大阪府立高専図書館)
植村正義(大阪市立大学図書館)
梅野保泰(大阪府立中之島図書館)
頴川東雄(国立国会図書館)
大橋一二(園田学園女子大学図書館)
大谷佳範(鈴鹿高専図書館)
岡崎英雄(大阪市立大学図書館)
岡本栄子(和歌山高専図書館)
小津昭司(東邦学園短期大学)
鬼丸貞彦(芦屋市立図書館)
尾崎一雄(大阪大学図書館)
篭谷友江(米子高専図書館)
加藤俊和(日本ライトハウス点字出張所)
加藤誠之助(横浜国立大学図書館)
鎌田美智子(日立造船技術研究所図書館)
川井茂(大阪経済大学図書館)
河合明美(大阪女学院短大図書館)
河田いこひ(京都大学)
川端栄美(富田林市立図書館)
北道啓子(兵庫県立図書館)
国松完司(滋賀県立図書館)
久保輝巳(関東学院大学)
黒田一之(仙台文化出版社)
小寺啓章(兵庫県太子町立図書館)
小西経雄(舞鶴高専図書館)
小林美寿鶴(大阪府立高専図書館)
佐々木明彦(宇都宮高専図書館)
佐々木忠彦(八戸高専図書館)
佐々木修治(豊中市立岡町図書館)
沢とし子(吹田市立図書館)
塩見昇(大阪教育大学)
重野芳章(長野県檜川村立図書館)
柴田正美(国立民族学博物館)
末吉哲郎(経済団体連合会図書館)
鈴木英二(千葉経済短大図書館)
鈴木通保(大阪商工会議所商工図書館)
砂文康(高岡市立中央図書館)
高島要(石川高専図書館)
竹内悊(図書館情報大学)
竹内紀吉(浦安市立中央図書館)
田坂かほる(神戸高専図書館)
立花利夫(カメレオン文庫)
田辺由太郎(国立国会図書館)
谷弘行(大阪府立天王寺図書館)
玉置宏シ(大阪府立夕陽丘図書館)
丹波章(甲南大学図書館)
槻本正行(相愛大学)
津田滉(大阪府立高専図書館)
寺脇弘光(明石高専図書館)
天満隆之輔(羽衣学園短大)
堂下寿雄(大阪商工会議所商工図書館)
仲井道子(奈良佐保女学院短大図書館)
中川徳子(雨の日文庫)
長倉美恵子(国立教育研究所)
中西敏子(大阪府立看護短大図書館)
中西広志(寝屋川市立中央図書館)
中村祐吉(元・大阪府立図書館)
西野猛(大阪府立夕陽丘図書館)
野口啓子(JLA障害者サービス委員会)
信田昭二(大手前女子大)
拝田真紹(松原市民松原図書館)
橋本健一(大阪大学付属図書館)
八田義一(神戸山手女子短大図書館)
原田安啓(明石市立図書館)
原田正雄(和歌山高専図書館)
林泰久(寝屋川市立中央図書館)
広岡信雄(岩国市立図書館)
平松克一(茨木市立図書館)
藤井千年(尼崎市立北図書館)
藤川喜久松(大阪府立夕陽丘図書館)
藤田浩司(平塚市立図書館)
細野公男(:慶応義塾大学)
前川和子(大谷女子短大図書館)
前田章夫(大阪府立中之島図書館)
前田秀樹(寝屋川市立中央図書館)
桝田博(大阪府立中之島図書館)
松井将子(杉野女子大学)
松岡健次(大阪府立高専図書館)
松沢隆夫(国立国会図書館)
的場政信(七尾市立図書館)
真中祐一(東京都立中央図書館)
真鍋隆則(新居浜高専図書館)
三浦整(大阪女子大学図書館)
三上強二(青森県立郷土館)
三角健二郎(豊中市立庄内図書館)
三苫正勝(枚方図書館)
南和雄(大阪看護短大図書館)
宮艸仁(兵庫県立図書館)
室伏修司(親和女子大学図書館)
森清(青葉学園短大)
森耕一(京都大学)
森茂樹(北海道自動車短期大学)
森中和子(大阪府立中之島図書館)
野口敬子(和歌山市民図書館)
萩沢稔(富山県図書館協会)
豊後レイ子(元・大阪アメリカンセンター)
里渾慎治(日本科学技術情報センター)
保田俊行(目黒区中目黒駅前図書館)
山本晃暢(石川県立図書館)
山根正美(大島商船高専図書館)
弥吉光長(国学院大学栃木短期大学)
吉井良顕(元・大阪市立図書館)
吉村秀夫(神戸市外国語大学付属図書館)
四谷たまゑ(堺市立泉ヶ丘図書館)
若菜令子(大阪府豊能町ひまわり文庫)
渡辺信一(同志社大学)

