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2009年12月23日 (水)

高句麗と日本

   天皇という号がいつ成立したか定説はないが、近年の木簡の出土から天武天皇の時代とする説が有力である。ただし「日本書紀」に推古朝16年(608)に小野妹子を大使として持たせた国書には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とある。この国書の「天皇」の文字が天皇そのものをさすのか、文飾であるのかわからない。ともかく7世紀前半から後半にかけての東アジア世界は激動の時代であった。

    618年におこった唐はやがて貞観の治とよばれる最盛期を迎え、周辺諸国を圧迫した。半島では、百済、新羅、高句麗が対立していた。百済では、641年、義慈王がクーデタによって権力を掌握し、642年以降、新羅に侵攻した。高句麗では642年、残忍暴虐な泉蓋蘇文が栄留王や貴族を惨殺し、百済と結んで新羅を攻撃した。新羅は唐に救援を求め、唐の太宗は644年から5回にわたって大軍を率いて高句麗を攻めたが、泉蓋蘇文は唐軍を退けた。しかし彼の死後、国内の権力闘争で分裂し、668年、高句麗は唐に亡ぼされた。倭国皇極天皇期の政変(中大兄皇子、中臣鎌足らによる蘇我氏滅亡、乙巳の変)もこのような東アジア情勢の変化と関連して考えることができる。

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