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2009年12月30日 (水)

タイトル・ネーミング小史

    明治18年の坪内逍遥「当世書生気質」から平成21年の村上春樹「1Q84」に至るまで、小説、ドラマ、映画、歌謡曲などのジャンルを問わず、作品のタイトルの移り変わりを論ずる。

    明治期、漢語を基本としたネーミングがほとんどである。矢野竜渓「経国美談」、東海散士「佳人之奇遇」、末広鉄腸「雪中梅」、尾崎紅葉「金色夜叉」。このような中にあって夏目漱石「吾輩は猫である」はネーミング史上画期的である。一センテンスの文がタイトルとなる現在の起源ともいえる。(片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」、江國香織「号泣する準備はできていた」など)

    だがその後も日本文壇の作家はほとんど文がタイトルとなることはない。志賀直哉「城の崎にて」、川端康成「雪国」、太宰治「斜陽」、松本清張「点と線」など。最近の作家がタイトルに文章を使用するようになったのは、おそらくニューミュージックなどの影響によるものと思われる。「結婚するって本当ですか」(ダ・カーポ)、「遠くで汽笛を聞きながら」(アリス)
    そのニューミュージックたちは詩から影響をうけた。例えば寺山修司の「時には母のない子のように」(カルメン・マキ)、「思えば遠く来たもんだ」(海援隊)などは中原中也の作品を思わせるものがある。「汚れつちまつた悲しみに」など中也の詩はダダの影響があるので、今日一般に見られる文章のタイトルはダダの影響によるものであって、既成の文壇から生じたものではないようである。ダダの詩は大正末期から昭和戦前期にかけて無声映画や流行歌に影響を与え、文章をタイトルとする作品が現われた。「何が彼女をさうさせたか」「誰か故郷を想わざる」(霧島昇)また戦中戦後期、海外からの諸作品からの影響も見逃せない。「歴史は夜つくられる」「わが谷は緑なりき」「我が道を行く」「誰がために鐘は鳴る」「サマーラの町で会おう」「ツァラトゥストラはこう言った」など。
    戦後は歌謡曲において一般的となった。「こんなベッピン見たことない」(神楽坂はん子)、「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)、「ベッドで煙草を吸わないで」(沢たまき)「そんな夕子にほれました」(増位山)、1980年代以降は歌謡曲の世界では長いタイトルは当たり前となる。「そして僕は途方に暮れる」(大沢誉志幸)、「僕がどんなに君を好きか君は知らない」(郷ひろみ)、今年のヒット曲、「僕は君に恋をする」(平井堅)、「大っきらい、でも、ありがとう」(青山テルマ)など。長いタイトルはドラマ・映画でも主流になりつつある。「僕の彼女を紹介します」「人のセックスを笑うな」「テハンノで売春していてバラバラ殺人にあった女子高生、まだテハンノにいる」「美が私たちの決断をいっそう強めたのだろう」。なかには中味を見ずともタイトルで粗筋がわかるほど長いものがある。こうダラダラしたタイトルが多いと、かつての芥川龍之介「鼻」や松本清張「顔」がインパクトあるネーミングに思えるから不思議だ。長いタイトルといえば、「マルキ・ド・サドの演出によりシャラントン精神病院の患者たちによって演じられたジャン・ポール・マラーの迫害と暗殺」ピーター・ブック(1968年)が知られている。今ではその以上に長い映画も存在するだろう。(1978年のソフィア・ローレン主演のイタリア映画の原題が長い。ちなみに邦題は「愛の彷徨」)

2009年12月29日 (火)

漂流する文書館

   文学記念館、文書館、図書館などは資料を保存する機能は有しているが各々その特性は大きく異なる。しかし、行政全般から見ると出先機関で、不要不急の感あり、情勢の変化により真っ先に斬られる施設でもある。大阪市住吉区にある府立公文書館が、吹田の国際児童文学館の建物に移るという。もともと児童文学館として設計された施設なのでチグハグなものになるであろうが、移転後、一度見学したいものである。

    日本の社会において図書館、文書館(最近はアーカイブスというらしい)、文学館(あるいは文学記念館)、郷土資料館、美術館、博物館などの諸施設は欧米に比べて、理事者たちの認識は極めて低い。いまでもそうだが、明治・大正の草創期はもっと厳しいものがあったであろう。わが国の図書館界で最も著名な人物は佐野友三郎だと思うが、残念ながら自殺の詳しい理由は知らないし、また今となっては誰にも本当のことはわからない。思うに図書館人ほど憤りをもって晩年をおくる職業はないなのではないだろうか。最も栄達を極めた和田万吉も関東大震災で貴重書を焼失させた責任を問われて、辞任させられ、失意の晩年であった。初代帝国図書館館長の田中稲城も文部省との意見の対立で、退職に追い込まれた。神戸の伊達友俊や新潟の村島靖雄も晩節はよくない。おそらく図書館や文書館の者は、行住坐臥、寸暇たりとも図書館のことを考えぬ日はないが、世に入れられず、憤懣やるかたたなく死んでいく運命にあった。

日劇ウエスタンカーニバル

   昭和33年2月8日、日劇の第1回ウエスタン・カーニバルは、ウエスタンに限らず、あらゆる洋楽が集ったが、もっとも派手な声援を集めたのが平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎のロカビリー三人男だった。平尾は甘いマスクとその歌唱はいまも健在である。ミッキーはハーモニカを片手にスローな「恋の片道切符」をアレンジして歌う。山下から「列車は急行から鈍行になった」といわれる。その山下は親父の柳家金語楼譲りのトークが冴える。「三曲で一時間もたせるコンサート」とか「50年間にヒット曲は一つ」と前おきをして、名曲「ダイアナ」を高音ヴォイスで聞かせる。ロカビリー三人男は、70歳をすぎても、絶好調だ!(27日放送、NHKBS「よみがえる青春、日劇ウエスタンカーニバル」)

十返舎一九の画才

    十返舎一九は大層な大酒飲みでとうとう家財道具まで酒代にかえてしまったので家の中はすっからかんになった。江戸の戯作者は原稿料だけで生活しえたものは少ない。山東京伝、曲亭馬琴、式亭三馬といった一流の作家でも、売薬や化粧品を売ることを副業としていた。一九は死ぬまで、原稿料で生活していたのでいつも貧乏だった。それでも一九は暢気だった。壁に白い紙を貼って、箪笥、床の間、違い棚、花活から掛け物まで描いたところ、ちょっと見には本物にみえたという笑い話が残されている。

天皇陛下を政治利用

   古来より天皇のいる場所に神器があり、神器のある場所が天皇のいるところである。支配者の象徴である三種の神器とは、剣と勾玉と鏡。東京にある皇居内吹上御所の天皇の寝所の隣に「剣璽の間」があり、そこに神剣と神璽(勾玉)が安置されている。神鏡は宮中三殿の賢所に安置されている。天皇は毎日欠かさず賢所を親拝する。

    12月27日のテレビ朝日の討論番組で亀井静香は、宮中昼食会で天皇陛下に皇居を離れ京都か広島へ移ることを進言したことを明らかにした。もちろん常識的に考えて、天皇遷御の問題は軽々に語るべきことではないし現実味のない話である。むしろ亀井静香が自分の権勢を誇示するために天皇の話をもちだしただけなのだろう。それにしても、中国特例会見といい、小沢一郎の忖度発言といい、今回の天皇皇居移転発言といい、象徴天皇制がくずれて、天皇を政治的に利用しようとする発言が横行しているのを見るにつけて、やりきれない思いになる。いまに三種の神器を簒奪する者が現われるかもしれない。

2009年12月27日 (日)

京竹田街道の待ち伏せ

Photo 壬生寺近藤勇像

    鶴田浩二主演「新選組」全19話は「新選組血風録」「燃えよ剣」に比べ劣るという評判だったが、あらためて全作品を見ると、豪華ゲストと熱演、オリジナルストーリーで見所は満載である。第16話「誠の旗伏見へ」は浪士たちに暴行され瀕死の状態となった料亭の仲居おはま(松原智恵子)。永倉新八(伊吹吾郎)はおはまと祝言を挙げる。第17話「京竹田街道の待伏せ」伏見奉行所を出て京へ向かう近藤勇をねらう高台寺党の残党を、隊士柴田直人(太田博之)が発見する。太田の美剣士ぶりに注目。第18話「鳥羽伏見の戦い」会津公用方野村左兵衛(田村高広)は老中板倉勝静(岡田英治)や会津の重臣(神田隆)に掛け合い必死に新撰組を見殺しにせぬように頼むが万策尽き、自決する。鶴田浩二、田村高広、山城新伍さんら故人となった名優たちも多いが、熱演とスターの存在感に酔う。新選組の下働きをする勘吉を演ずる田淵岩夫は、いまも関西ではお馴染みの顔である。「田淵岩夫の得ダネてれび」など番組のパーソナリティをつとめる人気タレント。

2009年12月26日 (土)

太陽と砂漠のバラ

    昨夜「ミュージックステーション」を見る。この一年間のヒット曲を聴く。幕張メッセからのスーパーライブ。中島美嘉「流れ星」、平井堅「僕は君に恋をする」、桑田佳祐「君にサヨナラを」、絢香「みんな空の下」、福山雅治「はつ恋」。EXILE、いきものがかり、嵐、SMAP、V6、倖田來未、コブクロ、西野カナ、浜崎あゆみ、加藤ミリヤ、清水翔太、ポルノグラフィティ、ゆず、遊助、ユニコーン、ラルク・アン・シェル、NEWS、大塚愛、東方神起、Superfly、AKB48など38組のミュージシャンたちの4時間を超える熱唱に大満足。TOKIOの新曲の歌詞「受け入れ難いこの毎日を切り開く為に戦い続けろ」という男性的な曲に惹かれる。