2010年2月 8日 (月)

アメリカの青春、日本の青春

    第1次世界大戦後、アメリカは軍需産業を平和産業に切り替えて、未曾有の好景気となった。1920年代は「ローリング・トゥウエンティーズ」「ジャズ・エイジ」などの別称でも明らかなように、殊に東部を中心としてパーティなどの乱痴気騒ぎに明け暮れた。ラジオ放送が実用化されたのは1919年のことであるが、1920年代にはラジオ受信機は全米に普及した。生活面ではダイヤル式の電話機が使われるようになった。自動車が大衆の足となってきたのも同じ頃である。女性を取り巻く環境も大きく変化した。参政権の付与が女性の社会的行動をより積極的にした。もはや未婚女性のデートには付き添い者はいなくなった。締め付けを嫌ってコルセットを脱ぎ、露出部分が多く、ショートスカートや裾が膝まであったワンピースを身につけて、髪型はショート(ボブヘアー)で、濃い口紅やアイシャドーで化粧した現代娘が出現した。1927年から突入したトーキーの時代はトーキースターが現われた。1930年代のキャサリン・ヘプバーンはアメリカの理想的な新しい女性像をスクリーンで見せてくれた。

    このような生活スタイルの変化は若者たちの男女交際にも大きな変化をもたらした。デートの誕生である。男女交際のプロセス、つまり「出合い」「告白」「デート」「ファースト・キス」「恋愛」「プロポーズ」のスタイルはこの時期のアメリカにおいて成立したといわれる。電話機、自動車、ダンスパーティ、と条件が備わっていた。時代はチャールストン、ジャズの流行、といった話題が恋人たちの「アメリカの青春」を謳歌させた。では日本はいつごろだろうか。敗戦後の昭和30年代であろうか。太陽族の無軌道な若者文化に始まり、ロカビリー、「日本の青春」はアメリカより50年おくれて生まれた。このころポップスにも「渚のデイト」「ボーイフレンド」「ワン・ボーイ」「カレンダー・ガール」などのヒット曲にみられるようなアメリカ流男女交際術が移入された。ただしそれは映画やドラマのなかだけで、現実には、まだまだ家族制度による見合い結婚が多かったようである。

ネルソン・マンデラ

    黒人大統領マンデラとラグビーチームのキャプテン、フランソワ・ピナールが、ワールド・カップを機に国民の心をひとつにしようと協力する姿を描いた映画「インビクタス負けざる者たち」(クリント・イーストウッド監督)が公開されている。マンデラを演ずるのはモーガン・フリーマン。かつて、大統領自身に、どんな俳優に演じて欲しいか、という問いに「モーガン・フリーマン」と、はっきり答えている。マンデラはアパルトヘイト反対運動の指導者として1962年に逮捕され、1990年に釈放されるまで実に28年間も投獄されていた。そんな世界の著名人と面会した日本人の一人がタレントの松村邦洋だ。「進め、電波少年」という番組で、松村はアポなしで、マンデラとの単独インタビューに成功した。その松村邦洋が、昨年3月、東京マラソンに挑戦した。途中、14キロ付近で意識を失い、心肺停止になるというハプニングがあった。あの騒動から一年が経つが、松村くんは元気だろうか?

