信貴山の毘沙門天信仰
戦国の武将上杉謙信は毘沙門天を信仰し、「毘」の字を旗印として戦った。日本における毘沙門天信仰は、仏教伝来とともにはじまる。聖徳太子は物部氏との抗争で戦勝祈願のため、小さな四天王像を髪の中にいれて戦って勝利したので、摂津の玉造に四天王寺を建立した。毘沙門天は中世においても武神として深く尊崇された。楠木正成の母親は、立派な男の子を得たいと、信貴山の毘沙門天に祈願をかけて、正成を生み、毘沙門天の武勇にあやかるように、正成の幼名を多聞丸と名づけた。信貴山には毘沙門天を祀った高僧命蓮に関する説話が伝えられている。
信濃国の僧命蓮は、法師となり、奈良の東大寺で受戒をうけたのち、信貴山に登った。山には毘沙門天像を安置した堂があるだけであった。そこで命蓮は12年間、庵室にこもって修業した。そのころ醍醐天皇の病が篤く、僧たちが祈りや修法などいろいろつくしたが、少しも効があらわれない。不思議な霊力のある僧が信貴山にいると聞いた蔵人が命蓮に会い、祈願をお願いした。すると、祈りの効きめによって、帝は快くなられるという奇跡がおきる。そのほうびとして僧都、僧正という高い位を上げよう、また寺には荘などを寄贈しようと告げたが、命蓮はどちらもかえって煩わしさが加わるだけだと、強く辞退した。やがて姉の尼公が命蓮に会いに信貴山へやって来た。尼公は「たい」(袈裟の一種。読経などのときに身につける)を持参して二人は劇的な再会をする。
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