倭国の制度を理解することは難しい
そもそも「天皇制」という言葉は変な言葉で、天皇に制度などもともとなく、それは左翼が使う言葉であり、天皇は国民統合の単なる象徴する言葉だとする声を聞いたことがある。天皇を理解することは日本人にとってまことに難しい問題である。象徴天皇制という言葉はなおさら難しい。広辞苑によれば「日本国憲法の定める天皇制。そこでは天皇は国民統合の象徴であり、国政に関する権能を有しないとされる。」だが憲法において、外国の高官との会見は国事行為として内閣の助言と承認において行われる。本日午前、来日した習近平国家副主席と天皇は20分ばかり懇談されたという。いま、これが天皇の政治的利用にあたるか、あたらないかで論議されている。通常の1ヵ月ルールを守ればなんでもないことなのだが、中国の強い要請を受けて小沢一郎が強権を発動させて会見実現を無理やりさせたから話はややこしくなった。話は宮内庁の羽毛田信吾の辞任問題にまで波及している。小沢一郎が権勢を誇示する目的で天皇会見がなされたことは明白であるが、時の権勢家に回りは逆らえないのだろう。民主と自民の論議が天皇を巻き込んだ形で国民の前で晒されこと自体が、天皇の政治的利用にあたるように思える。もはや政治家たちには天皇への敬愛の念よりも政争の具として利用するしか頭に無い輩である。この論議はたいへんに恐ろしい内容をふくんでいる。現天皇制は国民主権の基盤に立つもので、戦前の天壌無窮のものではなく、国民の意思によって改廃される可能性をもっている。天皇は統治者でもなく、行政権もなく、また拒否権もない、国家を外に向かって代表する権能も持たないので、元首の性格もない。象徴天皇とはさまざまな解釈で諸外国や国内の政治家がその権威を利用しようと企んでいる存在であるので、若い人々の間から本当に皇室が日本にとって必要であるのかどうかという意見までも出かねないものである。天皇の古語を「すめらみこと」という。このほうが実は解り易い。その意味は「統べる」、統合する「みこと」または「きみ」の義と解される。諸氏族を統合する「みこと」がすめらみことなのだ。2世紀の終りごろ倭国に大乱があり、邪馬台国の卑弥呼が新しい国の王となった。これをもって畿内および北九州両文化圏の統合と解され、ここに天皇またはその前身の成立が認められる。「魏志倭人伝」には「鬼道を事としてよく衆をまどわす」とあるのは、卑弥呼が神、ことに祖先神に仕える巫女であり、神の宣託を得てこれを宣旨することにより国を支配することを意味する。しかし実際に政治を行なうのは卑弥呼のその弟であった。その後、5~6世紀でも、「天皇は執政せず」との伝統は依然として守られていた。大臣、大連が執政の任にあたった。大化の改新以後平安時代中期まで「天皇は執政せず」の先例はいききていた。戦国、江戸時代も天皇に留保されていたのは改暦および改元の権くらいであった。江戸時代の後半期になると、尊王論が興隆し、積極的に天皇の親政あるべしと主張する者が現われ、大政奉還が断行された。明治になって日本は天皇を君主とする集権的絶対主義国家となった。やがて国会は開設され、憲法が制定されと、立憲制と天皇制とをどう調和させるかが問題となってきた。昭和になり、天皇の権力ないし権威の絶対性を理論的に保持しようと軍国主義的ファシズムが支配するようになり、日本は国家として破滅した。昭和20年には敗戦により、天皇制の廃止論も一部にはあったが、日本国憲法は天皇主権、神権主義を否定しつつも、天皇という世襲的機関はまったく政治的権力をもたない儀礼的役割をもつものとして認めることにした。しかしながら、いつの時代にも天皇の権威を利用しようとする政治家はでてくる。蘇我入鹿、弓削道鏡、平清盛、岩倉具視。天皇会見にこだわった大国中国も天皇の権威が政治的にみて必要だったからであろう。日本歴史を戦後の象徴天皇からみるのではなく、上代史からみても天皇の問題ぬきには語れない。それにしても小沢幹事長の権勢たるや平清盛のような栄華ぶりである。おごれる平家久しからず。
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コメント
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ケペル先生、一方的なお申し出で、今日のブログと関係がないのですが、教えていただければ幸いです。孫文(孫中山)について調べていたところ、孫文が尊敬する中山家は明治天皇の母の中山慶子(忠能の娘)さんであることがわかりました。一方、私は旧姓が大久保といいますが、多分大久保利通氏とつながりがあると思えます。
二人の関係を調べていくうちに、「藤原家」でつながっていることが分かりました。私は現在の苗字は中山です。そして慶子さんと同じ11月28日生まれです。主人の実家は岡山にあり、お墓だけ見るとほんとに先祖代々ずらっとならんでいます。でも詳しくは分かりません。癌の家系だということくらいです。先生は何か情報をお持ちですか?
投稿: ここ | 2009年12月15日 (火) 15時34分
お便りありがとうございます。祖先調査は複雑でお役に立つ情報はありませんが、むかし鹿島昇先生という方は山口県の田布施出身の大室寅之祐が明治天皇にすり替わったという説をとなえられました。もちろん珍説で誰も相手にしないでしょうが、田布施は小さい町ながら2人の首相を出しています。孝明天皇の死因には毒殺説があり、6人の子どもがいますが、うち5人は早死にしています。中山慶子は京都の八瀬で明治天皇を産んでいますが、体の弱い子だったと伝わっています。成人した明治天皇は丈夫な青年なのですり替え説がでたのでしょう。すり替えには岩倉具視が関わっているといわれますが、大久保利通も真相を知っていたと思われます。中山さんのご先祖はもしかしたら重大な秘密に関与する方で、墓や過去を明らかにしていなのかもしれません。
投稿: ケペル | 2009年12月15日 (火) 18時37分
ケペル先生、突然のお申し出に関わらず、ご丁寧なお返事ありがとうございました。実は私、結婚するときに「さいころ占い」の先生のところにいきました。マリッジブルーというやつです。そうしたら、何度も何度もさいころをふって、「前世でつながっているから、今結婚をやめてもいずれは結婚しますね」と言われました。それと父(他界)が新聞記者をしておりまして、そのときに天皇すり替え説を唱えておりました。父は今はなきF留学試験に合格した強者です。確信をもっていたのだと思いますね。あと作家のS島氏も同じ説を唱えておりました。私が父から聞いたと伝えたら、びっくりしておりました。彼も何か確信をもっているのでしょうね。また何か情報がありましたら、教えていただけると幸いです。あと義母や主人がお墓を岡山から移動させようとしています。義父のみのお骨をもってくる予定です。でも調べなければなりませんね。どうしたら調べられると思われますか?
投稿: ここ | 2009年12月16日 (水) 15時27分
ケペル先生、家系図はもう戦争で全てなくなってしまったそうですし、うちの家系はみな農民出身でしたので、全く関係ないことが分かりました。どうもありがとうございました。
投稿: ここ | 2009年12月28日 (月) 09時49分