2010年2月 7日 (日)

世界は動いている

   朝日新聞世論調査によると、鳩山内閣の支持率が発足以来、初めて不支持(45%)が支持(41%)を上回った。これは「小沢一郎幹事長続投」「石川知裕議員辞職せず」が影響しているであろう。これはさておき、ケペルが高校生のとき首相は佐藤栄作だった。つまり田中角栄から鳩山由紀夫まで20人が就任した。韓国大統領は朴正熙から李明博まで7人、米大統領もニクソンからオバマまで8人である。韓国やアメリカ大統領の名前は歴代空でいえるが、日本の首相20人を順番に言うことはできそうにない。日本史より世界史を選んだのは、暗記事項が少ないと思ったからである。世界史の場合とくに問題なのは現代史をどこまで学習するかである。現代に活躍中の人物はまだ評価が定まっていないので、除くのが普通である。だが教養として知ることは重要であろう。ここではジョンソン大統領より以降の時代の重要人物を列挙する。ゴルバチョフ、エリツィン、ワレサ、ミッテラン、サッチャー、アラファト、マンデラ、鄧小平、ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ、クリントン、ブレア、アキノ、ポンピドゥー、コスイギン、メドベージェフ、プーチン、シラク、ワイツゼッカー、サルコジ、グロムイコ、ボドゴルヌイ、エンクルマ、バラク、プリマコフ、モスコソ、ソニア・ガンジー、ピノチェト、ポルポト(サロト・サル)、ハビビ、ホー・チ・ミン、アサド、アスナール、アリエフ、エジュビット、エンフバヤル、オバサンジョ、カシャノフ、カダフィ、リンゼイ、カツァブ、カビラ、カムタイ、カラジッチ、カルトゾ、ゴア、シアヌーク、シェワルナゼ、シャロン、シュレーダー、ダライ・ラマ14世、ヨハネ・パウロ2世、ベネディクトゥス16世、オサマ・ビンラディン、フジモリ、ミロシェビッチ、ムバラク、メガワティ、スハルト、李先念、楊尚昆、李登輝、李鵬、金朱南、陳水扁、廖承志、朱鎔基、アロヨ、マルコス、ハマーショルド、ウ・タント、デクエヤル、アナン、潘基文、アウンサンスーチー、金永三、江沢民、フセイン、ホメイニ、金正日、胡錦濤、温家宝、唐家セン、習近平、アジェンデ、ペロン、金大中、盧泰愚、盧武鉉、李明博。日本のリーダーの世界の中の存在感が希薄なのがわかる。

死刑廃止は理想論か?