百年前の作家たち

    サマーセット・モーム(1874-1965)の代表作「人間の絆」は1915年に発表されたという。モームと同世代の作家をわが国で挙げると、島崎藤村(1872-1943)、有島武郎(1878-1923)、永井荷風(1879-1959)、志賀直哉(1883-1971)あたりか。つまり明治43年(1910)、雑誌「白樺」が来年でちょうど100年に当たる。志賀直哉の「網走まで」は創刊に掲載されたから、やはり100年間読み継がれたことになる。100年のちまで読まれる小説家がどれくらいいるだろう。刊行当時、流行してもなかなか100年読まれる作品は少ない。だいたい第一次世界大戦前後に登場した作品には、戦争体験が反映されて、人生の苦悩やヒューマニズムに溢れた名作が多い。第一次大戦をテーマとした「黙示録の四騎士」(1916)やファン・ガラルドという闘牛士を描いた「血と砂」(1908)の作家ブラスコ・イパーニュス(1867-1928)など今日その名を知る人は少ない。ルドルフ・ヴァレンチノの洋画によってイパーニュスの名声は世界的だったのだが。「城砦」(1937)のクローニン(1896-1981)も日本でよく読まれた作家であったが、いつのまにか忘れさられた。「朝から夜中まで」(1916)のグオルク・カイザ(1878-1945)、「海戦」(1917)のラインハルト・ゲーリング(1887-1936)、「ドイツ男ヒンケルマン」のエルンスト・トラー(1893-1939)、「インドへの道」(1924)のエドウォード・モーガン・フォースター(1879-1970)、「医師ビュルガーの運命」「ルーマニア日記」(1924)「美しき惑いの年」(1941)のハンス・カロッサ(1878-1956)、「雪解け」(1954)「あらし」(1947)のエレンブルグ(1891-1967)など現在ほとんど忘れさられようとしている。もちろん世界文学史上において確固たる地位はあるものの、実際に作品を読もうとして作品が本屋の店頭にあるのだろうか。「カラマーゾフの兄弟」が新訳でブームだと聞いたが、ほんとうに文学書が読まれているとは思えない。むかしの学生は文庫本の解説目録などで読み終えた本に印をつけ、何かしらの達成感を味わうことをしたものだが、近頃の学生はそんな習慣は無くなったのだろう。いま流行の作家の作品などはほとんど百年後は読まれないと思う。

360億円。金銭感覚が麻痺!

   イチローの年俸が手取りで7億円くらい(本当がどうか確証はない)巨人のイ・スンヨブが6億円。西松建設のヤミ政治資金や友愛政経懇談会の偽装献金も十数億円。日本郵政は障害者郵便を不正利用した団体に12億6000万円の損害賠償請求を起こした。堀江貴文と旧ライブドアは360億円で和解した。でも360億円という金額はちょっと庶民には想像がつかない。小さな市の年間予算になるのではないだろうか。

2009年12月25日 (金)

韓国伝統の装身具

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  韓国女性を飾ってきた装身具は、簡素に見えて流れるような美しさを持つ韓服と同様、自然な美しさをたたえている。ノリゲはチマ・チョゴリの腰部に垂らして付ける装身具。儀式や慶事がある時につけていたが、簡素なものは普段にもつけていた。邪気を追いはらう護符としての役割をもつ。形態は、貴金属や宝石の飾りのある上部と、華やかな3色糸を束ねた下の房の部分からできている。

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    ピニョは束ねた髪にさす簪。李朝時代、既婚女性は後ろで髪を束ねてたチョクチンモリ(まとめ髪)という髪形をしていた。この髪形に、ピニョを挿すして髪を飾っていた。ピニョという簪以外にも重ねて色々なな髪飾りがある。それらを総称してティコジと呼ぶ。ティコジには宝石や七宝などで飾った装飾性の強いものと、キュイゲティコジ(耳かきティコジ)やビッチケティコジ(毛筋棒ティコジ)などのように実用性を兼ねたものがある。頭につける髪飾りをテンギという。妃たちの身分を示す髪飾りにチョプチがある。

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    このほかキゴリという耳飾り(ピアス)がある。珊瑚、琥珀、翡翠などがあしらわれ朝鮮時代からあった。儒教の影響で耳に穴を空けることが禁止され、耳にかけるタイプが使われた。

来年は、「国民読書年」

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    財団法人文字・活字文化推進機構が2010年を「国民読書年」と定め、読書の推進に向けたさまざまなキャペーンが行われる。

    退職して、時間的な余裕がでてきてようやく読書時間もとれるようになって気づくことがある。これまでは、考えること、書くことが大切だと思っていた。だが、勉強するということ、研究するということは、要するに読書するということである。現実生活から離れ、書物を読むことは、一方では軽蔑されることも多い。読書人とか教養人とかには否定のニュアンスが含まれているように思う。多くの人は読書は大切だといいながら、読書時間を生活の基本においている人は少ない。セレブといわれる人や政治家や人気タレントは華やかであるが考え方にどこか地についたところがない。大企業で働くビジネスマンや最先端で活躍しているジャーナリストたちも真正の読書をしていない。本当の読書を楽しめるのは人生を半分降りた閑適生活している人だけかも知れない。師走の忙しい時季、開店休業の状態が続く。

わが青春のとき

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  日本は面積が狭いが、南北に長く、棲息する動植物の種類は多い。そのため風土病の種類も多い。これら風土病を撲滅するためには原因の究明、薬剤の開発などが必要であるが、疾病患者数と研究コストを考えると大学研究所ではあまり研究したがらない。ドラマ「わが青春のとき」は若き青年医師(石坂浩二)が医学大学の研究所をやめて風土病にとりくむというヒューマンドラマである。原作はA・J・クローニン(1896-1981)の「青春の生き方」。クローニンはロンドンのウェスト・エンドで開業医の経験がある作家。ドラマにでてくる「首木病」というのは、首木村という架空の地名で発生した風土病ということになっているが野兎病の一種か。ウイルスで感染するらしい。「わが青春のとき」倉本聡、理論社、1982年3月。

お松から千姫へ

    妻夫木聡の「天地人」は高視聴率だったらしい。ところで12月30日から開催される第88回全国高校サッカー選手権大会の始まりを楽しみにしているサッカー・ファンも多いことと思う。今年で5代目となる応援マネジャーが誰かも注目。過去は堀北真希、新垣結衣、北乃きい、逢沢りな。逢沢は今年「天地人」で直江兼続の長女お松を好演した。そして第5代目は川島海荷ちゃんだった。お松から千姫へとバトンされた。

2009年12月24日 (木)

孔子や達磨も七福神だった?

    正月初夢に、宝船に七福神が乗り込んだ絵を枕の下に敷いて寝ると縁起がいいという。一般には、恵比寿、大黒天、布袋、福禄寿、毘沙門天、弁財天、寿老人をいう。福禄寿と寿老人は同神異名だとして、吉祥天や猩猩を加える場合もある。七福神は室町時代に生れたものだが、7神が決まるまでは、鐘馗や孔子、釈迦、観音、達磨、孔子、老子がエントリーされたこともある。孔子様はオーデションに落選したというわけだ。

日韓競作

   「花より男子」「私の頭の中の消しゴム」「世界の中心で、愛をさけぶ」など日本と韓国で映画、ドラマ化された作品が多くなった。とくに「八月のクリスマス」は山崎まさよし主演で「8月のクリスマス」という作品がある。小品で名作ホ・ジノには及ばぬものの味わいのある作品になっている。大きく違うのはタリムの職業。韓国版では駐車違反を取り締まる婦人警察官だが、日本版では小学校の教師。ジウォンが写真屋なのでタリムが急いで写真を現像に出すのは自然かなと思う。あと結末が違う。竹書房の原作ではセルフタイマーで撮った自分の写真とタリムへの手紙を送らないで引き出しにしまっておく。エピローグに「おじさんは手紙もくれなかった」とあるから、手紙は届かなかったと理解していた。日本版では、関めぐみが手紙を読む場面がある。ケペルとしては、おじさんの告白が若い女性にとどこなかったほうに哀惜を感じる。韓国版のほうが年齢差がはっきりしていたが、日本版ではそれほど年齢差がなかったので、「おじさん」という関めぐみの声も違和感があった。やはり韓国版と比べてしまうので酷かもしれないが。

お花畑を荒らすな

   今週号の「GE~グッドエンディング」「ユキって俺を励ます天才だな。まるで俺の気持ちが軽くなる方法を全部知っているみたいだ」愛読者の少年たちは黒川ユキを作者の流石景ねえさんに重ねあわせる。景さんのブログ「KKDIARY生きてました」は率直に生活が綴られている。だが地方に住む一女性が講談社に認められてあれよあれよと連載女流漫画家。アシスタントがいるほどに環境は大きく変化する。最初は一部ファンとのなごやかな交流。ファッションや都会生活の話など、まるで夢のお花畑にいるような雰囲気。そこに今年から雑誌を読んで黒川ユキ、晶先輩の微熱少年がそれを読むとどうなるか。たぶん美しい花をちぎりとったり、どかどかと花園を踏み荒したくなるだろう。流石景さんのブログ閉鎖はそんな印象がある。たしかに一部ファンとの和やかな会話は微妙な世代には糞に写る。少年誌に女性心理が描かれていて話題作だけにアレルギー反応もまた大きい。でも本当に「GE~グッドエンディング」は名作です。もうすこし時間をかけて連載が続けば必ず成功すると思う。なにごとも新鮮な作品には非難や攻撃はつきもの。ブログ閉鎖は残念だけど、むしろブログに時間をとられるより作品の構想に時間がとれていいんじゃないか。

Fashon

2009年12月22日 (火)

