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2010年1月19日 (火)

伊予人物誌

    戦国時代、四国は長宗我部元親によって全土統一がなされたが(天正13年)、同年豊臣秀吉の四国侵攻があり、敗北。長宗我部は土佐一国のみの領有となった。伊予は松山の久松氏、宇和島の伊達氏など8藩と天領が置かれた。伊予松山では、はじめ加藤嘉明が伊予20万石を封じられたが、寛永4年、会津に国替えとなる。蒲生忠知のあと、寛永12年には、家康の甥松平(久松)定行が15万石で就封。親藩松山藩が誕生し、明治まで15代続いた。伊予の人材としては、佐藤信淵は主君・大森城主・土居清良の諮問に答えた農談「親民鑑月集」がある。足立重信は、石手川を改修し、約8000ヘクタールの田地の灌漑開発にあたった。初代藩主松平定行は、久万山での茶、楮の栽培、伊予灘沿岸での水産養殖を奨励するなど、藩初の殖産興業に努力した。特産伊予絣を考案した鍵屋カナ、絣の前身伊予縞の生産に努力した松山城下の菊屋新助などがいる。幕末の四賢侯の一人として知られる宇和島8代目藩主・伊達宗城は開明藩主であった。英国外交官サトウは「四国の小領主にはもつたいない程有能」と記している。近代の短歌・俳句の改革者・正岡子規は伊予温泉郡藤原新町(現・松山市新玉町)に生まれた。高浜虚子は松山市長町新町に生まれ、伊予尋常中学の級友、河東碧梧桐を介し、子規と文通したのが俳句への機縁である。虚子は「俳句の目的は花鳥風月を諷詠するにある」として、碧梧桐と対立した。挿絵画家・高畠華宵は宇和島の生まれ。中将湯の広告絵から注目を集め、「少年倶楽部」で人気を集めた。

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