   「正しかるべき正義も、時として盲ることがある」テレビドラマ「逃亡者」の真のテーマは、死刑廃止のキャンペーンだった。このドラマが放送された1960年代後半は死刑制度廃止の意見が高まりを見せていた。しかし、1980年代になると世論は再び死刑容認に傾きだした。全米50州のうち30以上の州で死刑制度が復活した。だがそれ以後も全米で発生した殺人事件は約35万件に上った。12年間に及んだベトナム戦争が6万人に達しないことと考え合わすと、これは恐るべき数字と言わなければならない。こうした数字を見ると、抑止力としての死刑の効果は疑問であろう。日本でも死刑の件数は増加している。だが凶悪犯罪も減る傾向はみられない。鳥取や埼玉の連続不審死など何人の男性が殺されたのだろうか。片手の指でたるだろうか。横溝正史の殺人事件よりも恐ろしい。事実は小説よりも奇なり。ただし、小説では名探偵が登場するが、現実の警察はお粗末である。さらに千葉景子法務大臣は死刑反対論者であるし、女性には同性の立場から身びいきしたり、情実を加えた発言をしている。つまり男性の側が警戒するしかないのである。美人に用心するのではなく、醜女に用心しよう。若くて綺麗だと男性の方に騙されているのではないかと警戒心がおきるが、醜女だとかえって結婚話が現実味をおびるのでいとも簡単に大金を与えるのであろう。金に執着した女性の殺人鬼はいまの日本国に多数いると思ってほしい。また自分だけが被害に遭わないという甘い考えをすてることだ。ところで話を死刑問題にもどすが、なぜ60年代にアメリカで死刑廃止が起きたかというと、やはり1927年3月に起こった保険金殺人事件があるからだろう。ルース・スナイダーは愛人と共謀して、夫に多額の保険金をかけて殺害した。犯行は疑問の余地なく、二人も自供している。単純な事件として、翌年二人は電気椅子にかけられ死刑に処せられた。しかし、殺人事件の多発するアメリカで一人殺して、減刑なく、即死刑というのはあまりにも極刑であったという反省が起こった。が後のまつりである。第1級殺人は死刑というのに疑問が生じてきた。だが、殺人事件は増加していく。犯罪に対する断固たる姿勢をとる政治家が有権者の支持をえるという構図はどこの国でも同じである。重罪裁判が厳粛に行われなければならないと考える人がいる一方で、死刑に対して単純明快な、あるいは素朴と言ってもよい考えをもつ人もいる。ルース、スナイダー事件はメディアの集団リンチの生贄になったといえる。死後もジェイムズ・M・ケインの小説「殺人保険」、映画「深夜の告白」(1944、バーバラ・スタンウィック、フレッド・マクマレー)、「白いドレスの女」(1981、キャスリーン・ターナー、ウィリアム・ハート)と二度映画化されている。日本でも死刑廃止は論議となるが、最近内閣府の調査によると、死刑容認は85.6%と増加している。

ノン子橋

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    埼玉県大里郡寄居町にある普通の橋がいま話題である。通称「ノン子橋」といわれている。映画「ノン子36歳(家事手伝い)」でその舞台となったからである。信子(坂井真紀)は売れない女優であったが、今は実家に帰って、無気力な日々を過ごしている。あるとき祭りの縁日にひよこを売ろうとする青年と出会う。地元の有力者に頼むが場所を貸してくれない。ノン子はその青年と次第に親しくなる。祭の当日、青年は遂にキレで鋸で暴れだし、櫓を倒して町から追放される。なんとも貧乏くさいあわれな映画だ。むかしのアメリカ映画「ピクニック」は同じシチュエーションだが、俳優に花があった。でもスッピンの坂井真紀にどこかひかれる。それは朝の顔だからか。「ウェルかめ」の須堂啓と印象が重なる。須堂啓をもっと見たいという男性ファンにはお勧めの映画である。もっと古い男性ファンには、宇都宮雅代がノン子の母親としてでている。またおニャン子の新田恵利がスナックのママで登場している。それぞれの世代の女が妖しい魅力を放つ小品である。

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雪崩れ

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    2月にはいり、立春は過ぎても、まだ寒さは厳しく、朝晩に霜がおりて、日中に風が強く吹く。とはいっても、空の色、木々のたたずまいなどに春の息吹が感じられる。昨日、志賀高原のスキー場のホテルで雪崩れ事故があったという。

   炉辺の犬耳を立てる雪崩かな  宮下翠舟

2010年2月 6日 (土)

