天皇は神聖にして侵すべからず
歴史系ブログの性格上どうしても天皇に関する記述が生ずる。そのとき脳裏をよぎるのは「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法第3条の一文。新憲法においては言論の自由、学問の自由等を保障されており、天皇の存在は天壌無窮のものではなく、国民の総意で決定されるものであるからして、天皇制の存廃を検討することも許されると考える。
歴史研究でよく知られていることではあるが、神武天皇の即位の年を西暦紀元前660年に当たるとした根拠は、中国の讖緯説によるもので、辛酉が革命であるとしている。その結果「日本書紀」の紀年は実際よりも著しく年代が延長され、神武から第9代の開化天皇までは「欠史八代」の実在しない天皇であることはもはや疑いの余地はない。日本史の政局のなかで、「錦の御旗」を得ることは権力者にとって最大の関心事である。いかなる時代でも天皇の権威を政治的に利用とする動きはある。政権交代のこの年もいくつかの現象が認められた。もちろん象徴天皇を政治的に利用することは断じて許されることではない。だが現実には、一党一派の党利党略のため天朝様を担ごうとする動きは幕末維新にかぎらずあるようだ。憲法上に認められた天皇の国事行為に関しても争点となることがある。
15日の天皇・習副主席会見で小沢一郎は「陛下の行為は内閣の助言と承認で行われるのが憲法の理念だ。日本国憲法を読んでいるのか」と発言したことに対して、共産党の志位和夫は「小沢さんこそ憲法をよく読んでほしい」と反論している。志位は「外国の賓客と天皇が会見することは国事行為ではない。公的行為だ」と指摘する。そのうえで「公的行為が政治的性格を与えてはならないのが憲法の精神」としている。
憲法学者の榎原猛の著書「憲法、体系と争点」(法律文化社1986年)にも関連する記述がある。「天皇の行為類型」(264p)「天皇の行為類型につきA.二種類あるとする説と、B.三種類あるとする説がある。A説は、天皇の行為は、国家機関として国事行為を行う以外は、すべて私的行為であり、国事行為以外の公的行為は、原則として認められず違憲である、とする。B説は、天皇の行為には純然たる私的行為でも、国事行為でもない第3の類型の行為として、B(イ)象徴行為説は、例えば、国会開会式で「おことば」を賜る行為、外国元首との慶弔、親電の交換、外国元首の接見、その答礼親善訪問などの行為は、憲法の定める国事でもなく、私的行為でもなく、象徴としてなす公的行為であるとし、B(ロ)準国事行為説は、国事行為に密接に関連する公的行為は、国事行為に準じた行為として憲法上認められる。例えば、国会開会式の「おことば」は、国事行為である国会の召集と密接に関連しているので、また親電等交換などは、7条所定の外交上の国事行為と密接に関連しているので準国事行為として許容される、とする。
今回の天皇会見が、国事行為であるか、準国事行為として許容されるのか、はたまた公的行為なのか、私的行為とみなされて違憲にあたるのか、憲法学者でないのでわからないが、天皇の行為というのはことごとく規定された行動してかできないものなのである。
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