集団イジメする者、見てみぬふりをする者

    秋ごろから「少年マガジン」で真っ先に読むのは「はじめの一歩」ではなくて、流石景の「GE~グッドエンディング」になった。ところが彼女のブログが批判や誹謗中傷で閉鎖したというニュース。「2ちゃんねる」を読む。惨い、若い女流作家には精神的にこたえるだろう。作品には若者言葉や生態がリアルに描かれていて十代の男子の注目を集めた。だが一部ヲタたちは作品もさることながら流石景への関心が高まった。もちろん作家が女性であることが事件の背景にあることはいうまでもない。書き込みにある「ヒロインは処女であること」という処女厨の意見は理解しがたいものである。こんなことも書かれている。「ブログやる奴って自分にとって都合のいいことばかり感想が書かれると思っているのかね?何書かれても見てくれているという感謝と受け止める心の広さが必要だというのに、それがわからず自分で勝手に傷ついてあげく病気や自殺する精神面の弱すぎる奴が多すぎる」でもやはや面白がって皆でイジメているようにみえる。いまのヲタの心の闇の部分がある。自分の経験でもこの50年ほどで日本人は変化してきたと感じる。40年ほど前の社会では秩序や礼儀があった。職場でも自分より10歳下、20歳下、30歳下と話しあううちに、何となく変わってきたなという実感はある。それは一言ではいえない。コンピューター社会というのも大きな影響がある。テレビゲームで育った世代である。自分のブログに「はてなブックマーク」をつけて保存してくれるユーザーさんがいる。面白い記事だと思って、マークをつけてくれるのであり、分類検索しやすいようにタグまでつけてくれる。読んでいただいて感謝している。ただユーザーのコメントが入る。それが問題なのだ。ほとんどは図書館関係者なのだが、ひどい誹謗中傷が多い。だいたいは若い大学図書館あたりの人でネット貴族と呼ばれるかなり思いあがった図書館員たちである。自分たちの考えが絶対に正しいと思っているようだし、傲慢である。現代ネット社会の図書館ヲタの暗部がみえる。それを糾すことは不可能だろう。匿名性を利用して人を傷つけることを悪いと思わない人が多すぎる。最近も自分のコメント欄に「馬鹿か」と書かれた。嫌な気がする。でも諦めるより仕方ない。自分よりはるかに若い流石景さんが傷つく気持ちはよくわかる。こんな世の中だけど、応援している読者もいることを忘れないでほしい。

   流石景ブログ閉鎖はネット社会の歪んだイジメとみている。書き込をしたヲタのなかにも、結末をブログ閉鎖→執筆中止→作者病気、ということを連想する者もいる。行為の罪深さを自覚しつつイジメをしているふしがある。ネットという開かれた衆人監視のなかで行われるイジメの実態に卑劣な一般大衆がいる。そこに傍観者たちの利己主義がある。一例をあげると、車中で酔っ払いが女性に抱きついたり暴行をはたらいたりする。同じ車中の乗り合わせた人たちは誰一人をとめるでなく、見てみぬふりをする。それと同じ。集団イジメは学校などの弱年者集団だけにあるわけでない。職場などでもある。はじめは単なるからかい、揶揄、中傷からくる。そのなかのリーダーが支配していて逆らえない状況にあるとする。もちろん職場の管理者がいるのだが、表面化するのを恐れて実態を見ても知らぬふりをする。イジメられた者は社会に公表するという。管理者は「それはやめてくれ」という。結局、無力感からイジメられたものは去っていく。よくある話であるが、多くのひとは知っていながら、表面上はやさしいイイ人のふりをして、噂だけを楽しみ、イジメられたのが自分でなくてよかったと思うだけである。でも集団イジメの被害者になるのは、今度は貴方の番かもしれないのだ。

黒川雪に首ったけ

    「少年マガジン」連載中の「GE~グッドエンディング」の作者、流石景のブログが「心を強く持ってブログを続ける自信がない」として閉鎖することになった。原因は作品に対する批判的な意見が掲示板2ちゃんねるや流石景のブログのコメント欄で増えたためである。著者への攻撃は作品への愛情の裏返しである。読者は多感な10代が多い。恋愛経験はないけど、したいと思っている。マンガの内容も内気な内海聖志を勝気な黒川雪が恋のレッスンをする。イタリア映画「青い体験」のラウラ・アントネッリ、アレッサンドロ・モモのような筆おろしレッスン物。(漫画は連載中だがそこまで過激ではない)セックスだけでなく、もっとキメの細かい会話、しぐさなどデートの具体的作法などマニュアル本でもある。実は若い男の子にとって最大関心事の内容なんだが、素直になれず批判、攻撃にでるのが生意気ざかりの行動心理。そこのところをこれからも少年向けの漫画を描く作家としては理解してあげてほしい。つまり少年は好きな女子をなぜか、やさしくできずにいじめたくなる、かなり幼稚な段階は成長期に必ずある。作家は読者の意見を聞くことも大切だけど、当然自分の心にあるものを絵で表現したい、またストーリー性や会話など自由に展開したいとおもっておられるはず。自分の意図で自由に描くことが大切だ。それが一流か二流れかの分岐点となる。周囲の声に気にせずにお書きなさい。ブログを閉鎖したのは正解。最近、よく歌手やタレントがデジカメで日常生活をいろいろ撮ったりして、売り込みしているけど本来の仕事ではないはず。余計な時間を浪費するより、仕事に専念するか生活そのものをエンジョイするほうが賢明である。性的表現に関してであるが、社会通念上、許容範囲内の作品だと思う。この程度で批判がでるというのは、われわれ日活ロマンを平気で見ていた世代と違って保守層が蔓延しているのか。でも昔、手塚治虫の漫画を見て、ウランちゃんの大きなパンツを見てドキドキした。手塚も少年のときめき感をちゃんと計算して描いていたんだろうなぁ。今週はお正月の合併号なので当分はユキを見れないので銭湯での全身像は大サービス、流石景先生に感謝、感謝。

   それにしても、おじさんが見ても黒川雪ちゃんはかわいい。二次元の漫画の世界ではなく、三次元の社会に現われ、お尻をふって歩き、腰をかがめ、小言をいい、タメ口を言う、でもカワイイ。2009年という年は、漫画でもリアリティーのある少女が出現したというエポックメイキングな年と後世の漫画史家は書くだろう。

2009年12月21日 (月)

国家再編成の研究

   街はクリスマスの飾りで包まれている。キリストの生誕を祝うツリーや飾りはよく見られるが23日の天皇陛下の誕生を祝う飾りはほとんどない。しかし今年の天皇誕生日は例年にないものが感じられる。連日のように天皇の政治利用に関する論議や党利党略の思惑が絡んで嫌なムードだ。もうそろそろ終息したい。そんな背景として小沢の定例会見があったのだろう。このブログでもしばしばこの件について触れたがもう終息したい。ただ歴史ブログなので、日本史の研究上、天皇の政治利用をふりかえってみたい。

    幕末維新の変革の中で、幕府政治を廃止して、天皇を奉戴して諸藩が連合して政府を構成する、いわゆる「公議政体論」というのは、土佐藩の坂本龍馬などによって唱えられ、中岡慎太郎、後藤象二郎もこれをうけたといわれる。ただし、具体的な実施方法には違いがあって、中岡は武力倒幕を、後藤は大政奉還を説き、坂本はその中間であったという。この時点では天皇の親政は考えられていなかった。

    明治憲法体制が成立し、議会が開設しても、政府の基本姿勢は藩閥官僚が政治を独占した「超然主義」であった。天皇制国家の主柱をなす軍隊が、政府や議会が関与できないとする、いわゆる「統帥権干犯」問題が起こるのはかなり後のことであった。これには鳩山由紀夫の祖父・鳩山一郎(1883-1959)も関連している。昭和5年、ロンドン軍縮条約をめぐって政友会の犬養毅や鳩山一郎は「条約を結んだのは天皇の統帥権を干犯することだ」と激しく政府を攻撃した。浜口雄幸首相は右翼青年佐郷屋留雄に狙撃され軍国主義の反動へのきっかけとなり、結果的に鳩山一郎らが天皇を政争に利用したことが戦争に結びついた。昭和8年、鳩山一郎文相は京都帝国大学の滝川幸辰の著書「刑法読本」が国体に反するという理由で、休職処分とした。昭和10年には、天皇が国家の一機関であることは、それまで半公認されていた学説であったのに、片言隻句を捉えて美濃部を反逆者として弾圧した、いわゆる「国体明徴問題」が起こった。これらにより学問の自由、言論の自由は失われた。二・二六事件の後、不敬問題で検挙された者は続発する。出口王仁三郎の大本教が逮捕される。入船観音道の小原龍海も不敬罪で捕われる。ひとのみち教団の幹部も逮捕される。神政龍神会の矢野祐太郎も逮捕される。良子皇后の従姉妹である島津治子も「きよめ会」に関わり司法処分される。このように神聖不可侵の天皇を楯に権力に対しての批判的な動きは「反国体」の名のもとに弾圧されていった。

    このような戦前の天皇問題をふりかえってみると、象徴天皇の存在もあらためて脆弱な基盤の上に成り立っているものであることが明らかとなる。今回の小沢発言で、国事行為そのものにまで論議が及ぶと、小沢擁護の人からは「天皇の海外訪問もみな政治的なものじゃないの」という声をきいた。つまり今回の天皇特例会見の本質は、両刃の刃で、危うい象徴天皇の思想基盤に関して国民的議論をつくすということは、昭和20年のポツダム宣言受諾時に戻って、天皇の存廃まで含めて国家再編成に触れることになる。もちろん戦前の憲法研究家はすでに天皇機関説を唱えたように、学問研究は自由であろうし、今後、将来の日本をどのようにするのか、坂本龍馬のように新しい日本の針路をみつけることは必要なのであろうか。それにしても天皇に関しては、昨今、流行の常套語「デリケートな問題なので」という政治家、マスコミ諸氏の慎重な発言がこの国の本質を現しているように思える。

2009年12月20日 (日)

追儺

    追儺は中国より渡来の風俗で、日本の起源は文武天皇の慶雲3年(706)に疫病流行の時に疫鬼を払うためにおこなわれたことからであるといわれている。大舎人寮の舎人が鬼の役を勤め、大舎人長は方相氏となって四つ目の恐い面をつけ、玄衣、朱裳を着し、右に戈、左に楯を持ち、振子という8人の小児を従えて鬼を払うのである。殿上人もこの方相氏に従って桃の弓、葦の矢で射て鬼を追う。鬼はついに滝口の戸から出て去るということになる。この追儺は、平安時代に晦日の宮廷年中行事として盛んであったが、室町中期に至って廃絶した。神社の節分祭にこの除災招福の作法を行うのは江戸時代以来の新しい習わしで、民間の豆を打ちあって鬼を追う節分習俗と古式追儺とが習合して復興したものと思われる。