気になる年齢

   「気になる嫁さん」は昭和46年から昭和47年に放送された大ヒット・ホームコメディ。清水家の末っ子・純(関口守)がめぐみ(榊原るみ)と結婚。ところが純はアメリカへ留学、とりあえずめぐみだけ清水家へ暮らすことになる。威厳のない父親呂之助(佐野周二)、生真面目な長男輝正(山田吾一)、行き遅れの長女小夜子(水野久美)、ケチのサラ金の社長文彦(石立鉄男)、オリンピックを目指す三男力丸(山本紀彦)、お手伝いのたま(浦辺粂子)。バラバラの家族がまきおこす不思議な世界。第10話で末っ子の純が留学せく先で亡くなるという悲しい知らせ。ハッピーなドラマにはありえない悲惨な展開。いまから40年前のドラマだが、古いいような、古くないような。日本人の生活文化の移り変わりを考えるには貴重な映像資料だ。たとえば、お手伝いのたまは、スーパーというアメリカかぶれした店では買わない、市場か御用聞きから買っている。めぐはスーパーのほうが安いという。こんな新旧の対立がまだあった時代だ。ところで気になるのは、出演者の実際の年齢。榊原るみ20歳、山本紀彦28歳、石立鉄男29歳、水野久美34歳、山田吾一38歳、佐野周二59歳、浦辺粂子69歳である。おどろくべきことは、佐野周二、浦辺粂子はもっと年齢がいっているように見えるが実際には若い。佐野は70歳近くに見えるが、かなり体力的に衰えていたようで、数年後のドラマ「暖流」で志摩病院の院長役を見たときは本当に弱っているように見えた。ドラマでは退職して(当時55歳が定年)、トランジスターラジオで株を聞くという平均的サラリーマンの老後、パチンコが趣味、だが、いかにも老けてみえる。いまの59歳と40年前の59歳とはだいぶん違う。しかし長い人類史のなかでみるとたかだか40年でそんなに変わるはずはないので、おそらく現代人が自分の老化に気づかないだけで、死は着実に誰にでも忍び寄っているのである。楽しいホームドラマでも、人間そのものの変化ははっきり映像で捉えている。その真実味が面白いともいえる。中盤には小夜子の恋人のカメラマン竹山が突然の交通事故死。なんともシュールなコメディである。ドラマの結末は家庭崩壊、「岸辺のアルバム」の先駆的作品だろう。

童謡「ウミ」は戦争協力?じゃあ、朝日新聞は?

    愛とか恋とか女々しく柔弱なものはいけない、となると歌謡曲は作れない。レコード会社も変なものをつくって検閲に引っかかるよりは、軍歌とか、軍国調歌謡曲をつくって売り出したほうが商売になるという太平洋戦争の戦時統制下の時代の話である。林柳波(1892-1974)は本来は明治薬学校出身の薬剤師であるが、詩人で教科書編纂委員もしていた。童謡「ウミ」「オウマ」や「ああわが戦友」で知られる。本日の朝日新聞の「うたの旅人」で童謡「ウミ」(昭和16年)も実は戦争強力だったという記事がある。三番の歌詞「いってみたいなよそのくに」が南方侵略を意図しているというのである。こんなことを言い出すと、戦時統制下、愛国心や戦意高揚に役立たたないものが世に出ることは稀である。「勘太郎月夜唄」(昭和18年)はヤクザの唄で許可されるはずもなかったが、三番の歌詞に「菊は栄える葵は枯れる」という一節をいれた。つまり菊(皇室)が栄えるということで、勤皇精神がよろしい、ということで許可がおりた。童謡「ウミ」も「いってみたいな、よそのくに」は海外雄飛の精神がよろしい、ということだろう。戦前のモノに一々ケチをつけたら、何も残らなくなるだろう。では朝日新聞って戦争協力しなかったのか?日清・日露の両戦争では対外強硬論で部数を伸ばし、太平洋戦争時は大本営発表の虚偽の記事で国民を欺いた責任を忘れてはいけない。

バイオグラフ劇場

    逃亡者「檻の中」(第60話)。リチャード・キンブルは動物園で働いていたが、そこの経営は苦しかった。ジェラード警部からキンブルのことを知った経営者のハリー(ローレンス・ネイスミス)は、動物園を有名にするために新聞記者を集め、逮捕の瞬間を取材させようとする。ハリーは言う「バイオグラフ劇場だ」つまり銀行強盗デリンジャーが1934年FBI捜査官によって射殺されたことで、映画館は世間の注目を浴びて連日満員となったことにあやかろうというのだ。だが、幸いにもトラが動物園から脱走した。ジェーラドは「キンブルを逃がすな」というが、捜査員たちは「キンブルよりトラを殺すことが優先だ」として、その隙にキンブルは脱出に成功する。トラに襲われそうになったジェラードなど、シリーズ中でも珍しいシーンのあった一編である。

