藤原鎌足の墓
蘇我入鹿を殺害し、中大兄皇子の側近として大化の改新を成功し、中央集権国家の建設に貢献した藤原鎌足。天智8年10月16日、56歳で死去した。藤原鎌足の墓の所在に関しては、鎌足の長男の定慧が鎌足の遺骨の一部を摂津国阿威山(大阪府高槻市)から大和の多武峰山に改葬し、妙楽寺と称したことが記されていた。大正期の史学界では喜田貞吉、谷井済一らが阿威山墓説、大和多武峰改葬説など諸説論争のテーマであった。ところが昭和9年、大阪府高槻市の阿武山で古墳が発見された。石室には60歳前後の男子の遺骸を納めた棺があり、被葬者は藤原鎌足ではないかと騒がれた。調査にあたった梅原末治は「其の何人であるやの問題は蓋し永久の疑問たるを免れないであろう」と結んで断定をさけた。戦後になって、直木孝次郎は「阿武山古墳が鎌足の墓であることは文献上からも肯定することができる」として阿武山・鎌足説が再浮上した。その後も決定打はなく、藤原鎌足の墓の所在は明らかでない。
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