ワクチン争奪戦の果て

    今年新型インフルエンザの世界的に大流行でワクチンの争奪戦があった。アメリカ、ヨーロッパの先進国が大量に確保した。日本は優先的に接種できる人と本人の意志で接種する人にわけられた。この接種料金は個人負担なら6150円もする。命とひきかえなら多少とも経済的に余裕のある人はワクチンをするだろう。日本人はお医者さんや病院が好きだ。ワクチンが不足している。ところが欧州ではワクチンが大量に余っているという。ワクチンの有効期限は1年のため、早く他国へ売却するか、廃棄するしかない。外国のほとんどの国は無料なのになぜ接種しないかというと、副作用を恐れるためである。接種率は人口の8パーセントぐらいで低い。日本人はかなりの人が接種するので外国から高価で余りのワクチンを買って皆する。それで副作用で熱出していればせわない。そういえば最後のほうに、「まれに重い症状を引き起こすこともあります」という説明が書いている。まるで後で訴訟になったときを考慮して、リスクを告知しているかのようである。ワクチン争奪戦もあさましいが、風評で買い占めたり、売れ残りを転売したり、悲喜交々のワクチン騒動。ワクチンやマスクで儲けた業者はウハウハ。

忖度

   「忖」(そん)も「度」(たく)も、はかるの意。他人の心中をおしはかること。このような難しい熟語は日常生活ではあまり使われない。ただし、最近は新聞で連日のように目にする。小沢天皇のおかげである。14日の天皇特例会見の記者会見で小沢は「天皇陛下ご自身も聞かれれば、会いましょう、とおっしゃると思う」と言った。天皇の意志を自分に都合よく代弁するのだからスゴイ。まるで戦時中の軍指導部が陛下の意志を代弁して戦争に国民を駆り立てたことを思い出し、日本の政治家は変わっていないことを露呈した。政権交代とは、勝てば官軍、玉(天皇)の取り合い合戦を宮内庁と小沢とでやっているのだ。バックには民主党びいきの朝日新聞がついているので暴政はまだまだ続く。

ブログ功罪論

Img_0020     朝日新聞の朝刊には阿久根市長の問題行動が大きく取り上げられている。「即、辞職せよ」という男性の声と、ある女性は、「ブログや行動に問題があるからといって即、辞職せよ、とは思わない」という冷静な意見、両論を紹介していた。地方自治なので有権者に委ねるべきだろう。気になったのは記事の扱いの大きいことである。一方、厚生省の不正郵便事件のその後の扱いの小さいことには驚く。民主党に気づかってのことなのか。(むしろそのほうが新聞社の裏事情がバレバレにわかる)。それは新聞の大きな欠点の一つである。何をトップにもってきて、どれを小さく流すかはデスクの判断であるが、なにやら恣意的、作為的なものが感じられる。むかし落語家円生が亡くなった日と同じ頃に上野動物園のパンダが死んだので、パンダの記事のほうが大きかったという笑えない話がある。その点、ネットでの情報は一覧性なのでどれを選択して見るかはユーザーのお好み次第である。新聞購読をそろそろやめて、ネット1本にしぼろうかと考えている。新聞社も危機感があるのか、ブロガーに対して遠まわしな批判記事がめだつ。有名な詩人の谷川俊太郎のインタヴュー記事で、詩の現在と未来を語る中で、ブログは単なる欲求不満の捌け口のように受け止められる記事を読んだことがある。谷川のように雑誌などでの発信力のある人はブログを使って発信しようとは思わないかもしれないが、名もなき庶民にはブログというのはありがたいシステムである。もちろん責任もともなうので慎重に心清らかに、かつ要領よくまとめて書くことを心がけている。なるだけ時事のことは流動性があるので書かないよう努めてきたが、時局のことにふれることで勉強になることも多い。多くの人が同じ問題で異なる意見を書き、対立することも多いが、面と向かって話し合うより、資料を調べて、建設的に意見を出し合えるような気がする。新聞情報も一社の社説だけだと公平性を書くことが多いが、ブログを読むと多様な声が聞ける。多様な情報のなかから必要な情報を見つけけだし、自分の考えをまとめて文章にするという行為はべつにほめられたことでもなく、また悪いことでもなく、毎日顔を洗い、食事し、排便する、ということと同じことであり、考え、書く、他人のブログを読む、ということである。

2009年12月19日 (土)

観光産業と伝統文化

   ローマ、パリ、ロンドンと三都市めぐりをした。自分に一番向いているのはロンドンである。「ロンドンに飽きた人は、人生に倦きた人である」(サミュエル・ジョンソン)それほどロンドンはつきない魅力がある。古本めぐりをするには最高だろう。だが確かにローマやパリのような華やかさに欠ける。数日間の観光ではロンドンの好さがわからないだろう。すくなくともロンドンはお金を出して快楽を求めるような観光地ではない。確かにアメリカのネヴァダ州にはリーノーやラスベガスのような賭博場で世界からのお金持ちがやってくる。先日TV「逃亡者」ではリーノーのホテル経営者テリー・サバラスと娘の不和がテーマだった。やはりキリスト教の国、酒と道徳が根底として問われている。そういう意味では日本には基底するモラルがなく、いまや何んでもあり、の時代だ。それがとてつもなく恐ろしい。諸外国でも伝統文化のある土地でまずカジノをつくるという話はでない。ところが日本では経済効果が見込めるといえばGOとなる国である。沖縄のように歴史と伝統のある土地に、どんどんホテルやゴルフ場が建設されてリゾート化していった戦後も違和感があった。基地移設問題が未決着のままカジノ建設論議が浮上した。お金を使って快楽を求めることが観光だと思っているのだろうか。

カモンイスとガレット

    ポルトガル人は戦国時代に日本の種子島に漂着し、鉄砲を伝えたことから、ヨーロッパ文明を日本に伝えた最初の国といえる。しかし日本人の関心や知識はあまり豊富とはいえない。1550年以降、平戸や長崎において、本格的な貿易があった。俗に南蛮時代(今日この語は蔑称なので使われない)とよばれる。文学ではこの時期、ポルトガルの代表的な詩人がでている。ルイス・バス・デ・カモンイス(1524-1580)である。その叙事詩「ウス・ルジーアダス」(1572年)はバスコ・ダ・ガマのインド航路発見を中心に、ポルトガル人の偉業をたたえたものである。
    19世紀のアルメイダ・ガレット(1799-1854)はカモンイスの生涯を題材とした詩「カモンイス」(1825年)や悲劇「修道士ルイス・デ・ソーサ」(1843年)はポルトガルにロマン主義を移入し、新しい世代の人々に多く読まれた。

2009年12月18日 (金)

絶望の時

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逃亡者第39話。キンブルは弁護士の娘エリー(スザンヌ・プレシェット)から片腕の男の情報を聞いた。弁護士はすでに亡くなっていたが、娘は公判中からキンブルの無実を確信していた。キンブルが来た時はすでにその男は、火事で死んだという。だが、本当は焼け死んだのは別人であった。エリーは片腕の男が死んだら、リチャードがいつまでも探す必要がなくなると思い嘘を告げて、一緒にブラジルへ逃亡するように誘う。2人は空港で待ち合わせることにした。だがジェラード警部(バリー・モース)が嗅ぎつけて空港を包囲している。エリーは泣く泣く本当のことをリチャードに告げて、2人は別れのキスをする。めずらしくラブ・ロマンスの逃亡者だった。スザンヌ・プレシェットは第二のリズ・テーラーといわれた黒目の美人で当時「恋愛専科」「鳥」と人気絶頂期だった。

カジノは沖縄の未来に不幸をもたらす

   あの偉大なローマ帝国が何故ほろんだのか。その理由は歴史家がさまざまな研究をしている。その理由の一つとしてはっきりしているのは道徳の崩壊である。貴族の壁画に描かれた淫らな絵、豪華な食事、競技場などの遊興娯楽。そこには人間社会がもつあらゆる腐敗の現象がみとめられる。あの栄華をきわめたバビロンも道徳の低下が原因で滅んだ。いまの日本社会は経済効果という幻想でどんな不道徳なことでも法律を変えさえすれば実行できる危機的状況であろう。亀井静香金融郵政改革相は「カジノを沖縄でやればいい。観光沖縄の目玉やで」と発言した。この話は突飛なことでも冗談でもなく、すでにカジノ・エンターティメント検討委員会がすでに調査報告書をつくり2015年開業すれば、純利益188億円が期待できると試算している。(このような甘い儲け話を信ずる人いないだろうが)仲井真知事は「自公時代にお願いしていたが、なかなか動かなかった。今度の政権が前向きなのは結構なこと」と歓迎しているらしい。おそらく沖縄住民も仕事が増えて甘い言葉に騙されるのだろう。儲けを得るのは一部の人で、一般の人は多くの被害を受ける身であり、沖縄が社会問題、売春、風俗業、暴力団、薬物など諸悪の温床になることは間違いない。貧しい者は賭博依存症で生活破綻、家庭崩壊となる。現行の法律では賭博行為は禁じられている。諸外国でもカジノはごくごく限定的なもので、禁止しているところは多い。「健全なカジノ」(この言葉に矛盾がある。カジノは不健全なものである)などいまだかつて地球上に存在しない。韓国済州島を訪れる8割は日本人だそうで、国民性として賭博の好きな民族であることは歴史が証明している。長脇差の股旅は博徒といって江戸時代末期、関八州、東海道とヤクザが横行した。国定忠治や清水次郎長は映画、講談の世界だけでいい。ばくち打ちを「やくざ」とよぶのは、人間のくずを意味する。いまは道徳なき政治家がリードして将来にわたってこの日本に不幸の種をまこうとしている。

 

 

昭和天皇と大相撲

    昭和天皇が大相撲ファンであることは、ある年代以上の日本人なら誰もが知っていることだろう。戦後、陛下が初めて国技館の本場所を行幸されたのは昭和30年夏場所10日目のことだった。その日、千代の山、鏡里の両横綱に土がつくという大波乱だった。