2010年2月 5日 (金)

学園ドラマに見る韓国学校事情

   「秋の童話」第2話。ジュンソとウンソの兄妹は同じ中学校に通っているが、教室でのウンソは女子だけのクラスにいる。実は韓国では、現在でも、中学、高校は男女別学がほとんどで、共学でもクラス分けによって、男女の別は厳しく分けられている。これは「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教の精神によるもの。実は「冬のソナタ」の高校時代のシーンでも、男子と女子は一つの教室の中で、右側と左側に分けられて座っていた。男女共学なのに、男女交際には高いハードルがある。日本の「青い山脈」、「ハレンチ学園」、「愛と誠」から「GE~グッドエンディング」までの学園男女交際史は戦後民主主義の所産なのであろうか。

気まぐれに玉ネギむいたら奥様と呼ばないで

    毎日、ドラマ三昧の日々。家事をしながらホームコメディをつけている。2月からケーブルテレビのデジタル番号が変更した。チャンネNECOは「500」と覚えやすい。新しく始まった「玉ねぎむいたら・・・」。かつて「花の中三トリオ」といわれた一人、桜田淳子はどうしているだろうか。鼻に何かが詰まっているような声だったが、ヒット曲を連発していた。百恵、昌子より芸能界向きの性格だったが、惜しいことに統一教会騒動で消えた。この「玉ねぎむいたら」は淳子の明るい面がでている。新人の松田聖子もフレッシュ。共演は故人となった石立鉄男。石立は女優を人気者にする天才である。榊原るみ(気になる嫁さん)、岡崎友紀(おくさまは18歳)、大原麗子(雑居家族、気まぐれ天使)、村地弘美(水もれ甲介)、杉田かおる(パパと呼ばないで)、吉沢京子(おふくろさん)ほかにも松尾嘉代や水沢アキなどをお茶の間の人気スターにしている。なおこの「玉ねぎ」には、力丸の山本紀彦も出演している。石立と二段ベッドで寝ているのが笑える。山本は最近テレビで見ないが、毎朝、ミュンヘンめざしてランニングしてような気がしている。

2010年2月 4日 (木)

芭蕉発句集 あち~あめ

    漂白の詩人といわれる芭蕉の旅の生活がはじまるのは貞享元年、41歳のときである。秋8月なかばに江戸を出、まず伊勢神宮に詣でたあと伊賀に帰郷し、そこから大和の当麻寺、吉野山を経て9月末に美濃大垣の季吟同門谷木因を訪ね、さらに10~12月の足かけ3ヵ月を名古屋ですごし、歳末ふたたび伊賀に帰って新年を迎え、その後、奈良、京都、大津、名古屋と辿って4月の末に江戸にもどっている。その帰庵後に書いた紀行文が「野ざらし紀行」である。

41 あち東風や 面々さばき柳髪

42 暑き日を 海に入れたり最上川

43 あつみ山や 吹浦かけて夕すずみ 

44 あの雲は 稲妻を待つたたよりかな

45 あの中に 蒔絵かきたし宿の月

46 油こほり ともし火細き寝覚かな

47 海士の顔 まづ見らるるや芥子の花

48 海士の屋は 小海老にまじるいとどかな

49 雨折々 思ふことなき早苗かな

50 雨の日や 世間の秋を堺町

2010年2月 3日 (水)

権力の座

人生を真剣に生きようと欲する者は、あたかも末長く生きていかねばならぬものとして行動すべきであり、同時にまもなく死ぬべきものとして身を処さなければならない。

    フランスの言語学者エミール・リトレ(1801-1881)の名高い名言である。国家の存亡を背負う政治家や軍人たちは座右の銘となるであろう。だがこのような決死の覚悟というのは、過去のものと言わざるをえない。いまは悪事が露見しようと、最後まで悪あがきをし、高額の弁護料さえ捻出すれば、正邪は逆転できる。小沢不起訴、横綱示談、郵便不正も冤罪事件へと逆転することもできる。禍福はあざなえる縄の如し。魑魅魍魎。真実は闇の中である。エリートたちの権力の座への執念はすごい。

