セミの歌
ロバがセミの歌をきいて、その気もちのいい声をうらやましがって、「何をたべるとそんなにいい声が出るのです?」と、きいた。すると、セミが、「草のつゆです」といったものだから、ロバは草につゆがつくのを待っているうちに、おなかがすいて死んでしまった。
NHK紅白歌合戦に英歌手スーザン・ボイルが出演して、その美しい歌声にききほれた。いま出演オファーが殺到して、春には再来日するという。日本人はどんなにお金を積んでもいいから、最高のものを聞きたいのであろうか。ふとセミの歌をきいたロバを思い浮かべた。先日、NHK「スタジオパークからこんにちは」に大江健三郎が出演していた。大江は愛媛県の出身で子どもの頃、近くの公民館の本を2年間で全部読んだという。この話はよくきいたことのあるエピソードだが、本人の口から改めて確認した。なぜ図書館でないのか、というと、当時は図書館が十分に整備されていない時代で公民館に本があって図書館の代役をしていたのであろう。おそらく冊数は1万を超えない、数千冊程度のものであろう。でもたとえ2千冊としても子どもにとっては多い。100万冊の図書館が隣にあっても1冊も読まない人がいるし、1キロ離れた2千冊の公民館図書室に毎日通い全部読んだ子どももいる。問題は「すべて読む」ということである。すべてということは大人の本もあり難しい本もある。本好きの程度は並外れていることは言うまでもない。、「すべてを読んだ」ということは、つまり片っ端からシラミつぶしに読む。公民館の本が特に選書に優れていたとはおもわれない。専門の司書がいたということではないだろう。ただ常識的に職員がいいと思えるような本をそろえていたのだろう。昭和20年代のことであろうから、あるいは戦前の本もあるだろうし、戦後の粗末な紙質の本であるが、内容はむしろいまより良心的な本ばかりだったであろう。それらを偏見や好き嫌いなしに一端はすべてを受け入れてみることが大事なんだろう。いまの子どもは沢山の本の中から自分の面白そうな本を選ぶ。むしろつまらないと見向きもしない本に宝があるのに気づかない。大人たちも沢山の新しいきらびやかな本があれば本好きになり、偉くなると思いがちである。子どもにとって理想は数千冊の本であらゆるジャンルの本があって、森に囲まれた静かな環境で本に集中するゆったりした時間のあることだと思う。多読は必要だが、どこかの学校で冊数を競いあうことなどあまり感心しない。学校図書館の充実もいいが、学校には当然一日中いるので、学校とは別の建物、それは公民館図書室でも公共の図書館でも地域文庫でもいいから学校以外の建物で読むことが出来ればもつといい。なぜなら学校は学習と直結しているが、街の施設であれば、より自由に空想の世界にひたれるからである。ロバは自分にないものを望んで死んでしまった。今の日本人はなんでも金を出して最高のものを求めようとしている。でも貧乏な時代に貧しい文庫の本を全部読んでノーベル賞をとった作家がいた。読書環境はいまの子どもたちと比べて大江がとくに恵まれていたとは思われない。むしろもっと立派な図書館が日本にはたくさんできている。感想文のコンクールをすればいい文章を書く賢い子どももたくさんいる。でもそれだけでは知性のある大人は育たない。多分デラックスで最先端の設備のある大学で学んでも優れた人材は出ない。企業化した大学からは薬物汚染が拡大するだけで、学びの場とは無縁となっている。結局は音楽も読書も金をかけたらいいかというとダメだろう。むしろ自然の音に耳をすましてきき、散歩をして、何度もじっくりと本を集中して読み、自分の考えをまとめて書く、つまり「歩く」「読む」「書く」(大江流読書法)は特別なことではなくてスタンダードであろう。
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