ひさしくも みざりしすまひ ひとびとと てをたたきつつ みるがたのしみ

    これはその日の陛下の御製である。いま両国国技館正面入口に碑がある。

    古い話だが、昭和天皇が「どんなテレビ番組をご覧なされるか」という記者団の質問に誠実な陛下はありのままを返答なされた。しかし、それが記事となって、その局はたいへん栄誉なことであったが、他局からはおもわぬ反響となった。やはり天皇のお言葉一つ一つがさまざまな影響を与えられることに憂慮されて、以来、陛下は先ず第一に公平であることを心がけられたときく。スポーツの観戦についても、プロ野球も観戦に行かれたことはあるものの、すべてのスポーツを選ぶことは不可能である。いろいろと考えられて、相撲ということになった。それは相撲は国技として日本国民に長く愛されている伝統があるからである。宮内庁も陛下のお心にそってこれまでのルールをつくってこられた。諸外国のお付き合いにしても、大きな国、小さな国、わけへだてなくされてきた。「大国を重視し、小国を軽視する」というのは政治家の考えである。政治家の思惑を強制的に天皇に強いることは、天皇の政治的利用をはかることであり、象徴天皇を定めた憲法違反である。

2009年12月17日 (木)

校長公募は出来レースか

    大阪府立教育委員会は16日、府立高校に米国在住の中原徹弁護士を来年4月から採用することを発表した。ところが今日になって橋下知事の河崎大樹特別秘書が公募の動きを早く知らせたり、採用試験を事前に知っていた疑いがでてきた。「採用に影響はなかった」と釈明しているものの、関係者の守秘義務違反が考えられる。中西正人教育長が中原の採用を事前に秘書に伝えたことも問題である。府民に校長採用が出来レースだった印象を与えかねない。若いイケメン校長の誕生はPTAママさんの支持を得られるかもしれないが、知事のお友だちを縁故採用する仲良し人事はよい結果をもたらすとは到底思われない。またコメント欄で「公募での出来レースは当たり前だろう」と書かれるだろうが、何を自分の思想の基盤とするのか、人それぞれ異なりますが、このブログは、あくまでも社会正義を貫くのです。

天皇特例会見問題

    習近平国家副主席の来日と同じ頃、ウルグアイ東方共和国の大統領も来日していた。習氏の晩餐会はオーケストラの演奏で倉木麻衣や女優の鈴木杏ら多数の著名人が出席した盛大なものだった。一方、ウルグアイのタバレ・バスケス大統領が来日中であるにもかかわらず新聞報道もされず、国会周辺にも国旗する掲揚されなかった。つまり日本政府の外交姿勢は大国には媚へつらうものの小国に対しては見下し鼻の先であしらうものである。諸外国からみれば非礼このうえない国である。中国といえば今年7月にはウイグル人140人の虐殺があったばかりである。中国は国家といえど中国共産党の一党独裁の国であり、本当の民主主義体制ではないことは言うまでもない。人権無視の政策も多い。大国の弊害で横暴で反省はない。今回も無理を言えば通るという日本政府の弱腰を相手に見せてしまった。天皇との会見に政治的思惑はないと釈明するが、天皇の政治的利用の意図は明白であった。

    ところで鳩山首相は一時天皇会見は見送りを承認し、11月30日に中国側に返事している。それが何故一転して特例の天皇会見が実現したのか最大の謎であった。前原の記者会見では自民党の元総理の要請があったという。この情報を流したのは、自民党にも責任があることをいいたいためである。ではなぜその名前を明らかにしないのか。大手メディアの大新聞社も知っていても名前を公表しない。上からの隠蔽指示があるのだろう。そうすると相当の大物か。おそらく中曽根康弘だろう。岡田外相は1ヵ月ルールがあるので見送りだろうと認識していた。小沢一郎が宮内庁へ恫喝電話をして会見実現をした理由も謎である。中国訪問時に天皇会見を要請され約束したのではないか。「俺のメンツをつぶす気か」と怒鳴ったという。しかし今回の天皇会見は小沢の言うような、憲法7条によって内閣が助言と承認を行うという規定される国事行為にはあたらない。小沢が言った「もっと憲法を勉強しろ!」という罵声も本人の不勉強を露呈したものだった。さらに「一部局の一担当者が何を言うか。言うなら辞表を出してからいえ」という言葉はサラリーマン経験者なら誰しも一度や二度いわれて悔しい思いをした言葉である。その点において宮内庁の羽毛田は肝がすわっていた。ふつう長いものに巻かれろ。お追従の多いのがお役人の世界だ。この国に正義はあるのだろうか。これからも小沢が国政を壟断するのを見るのかと思うと日本が嫌になる。

2009年12月16日 (水)

八白土星と二黒土星

    戦後初めての本格的な政権交代と芸能界の薬物汚染で騒然とした2009年。その主役だった鳩山由紀夫(1947年2月11日、八白土星)と酒井法子(1971年2月14日、二黒土星)が共に水瓶座だった。この明暗に違いは、八白土星と二黒土星の違いなのか。人間の命運は分からないものである。

熊谷直実が出家した原因とは

    浄土宗・熊谷寺には、その名のとおり熊谷直実の木像が安置されている。鎌倉時代初期の武将・熊谷直実(1141-1208)は須磨・一ノ谷の戦いで先陣をつとめ、平敦盛の首を討ち取り、武士道の悲劇を身に沁みて知り、菩提を弔うために出家したという哀話は、「平家物語」や浄瑠璃「一谷嫩軍記」などで名高い。しかし、本当の出家の理由はなんであろうか。建久3年(1192)、久下直光と所領を争って、答弁のふてぎわから頼朝に疑われたことを憤慨し、出奔して京都へ行き、法然の弟子となって、蓮生と称したという。一ノ谷の合戦から8年後のことである。

天皇は神聖にして侵すべからず

    歴史系ブログの性格上どうしても天皇に関する記述が生ずる。そのとき脳裏をよぎるのは「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法第3条の一文。新憲法においては言論の自由、学問の自由等を保障されており、天皇の存在は天壌無窮のものではなく、国民の総意で決定されるものであるからして、天皇制の存廃を検討することも許されると考える。

    歴史研究でよく知られていることではあるが、神武天皇の即位の年を西暦紀元前660年に当たるとした根拠は、中国の讖緯説によるもので、辛酉が革命であるとしている。その結果「日本書紀」の紀年は実際よりも著しく年代が延長され、神武から第9代の開化天皇までは「欠史八代」の実在しない天皇であることはもはや疑いの余地はない。日本史の政局のなかで、「錦の御旗」を得ることは権力者にとって最大の関心事である。いかなる時代でも天皇の権威を政治的に利用とする動きはある。政権交代のこの年もいくつかの現象が認められた。もちろん象徴天皇を政治的に利用することは断じて許されることではない。だが現実には、一党一派の党利党略のため天朝様を担ごうとする動きは幕末維新にかぎらずあるようだ。憲法上に認められた天皇の国事行為に関しても争点となることがある。

    15日の天皇・習副主席会見で小沢一郎は「陛下の行為は内閣の助言と承認で行われるのが憲法の理念だ。日本国憲法を読んでいるのか」と発言したことに対して、共産党の志位和夫は「小沢さんこそ憲法をよく読んでほしい」と反論している。志位は「外国の賓客と天皇が会見することは国事行為ではない。公的行為だ」と指摘する。そのうえで「公的行為が政治的性格を与えてはならないのが憲法の精神」としている。

   憲法学者の榎原猛の著書「憲法、体系と争点」(法律文化社1986年)にも関連する記述がある。「天皇の行為類型」(264p)「天皇の行為類型につきA.二種類あるとする説と、B.三種類あるとする説がある。A説は、天皇の行為は、国家機関として国事行為を行う以外は、すべて私的行為であり、国事行為以外の公的行為は、原則として認められず違憲である、とする。B説は、天皇の行為には純然たる私的行為でも、国事行為でもない第3の類型の行為として、B(イ)象徴行為説は、例えば、国会開会式で「おことば」を賜る行為、外国元首との慶弔、親電の交換、外国元首の接見、その答礼親善訪問などの行為は、憲法の定める国事でもなく、私的行為でもなく、象徴としてなす公的行為であるとし、B(ロ)準国事行為説は、国事行為に密接に関連する公的行為は、国事行為に準じた行為として憲法上認められる。例えば、国会開会式の「おことば」は、国事行為である国会の召集と密接に関連しているので、また親電等交換などは、7条所定の外交上の国事行為と密接に関連しているので準国事行為として許容される、とする。

   今回の天皇会見が、国事行為であるか、準国事行為として許容されるのか、はたまた公的行為なのか、私的行為とみなされて違憲にあたるのか、憲法学者でないのでわからないが、天皇の行為というのはことごとく規定された行動してかできないものなのである。

2009年12月15日 (火)

恐怖のひき逃げ

   これはアメリカで本当にあった話。ニューヨーク在住のサラリーマンのロバートは自家用車で通勤中の深夜、横断歩道を歩いていた老人をはねとばした。彼はあたりをみたが、誰もいなかったことを知るや、苦しんでいる老人の顔をみながらも、怖くて置き去りにして逃げてしまった。

    翌朝、目をさましたときにロバートの妻は、夫が白髪になっているのをみて驚き悲鳴をあげた。ロバートは慌てて洗面所に走りこんで、自分の顔をみた。写っていたのは、自分が昨夜ひき殺した老人の顔だった。

天皇陛下ドタバタ会見

    政治の世界は流動的である。天皇と習氏との会見は政治的利用が問題視されていたが、むしろ羽毛田長官の処分問題へとすりかえられている。鳩山は記者の質問に、「今、お答えできない」としながらも「中国の副主席が日本で活動している最中にこういう状況になったのは大変残念だ」として、この事件の責任をすべて羽毛田になすりつけている。これではルールを破った者が咎めた担当責任者を処分するという、社会の規範やルールが成り立たなくなる。道義が地に落ちると社会は乱れる。天皇を政治的に利用しようとした者たちが、反対派を処分するという恐怖政治が行なわれると、怯懦、卑劣が蔓延してこの国はダメになる。天皇会見事件の問題の所在は天皇の政治的利用であるが、事件の背景は象徴天皇といいながらも「天皇は執政せず」の伝統がある国で、「天皇と政治はいまも密接にかかわっている」のが本音である、それが明言できないので「まことにデリケートな問題で」というあやふやな表現になるのである。つまり本音と建前があり、日本国民はこの国で一番エライ(元首より上)のは天皇と思っているし、外国もそのように理解しているということが、明らかとなったのが、今回のドタバタ劇のなるものなのだろう。