じゃあ、読もう

Photo

    今年は国民読書年にあたる。でも、国民読書年って何に?どんな取り組みしているのかイマイチ見えてこない。テレビやマスコミで報道している?図書館でキャンペーンしているのかな?むしろ街の小さな書店が減少したり、出版不況で長年愛読していた雑誌が休刊したり、読書環境は悪くなっている気がする。国民読書年は、国立国会図書館館長の長尾真さんに言わせると「とにかく本を読もう」ということだそうだ。賛成。でも、実はこの当たり前のキャンペーンを実りあるものにするのは、相当に難しいことなんだ。理由はなかなかうまく説明がつかないけど。つまり、誰と話しても、「読書は大切だね」「わたし本を読むことが大好き」と言うんだけど…。そんな当たり前のようなことを、百遍くりかえしても、きれいな言葉はでてくるけど、本は買わないで立ち読みするし、図書館が近くにあるのは当たり前って感じで、めったに行かないし、家にも本はあるけど、テレビやゲームや旅行のほうが楽しいし、休日はショッピングやレストランで過ごすし、結局は一月、一冊の本も読んだことないけど、人にはいつも「本は好きです」「読んでます」ていうことにしている、そんな人がフツーなんだろう。ようするに活字への飢餓感がないっていうのかな。終戦直後は、思想弾圧で読みたいもの、表現したいことができなかったけど、自由になって、みんなむさぼり読んで、議論した。あの岩波書店の「世界」をみんな並んで買った。すぐに売り切れた。でも今の時代も読むことが大事だということをわかってほしい。だれが、どれだけ真剣に説いているのか。おそらく誰もいないんじゃないだろうか。文化推進機構なんてところで予算とって、やっているフリしているだけなんだろう。「明日、読む」とか、「あとで、読む」とか、「いつか、読む」じゃなくて、「いますぐ、読め」「読むことは、食べること、寝ることと同じくらい大切」「命の読書。死んだら読めない」「寸暇をおしめ」みんな先哲の教えだけど、わからないだろうな。無理だろうな。結局、トーンダウンして、「じゃあ、読もう」と言ってくれれば、良しとしょう。

2010年2月 2日 (火)

芭蕉発句集 あき~あさ

21  秋深き 隣は何をする人ぞ

22  秋もはや ばらつく雨に月の形

23  曙や 白魚白きこと一寸

24 曙は まだむらさきにほととぎす

25 明けゆくや 二十七夜も三日の月

26 阿古久曾の 心は知らず梅の花

27 あさがほに 我は食くふをとこかな

28 朝顔の 花に鳴きゆく蚊の弱り

29 朝顔や これもまた我が友ならず

30 朝顔や 昼は錠おろす門の垣

    芭蕉は正保元年、伊賀上野赤坂町で生まれた。父、松尾与左衛門は伊賀国柘植郷の出身であるが、城下町上野に移住したため、芭蕉自身は、生涯、伊賀上野を旧里と呼んでおり、柘植を訪れたり、それに言及した証跡はまったくなかった。芭蕉の兄弟姉妹は二男四女。兄半左衛門命清は、父の死後家督を継ぎ、芭蕉に遅れて元禄14年3月に没した。芭蕉は次男で、幼名金作、長じて忠右衛門、甚七郎などと称した。藤堂良忠の近習となり、その感化で俳諧を学ぶ。良忠の病没後、京都で北村季吟に師事。寛文12年、江戸へ下る。延宝6年には、宗匠として名乗をあげた。延宝8年、門下20人の作品集「桃青門弟独吟二十歌仙」を出版。芭蕉は江戸俳壇屈指の俳諧宗匠として注目されるようになった。