職業はプロレスラー

   「リチャード・キンブル。職業、医師」というナレーションで始まるTV「逃亡者」のモデルとなったサム・シェパード。無実となって45歳で選んだ職業はなんとプロレスラーだった。

  1954年の独立記念日、オハイオ州クリープランド郊外のエリー湖に面した高級住宅地で殺人事件が起こった。被害者は医師の妻マリリン・シェパード。事件は偏見に満ちたマスコミの過熱報道によって、証拠は不十分だったにも関わらず、夫のサム・シェパード(1923-1970)は殺人罪で有罪となった。再審請求は何度も却下されたが、12年後の1966年、連邦裁判所は有罪判決を破棄した。無罪となったサムが選んだ第二の人生は、なんとプロレスラーだった。逆境の際には肉体を駆使することがいいそうな。「医師になったのは父親に強制されたからで、私にはレスリングなどのスポーツのほうがずっと楽しい」と語る。

倭国の制度を理解することは難しい

   そもそも「天皇制」という言葉は変な言葉で、天皇に制度などもともとなく、それは左翼が使う言葉であり、天皇は国民統合の単なる象徴する言葉だとする声を聞いたことがある。天皇を理解することは日本人にとってまことに難しい問題である。象徴天皇制という言葉はなおさら難しい。広辞苑によれば「日本国憲法の定める天皇制。そこでは天皇は国民統合の象徴であり、国政に関する権能を有しないとされる。」だが憲法において、外国の高官との会見は国事行為として内閣の助言と承認において行われる。本日午前、来日した習近平国家副主席と天皇は20分ばかり懇談されたという。いま、これが天皇の政治的利用にあたるか、あたらないかで論議されている。通常の1ヵ月ルールを守ればなんでもないことなのだが、中国の強い要請を受けて小沢一郎が強権を発動させて会見実現を無理やりさせたから話はややこしくなった。話は宮内庁の羽毛田信吾の辞任問題にまで波及している。小沢一郎が権勢を誇示する目的で天皇会見がなされたことは明白であるが、時の権勢家に回りは逆らえないのだろう。民主と自民の論議が天皇を巻き込んだ形で国民の前で晒されこと自体が、天皇の政治的利用にあたるように思える。もはや政治家たちには天皇への敬愛の念よりも政争の具として利用するしか頭に無い輩である。この論議はたいへんに恐ろしい内容をふくんでいる。現天皇制は国民主権の基盤に立つもので、戦前の天壌無窮のものではなく、国民の意思によって改廃される可能性をもっている。天皇は統治者でもなく、行政権もなく、また拒否権もない、国家を外に向かって代表する権能も持たないので、元首の性格もない。象徴天皇とはさまざまな解釈で諸外国や国内の政治家がその権威を利用しようと企んでいる存在であるので、若い人々の間から本当に皇室が日本にとって必要であるのかどうかという意見までも出かねないものである。天皇の古語を「すめらみこと」という。このほうが実は解り易い。その意味は「統べる」、統合する「みこと」または「きみ」の義と解される。諸氏族を統合する「みこと」がすめらみことなのだ。2世紀の終りごろ倭国に大乱があり、邪馬台国の卑弥呼が新しい国の王となった。これをもって畿内および北九州両文化圏の統合と解され、ここに天皇またはその前身の成立が認められる。「魏志倭人伝」には「鬼道を事としてよく衆をまどわす」とあるのは、卑弥呼が神、ことに祖先神に仕える巫女であり、神の宣託を得てこれを宣旨することにより国を支配することを意味する。しかし実際に政治を行なうのは卑弥呼のその弟であった。その後、5~6世紀でも、「天皇は執政せず」との伝統は依然として守られていた。大臣、大連が執政の任にあたった。大化の改新以後平安時代中期まで「天皇は執政せず」の先例はいききていた。戦国、江戸時代も天皇に留保されていたのは改暦および改元の権くらいであった。江戸時代の後半期になると、尊王論が興隆し、積極的に天皇の親政あるべしと主張する者が現われ、大政奉還が断行された。明治になって日本は天皇を君主とする集権的絶対主義国家となった。やがて国会は開設され、憲法が制定されと、立憲制と天皇制とをどう調和させるかが問題となってきた。昭和になり、天皇の権力ないし権威の絶対性を理論的に保持しようと軍国主義的ファシズムが支配するようになり、日本は国家として破滅した。昭和20年には敗戦により、天皇制の廃止論も一部にはあったが、日本国憲法は天皇主権、神権主義を否定しつつも、天皇という世襲的機関はまったく政治的権力をもたない儀礼的役割をもつものとして認めることにした。しかしながら、いつの時代にも天皇の権威を利用しようとする政治家はでてくる。蘇我入鹿、弓削道鏡、平清盛、岩倉具視。天皇会見にこだわった大国中国も天皇の権威が政治的にみて必要だったからであろう。日本歴史を戦後の象徴天皇からみるのではなく、上代史からみても天皇の問題ぬきには語れない。それにしても小沢幹事長の権勢たるや平清盛のような栄華ぶりである。おごれる平家久しからず。

2009年12月14日 (月)

鬼火の妖精

    小雨の降る闇夜に空中を浮遊する怪火を鬼火とか幽霊火などと呼ぶらしい。死んだ人間の魂といわれ、世界中にみられる現象だ。日本では、青色は人魂(ひとだま)、暗紅色は狢火(むじなび)、淡紅色は狐火(きつねび)という。フランスでは悪魔が操る火の玉で「フォレー」(鬼火)という。この悪魔はいたずら好きで、人を道に迷わせたり、同じところをぐるぐる回らせたり、または群れをなして町に現われ、人を驚かせて喜ぶという。ジョルジュ・サンドの小説「愛の妖精」(プチット・ファデット)にも出てくる。野性の少女ファデットは、その名のとおり「ファデー」(妖精)に由来する。少し悪戯気のある女の小鬼というイメージだろう。村人がこの娘を見るとあのフォレーを見るような気がする。「やせっぽちで、髪の毛を振り乱して、とてもおしゃべりで、憎まれ口をよく言い、蝶々のようにお転婆で、駒鳥のように詮索好きで、こおろぎのように色が黒い」とある。

塚原卜伝の無手勝流

    塚原卜伝が生まれたのは延徳元年(1489)だといわれている。実父卜部覚賢、養父塚原安重に参籠すること1000日、悟りを開き、自分の流儀を新当流と名づけた。これはそのころ卜伝が諸国をめぐり修業していたときの話。ところは琵琶湖という。

   江州矢走の渡しで渡し船に乗った。乗合の者が5、6人いたが、その中に背の高い髭の濃い、いかつい浪人がいた。「天下をめぐり歩いているが大した奴はおらぬ。まずおれに敵う者はおるまい」と自慢たらたら。卜伝は知らん顔をして居眠りをしている風をしていたが、余りにその男が広言をするので、つい口がでた。「いやいろいろと珍しい話を承ったが、どうしても合点のゆかぬことがある。いつも、人に勝とうなどと思ったことはない。ただ負けないように工夫してきたばかりだ。貴公とは少々、考えが違うな」対手の武士は、冷笑して、「ふん、貴公一体、何流を学んだ」「ただ人に負けぬための流儀、無手勝流とでも申そうか」「無手勝流?ふん、それなら刀はいるまい、腰の両刀は何のために差しているのだ」「この両刀は、我意増長の鋒を切り、悪念邪心の芽を断つためのものだ」「ほざいたな。では、おれとお主と試合してみよう。お主、刀を使わずに勝てるか」「さよう、わしの心の剣は活人剣だが、悪い奴に出会った時には殺人剣になるかも知れぬ」まるでからかほれているような具合になったので、かの浪人大いに怒って、「よし、見事おれをたおす殺人剣になり得るか、陸に上がって勝負しよう」にと怒鳴る。

   卜伝は少しも騒がず、船頭に向かって、「あちらの岸は人の往来が多く、怪我でもさせてはいけない。それよりもあそこに見える小さな離れ島に船をつけるがよい。あそこで勝負をしよう」と、船を川の中の小島に着けさせた。浪人はひらりと岸に飛び乗り、三尺八寸の太刀をひき抜いて、「いざ、真っ二つにしてくれる。早く上がってこい」と、わめき立てる。卜伝は仔細らしく、「ま、慌てるな、無手勝流は心を静かに保たねばならぬのだ」といい、袴の裾を高くはさみ上げ、両刀を脱して船頭に向かい、「さ、この両刀は持っていてくれ、その代わり、その棹をかしてくれ」と、棹をうけとって、舷に立ち、水棹で岸にひらりと飛ぶような恰好をしたが、そのまま、棹をつき立てて船を岸から押し離してしまった。浪人は驚いて、「こら、何をする。早く上がって来い」と怒鳴るのに、卜伝は、「ま、御免こうむろう。口惜しいければ泳いでくるがよい。どうじゃ、これが無手勝流というものじゃよ」と大笑し、そのまま船を動かして川の対岸に着けてしまったという。

2009年12月13日 (日)

日はまた昇る

    12月7日の福岡国際マラソン。ツェガエ・ケべデの優勝は当然のことながら、日本人選手が8位以内に入れなかったのは福岡国際でも初めてのこと。日本選手トップが往年の名ランナー・寺沢徹の記録並みの2時間15分を切るタイムだった。寺沢、君原、円谷といえば東京オリンピックの三選手。東京五輪の円谷幸吉の活躍により、君原健二、宗兄弟、瀬古利彦、中山竹通、谷口浩美、森下広一と続き、マラソン王国日本が築かれたといってよい。あれから46年後、落日をみた思いがする。

    思えば円谷の自殺は昭和43年1月9日だった。昭和58年9月4日にはバレーボールの名セッターの猫田勝敏が胃癌で亡くなっている。そして同年10月14日、女子ハードルの依田郁子が自殺している。平成5年には柔道の神永昭夫が、平成13年には猪熊功が亡くなっている。そして平成19年に水泳の木原美知子が、平成21年に体操の遠藤幸雄が亡くなった。東京オリンピックのスポーツ・ヒーローたちの訃報に接するたびに「もう走れません」と遺書を残して死んでいった円谷幸吉を思い出す。マラソンはオリンピックの花である。いつの日か再び日本のマラソン王国復活を夢みている。

流行語とビジネス産業

    平成21年も過ぎようとしている。今年の漢字は「新」、ユーキャン新語・流行語大賞が「政権交代」だという。なんだか当たり前すぎてつまらない気がする。毎年恒例でだんだんとマンネリ化しているのだろう。昔の流行語には味があった。伴淳の「アジャパー」やイヤミの「シェー!」など。普通に言ったのでは面白くない。独特の抑揚をつけて、身ぶり、目線などトータルな表現力が要求される高度なギャグだった。また無思想性、なんら主張していない点がよい。「政権交代」は実に汚れた政治用語で流行語大賞という選考委員のセンスを疑いたくなる。高度なセンスとは芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」のように何らメッセージ性がないものである。メッセージ性のある流行語を選ぶとキャンペーンや宣伝に利用される。プロパガンダの恐ろしさを人々は気がつかなくなった。そういえば平成という年号もいたずらに年を重ねただけでいかにつまらない時代であるか、流行語大賞を並べてみればわかる。オヤジギャル、僕は死にましぇーん、Jリーグ、イチロー効果、同情するならカネをくれ、無党派、がんばろうKOBE、自分で自分をほめたい、メークドラマ、友愛、失楽園する、ハマの大魔神、凡人軍人変人、ブッチホン、リベンジ、おっはー、ワタシ的には…、米百俵、聖域なき改革恐れず怯まず捉われず骨太の方針、ブロードバンド、ヤだねったらヤだね、Godzilla 、なんでだろう~、年収300万円、チョー気持いい、気合だー!、萌え~、品格、どげんかせんといかん、どんだけぇ~、ハニカミ王子、グ~、アラフォーなどなど、いろいろ流行語を並べてみても心に残るものが無い。それは自分が年をとっているからかもしれない。20代の人にとっては10年前の流行語がとても懐かしく聞えるものなのかもしれない。 今日の朝日新聞に「平成において出現した俳人は誰であるのか」という問いに、越智友亮(平成3年生まれ)、中本真人(昭和56年生まれ)、関悦史(昭和44年生まれ)の名前があがっていた。三人とも俳句の世界では有望新人なのだろうが、一般的にはまだまだ知名度は低い。(昭和37年生まれの黛まどかは若手ではないのだろうか?)俳句を趣味にする人は多いが職業とする人は少ない。俳句で金を稼ぐことはむずかしいだろう。また俳句の結社や家元制度のようなところも若い人に嫌われるのだろう。俳句にかぎらず、絵画、音楽、舞踊、詩すべての分野で若い才能が十分に発揮できるような社会的環境がつくれないだろうか。芸術大学やカルチャー教室は多いが、ビジネス産業化しているように思う。漢字検定とか坂本龍馬幕末維新歴史検定とか、すべて裏で金もうけのビジネスとなっていることが平成という時代の特色かもしれない。神戸で三国志検定、芦屋で村上春樹検定、赤穂で忠臣蔵検定と自治体も盛んだ。

女の歴史

    成瀬巳喜男の「女の歴史」を見た。高峰秀子が戦前に深川の材木商の息子と結婚するが、夫は戦死し、女手ひとり息子を大学まで行かせる。息子はキャバレーの女と子どもをつくり、自動車事故で死ぬ。キャバレーの女はまじめな女で孫と三人生きていくというストーリー。平凡だが昭和史が描けているように感じる。映画公開当時、テレビのためにどれほどの観客がこの映画を観たかわからないが、50年近く経て、上質のドラマであることを知る。ところでNHKの朝ドラ「ウェルかめ」がさっぱり盛り上がらない。浜本波美(倉科カナ)は徳島発の情報誌を発行するゾメキトキメキ出版の編集員。ロボット工学を専攻する山田勝之新(大東俊介)、幼なじみの漁師の一平(武田航平)、イラストレーターの佐古(長塚圭史)など波美をとりまく男性も多才な顔ぶれだが、いまひとつヒロインのトキメキが伝わらない。かつての朝ドラには「おはなはん」「おしん」のような明治・大正・昭和を生きた女の歴史があった。一人の女性の生きたドラマに多くの女性が共感し、涙した。平成になって父母、祖父・祖母の生きた時代には無関心になってきたのだろう。明るく健気というヒロイン像は前作「つばさ」と同じで、場所と職業を変えただけのつくり話にすぎない。また地域おこしのご当地ドラマも嫌味に見えてくる。経済効果などというドラマづくりとは無縁のものをそぎ落として、もう一度人間ドラマを見据えた脚本、演出を心がけてほしい。

2009年12月12日 (土)

木村長門守重成

    大坂夏の陣。木村重成(1595-1615)は最後の出陣の前日から食を断った。妻の尾花はこれを心配し、「心臆せられて食ものどを通らぬか」と問えば、「否とよ。戦死の際に身より汚物の出ずるは武士の恥辱なり」と答う。尾花は夫の覚悟のほどを知り、夫の心残りなきようにと心事を書き残し、十八才を一期としてみごと自害し、夫の出陣を励ました。重成は大坂城中に聞えた美丈夫、緋縅の大鎧に鍬形打ったる兜をいただいた姿はまことに絵にかいたようであった。敵の豪将井伊直孝の軍中に討ち入り、ついに浪速の花と散った。首実験の際、名香伽羅の匂の漂うに家康もいたく感嘆し、これぞ天晴れ日本武士道の花ぞと褒めそやした。

臼田亜浪秀句

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家をめぐりて今年の夕日おくるなり

    気忙しい大晦日もいま暮れんとしている。部屋も拭掃除されてすっかり片付いた。庭も清く掃かれて塵ひとつない。家はすべても新年を迎えるばかりになっている。おだやかな夕日は硝子戸を赤く照らし、庭を染めていま西へ沈もうとしている。作者は恙なかりし今年わ喜ぶとともに、来る春を迎えんとするのである。

    臼田亜浪(1879-1951)は季語・定型を守りつつ、生活的情感の自由表現を目指した。伊沢元美は「亜浪はホトトギス派と新傾向派の中間を行くといった風がある」と評した。大正・昭和戦前期は俳壇といえばホトトギスであった。反ホトトギスの亜浪はその意味では俳壇の外の人であった。今日、もっと評価されていい俳人であろう。

郭公や何処までゆかば人に逢はむ

流れ消ゆ雲かよ野路の閑古鳥

ふるさとは山路がかりに秋の暮

ゆく雲の心を誘ふ暮の春

墓起す一念草をむしるなり

氷挽く音こきこきと杉間かな

鵯のそれきり鳴かず雪の暮

外人部隊の白い服

    「♪ここは地の果てアルジェリアどうせカスバの夜に咲く酒場の女のうす情け」という変な歌謡曲があった。どうやら戦前の洋画をイメージしたものらしい。「外人部隊」という古いフランス映画がある。シャルル・スパーク(1903-1975)という若い脚本家はジャック・フェーデやジュリアン・デュヴィヴィエと組んで1933年ころから活動をはじめた。「外人部隊」では女のために借金をした男が外人部隊に入り、絶望の果てに死んでいく。「地の果てを行く」は外人部隊に落ちぶれた犯罪者と賞金稼ぎの話。このほか、フェーデとの「女だけの都」「ミモザ館」、デュヴィヴィエとは「我等の仲間」、ジャン・ルノワールとの「大いなる幻影」などの100本以上のシナリオを手がけている。シャルル・スパークほど映画史の残る名作シナリオを残した脚本家はいないだろう。なお「太陽の下の18才」などのイタリアの青春スター、カトリーヌ・スパークはシャルル・スパークの娘である。

2009年12月11日 (金)

厄年、厄払い

   みくじ本にんじん刻むそばで読み

   来年の暦書が売られている。九星による運勢判断がある。生年により、一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星に分けられる。また厄年と言って、その年齢になると厄難に遭うおそれが多いとされることから、身を慎む風習が日本にはむかしからある。地方によって違いがみられるが、一般的に厄年にあたる年齢は下記のとおり。

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   なかでも、男性の42歳は「死に」に、女性の33歳は「さんざん」につながる大厄といわれる。大厄は前厄、本厄、後厄と3年間続くとされ、その厄難を避けるため厄除け祈願を行う風習がある。たとえば、神社に参拝したときに、普段使用している櫛やタオルをわざと落として厄と一緒に捨てる、という風習も地方によってある。節分に厄年の人が豆をまくのも厄払いのひとつである。また厄払いの風習に、本厄の正月に親戚を招いて行う、厄落としの宴というものがある。厄年は平安時代の貴族にも強く意識されたようで、『拾芥抄』によれば、13、25、37、49、61、85、99歳となっている。男女の厄年については、古来いろいろあり、確定的なものではない。『水鏡』序には、33、73歳も厄年としている。『源氏物語』「薄雲」巻で藤壺が37の厄年で崩ぜられ、「若菜」下巻では、「ことしは、三十七にぞなり給ふ。…さるべき御祈りなど常よりもとりわきて、今年は、つつしみ給へ」と紫上の三十七歳の厄年に対する源氏の心遣いがみえている。厄年の一年は身を慎むと同時に、祓や祈祷によって、災厄をまぬがれようとした。

   来年の大厄は男子は昭和44年生まれ、女子は昭和53年生まれである。ただし厄年の数え方は、月の満ち欠けで暦を作っていた陰暦の時代のものなので、数え年を用いる。つまり生まれた年を1歳として、新年になるたびに1歳ずつ加えて数える年齢である。また2月の節分以前に生まれた人は、その前年に生きた人と同じ本命星(九星)となる。