芭蕉発句集 あき

11 秋風や藪も畠も不破の関

12  秋来にけり耳をたづねて枕の風

13  秋きぬと妻恋ふ星や鹿の革

14 秋涼し手毎にむけや瓜茄子

15 秋近き心の寄るや四畳半

16 秋十年 却つて江戸を指す故郷

17 秋に添うて行かばや末は小松川

18 秋の色 糠味噌壺もなかりけり

19 秋の風 伊勢の墓原なほ凄し

20 秋の夜を うち崩したる咄かな

   芭蕉の頃の発句というのは、だいたい今日の俳句にあたる。原則として17音で、5・7・5のリズムを基調とし、季題をふくむなど、今日のいわゆる伝統俳句と似たところが多い。ただし相違点もある。まず発句は、名のごとく最初の句であって、連句の運びのはじまる第一の句である。もっとも芭蕉の発句の全部が連句を伴うものではなく、当時も発句だけを単独につくることもあったわけである。が、芭蕉の頃は連句がさかんに行われていたわけであるから、単独につくられた場合でも、今日のように連句がほとんど行われなくなった時代の連句を全く予想しない俳句とは質的に違うのである。

芭蕉発句集 ああ~あき

1 於春々大ル哉春と云々

2 青くてもあるべきものを唐辛子

3 青ざしや草餅の穂に出でつらん

4 青柳の泥にしだるる潮干かな

5 あかあかと日はつれなくも秋の風

6 秋をへて蝶もなめるや菊の露

7 秋風に折れて悲しき桑の杖

8 秋風の吹けども青し栗のいが

9 秋風の鑓戸の口やとがりこゑ

10 秋風や桐に動いて蔦の霜

    昭和30年代までの図書館の学会研究発表の題目をながめると、現代の図書館情報学の学問領域では到底含まれないものが多い。明治・大正期は書誌学、校勘学、目録学という分野が主流であり、それが活動論、経営管理、奉仕論などが中心となる。近頃のように情報管理が図書館学の中に欠かせないものとなっている。一昨年の図書館全国大会でコンピュータ屋さんが事例発表者となっていたのには時代を感じさせられた。司書が広い資料研究が必要であることはいうまでもない。ところが今の司書は勉強が足りないように感じられた。若い頃、近隣のベテラン司書の該博な知識に驚かさせられた。それも昭和40年代までのことであろう。それはともかく、昭和38年の日本図書館学会の研究大会のレジュメをみると、目形照の「ウイリアム・ブレイクの神曲挿絵考」、高橋重臣の「書物における美術的要素」などなんでも有りの感がする。とくに佐藤貢の「芭蕉の俳句索引」に興味がある。芭蕉の俳句に関するレファレンスは多い。司書として索引の必要が生ずるであろうが、本によって芭蕉の収録句数にバラツキがあることを知るだろう。司書としては、なるだけ収録数の多い本が有り難い。佐藤は手づくりの芭蕉索引を作った。なんと1680句。ふつう芭蕉の発句は1000前後といわれる。なぜこんなに多いのか。芭蕉は一句を大切に思うため、推敲に推敲をかさねる。したがって推敲過程において異形句が発生する。その場合、どれが決定句で、どれが前後の句なのか、見極めることは困難な場合が多い。また所載俳書の杜撰による誤りもある。芭蕉研究家は確実に芭蕉の発句として認められるものを収録する。例えば岩波書店の大谷篤蔵の「芭蕉句集」(日本古典文学大系)では842句、朝日新聞社の頴原退蔵の「芭蕉句集」(日本古典全書)では1005句、三省堂の「定本芭蕉大成」では993句、存疑のもの4993句、誤伝の句205句。三重大学の佐藤貢の1680句の中は不明であるが、おそらく存疑のもの、誤伝のものが含まれているのであろう。1000句前後の発句を集めるには、句の製作年次順、季題別に配列する方法が普通であろう。そして巻末に五十音の索引をつける。ここでは、五十音順に拾い出して、1000句を超えるのか、下回るのか調査したい。一日10句拾い集めて100日かかる。半年先には一応完成することになる。

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