恐怖のメロディ

   1930年代はじめ、ダミアの訴えるがごとく泣くがごとく、もの哀しい歌声がラジオを通じて世界に流れていた。それは迫りくる世界大戦の不安を反映するように暗く、悲しく心にひびき、人々は彼女を「シャンソン・レアリスト」と呼んだ。そして1932年、ダミアが歌う「暗い日曜日」がラジオから流れた。ハンガリーのブダペストでは青年がこの曲を聞いたとたんピストルをとりだして、こめかみを撃って自殺した。ニューヨークでは美人タイピストが自分のアパートでガス自殺をした。遺書には葬式のとき「暗い日曜日」を演奏してほしいと書いてあった。それから数日後には、ベルリンで若い店員が首をつって自殺をした。その足もとには「暗い日曜日」の楽譜が落ちていた。80歳の老人がこの曲をかけながら、7階から飛び降り自殺をし、14歳の少女が、この曲の楽譜を手にしたまま、川にとびこんで死んだ。この曲のために少なくとも100人以上の人が自殺したといわれている。その後も自殺者の数は増えるばかりなので、世界中の放送局では「暗い日曜日」を放送することを禁止するようになった。だが、それからまもなくあの悲惨な第二次大戦が始まったのである。

2009年12月10日 (木)

アン王女とジョーの再会

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 ジョージ・スティーブンス監督(右)を祝う式典でオードリーとペックの再会があった

    1951年に渡米したオードリー・ヘプバーンは女流作家コレットに認められて舞台「ジジ」の主役を演じることになった。翌年「ジジ」を見たウィリアム・ワイラーが新作「ローマの休日」のヒロインに選んだ。相手役にはケーリー・グラントを考えたが、無名の新人女優だったので、ケーリーは断わった。当時グレゴリー・ペックは若い頃ニューヨークの劇団員時代に知り合ったヘア・ドレッサー、グレタ・クッコネンとの離婚が成立し、フランス人記者のヴェロニク・パッサーニと恋愛中だったので、ロケ地がローマと聞いて引き受けた。1952年の夏の暑い盛りにロケが行われ、翌年映画は公開された。予想外の大ヒットでこの映画1本でオードリーは世界のスターとなった。オードリーはイギリス人との結婚のため花嫁衣裳まで用意していたが、婚約は破棄せざるをえなかった。共演のペックから紹介されたメル・フェラーと、舞台「オンディーヌ」で共演する。その後、ペックとオードリーの映画での共演は一度もなかった。

映画はアイデア勝負!!「電送人間」

    東宝特撮映画、液体人間、ガス人間、そして電送人間と続くシリーズ。「電送人間」(昭和35年)は主演が鶴田浩二だが、本当の主役は完全に中丸忠雄だ。太平洋戦争末期に殺された須藤兵長(中丸忠雄)が河津清三郎らに復讐する。電送写真というのは昔からあるが、物質電送機というアイデアで映画にした作品は珍しい。タイムマシンに近いものであろうか。電送機を発明した仁木博士を演ずるのは、佐々木孝丸。この俳優は労働組合などで昔歌った革命歌・インターナショナルを訳詩した人である。警察の部長に横綱若乃花が出演している。ところで鶴田浩二主演のテレビ「新選組」では中丸忠雄は佐々木只三郎という見廻り役の頭として出演している。電送人間の仕組みはともかく、ラストシーンで仁木博士がレバーを引くと、火山が大爆発をおこす原理は謎だ。あれが本当なら火山大爆発機のほうがスケールがでかいのではないか。

張良の仙人志願

    留侯張良は、漢室創業なるや、病と称して引退し、食事をしない。張良が言うには、「わたしの家は代々韓の宰相であったが、秦のため亡ぼされたので、仇討をすることができた。かくして今は舌先三寸をもって帝王の軍師となり、一万戸の封地を拝領して列侯になっている。平民にとって、これ以上の栄達はない。あとは俗世を捨てて、赤松子のように仙界で遊びたい」と。赤松子とは神農時代の仙人だそうだが、詳しいことはわからない。水玉という水晶からつくる妙薬で体を鍛えたのち、炎に身を投じ、全身を焼きつくして神仙となった。さらに崑崙山で修行をかさねた。炎帝(神農)の末娘が赤松子を追ってきたので、娘にも水晶を飲ませて尸解を施し、2人は天に昇っていった。張良は栄達を遂げた人のお手本のような人物だ。

新選組テレビヒーロー全員集合

    鶴田浩二・近藤勇の「新選組」を毎日見ている。昨日第七話は、藤岡重慶ら4人が新選組に加入したが、その中の北原健介(石田信之)が主役の話。(石田は芸名を延之と改名)浪士が祇園の民家に潜入し、人質をとって立てこもっている。藤岡は手柄をあせって、町民2人もまきぞえにして、浪士3人を斬る。そして石田にその責任をおわす。女中の四方正美(チャコちゃんのお姉さん)の通報により、藤岡の悪事がばれる。近藤は藤岡を斬る。

    このシリーズの「新選組血風録」「燃えよ剣」と大きく異なる点は、前2作は司馬遼太郎の原作にもとづくが、今回は結束信二のオリジナル脚本。結束もかなり新選組の史実を調べ上げて脚本を書き上げているのはわかるが、やはり前作と比べて見劣りがする。ドラマは歴史物なので歴史的、時間的進行が必要だろう。それと近藤勇の人間像にどれだけ迫れるかが焦点となる。やはりスター鶴田浩二のカッコよさが目立ちすぎという印象があることは否めない事実である。心やさしき近藤と厳格な土方の対立。菅原文太が芸者幾松に匿われていたとき、見逃した温情、鉄砲導入に反対し、鳥羽伏見の戦いでの敗北の原因をつくったことなど、ドラマから見ると近藤が本当に薩長を撲滅する風はみえず、時代のニヒリストのように感ぜられる。その静かな主役に比べ脇役陣の賑やかなること。仮面ライダーの藤岡弘、無用之介の伊吹吾郎、白馬童子の山城新伍、月曜日の男JJの待田京介、ミラーマンの石田信之、おれは大物の長谷川明男、37階の男の中丸忠雄。おまけにキイハンターのユミちゃん大川栄子が毎回登場している。まるでTVヒーロー大集合のお祭り新選組だ。

2009年12月 9日 (水)

イケメンと色男の違いは?

   来年のカレンダーがお店にたくさん並んでいる。みると若い男性スターが多い。小栗旬、上地雄輔、向井理、三浦春馬、岡田将生、溝端淳平、山本裕典、山田涼介、木村了、中村蒼、中山優馬、瀬戸康史、村井良大、加藤和樹、大東俊介、板坂桃季、神木隆之介、井上正大、平岡裕太など。イケメンブームだ。もちろん長谷川一夫の時代から色男の役者はいた。色男とイケメンとの違いは何か。「現代用語の基礎知識2002」には、イケメンとは「いけてる男。英語のmenと面とを合わせて言う」とある。色男との違いはわからない。江戸時代、色を売る男を「かげま」(陰間)といった。八幡太郎義家の愛童に、鎌倉権五郎景政という美少年がいて、「景政」の名から「かげま」が生まれた。忠臣蔵の話で色男の岡野金右衛門が吉良邸の奥女中のお艶という年増女に見初められ、絵図面を持ち出しに成功する。だが岡野金右衛門は武士として心中苦しむ場面がある。「かげま」にしろ、色男にしろ、うしろめたさがあった。それが社会全体で「色男あり」と認知された状況がイケメンブームの背景にある。先日、NHK歌謡コンサートを見ていたら、この番組一番の盛り上がりを見せたのは、女性ベテラン歌手と北川大介、竹島宏、山内恵介らイケメンスリーのデュエットである。大月みやこ、小林幸子、伍代夏子らの熟女が若手男性歌手をリードするところが大いに面白い。

2009年12月 8日 (火)

透明人間

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    映画「透明人間」は「ゴジラ」(昭和29年)に次ぐ東宝特撮SF作品である。お話は旧日本軍の特殊部隊「透明人間特攻隊」はサイパン島で玉砕を遂げたが、そのうちの2人だけは助かって帰還していた。この透明人間は一度透明人間になってしまうと、元に戻ることができない。キャバレー黒船のサンドウィッチマンのピエロが透明人間(河津清三郎)である。ともかく昭和30年頃の東京の風景はアーカイブものの珍品である。街頭テレビ、ナイトクラブのショー、路面電車、トラックの荷台に乗った大勢の警官たち、スクーター、競馬場、すべてが戦後風俗の貴重な昭和の記録。盲目の美少女を演ずるのは、なんと童謡歌手の近藤圭子ちゃん。(なつかしい~)映画が大人向けなのか子ども向けなのか定まってなかったようだ。

鐘捲自斎と伊藤一刀斎

    鐘捲自斎通家は遠州秋葉に生まれ、越前に住した。自斎は中条流から出て、外他流を開いた達人で、外他通家とも称し、門人には伊藤一刀斎、佐々木小次郎らがいる。一刀斎がまだ10代の頃、弥五郎と称して自斎の下で5年ほど修行をしていたときの話である。

    弥五郎は自斎から学ぶべきことはすべて学びとってしまったので、自斎に向かって、「私はもはや、外他流の妙味を会得したように思いますゆえ、お暇をいただきます」といった。「思い上がりも甚だしい。弱年の身で何をいうか、わしと立ち合ってみよう」と自斎は木刀をとって庭に下りた。自斎は一刀のもとに打ち据え、その慢心をうち砕くいてやろうと思った。ところが逆であった。弥五郎は見事に自斎を打ち込んだ。自斎はうめいた。しかし、どうしても解せなかった。「わしは諸国をめぐって、多くの武芸者と試合をして来たが、いまだに敗れたことはない。しかし今その方と立ち合って、確かに負けた。その方はいつ、この妙技を会得したのか」弥五郎は言った。「人は眠っている時でも足がかゆいのに間違って頭の方をかくことはありません。足がかゆければ足をかき、頭がかゆければ頭をかきます。つまり、人間には機能が働いていて、自ずと防衛するようにできています。その原理を働かそうと考えたのです。」自斎は秘伝をすべて弥五郎に授けた。

   伊藤一刀斎開眼の秘話はまるで星飛雄馬が大リーグボール1号を生んだときに似ている。野球とは関係のない、ボクシングや剣道、射撃を体験し、はては「打たれて結構、もう一歩進んで打ってもらう」という禅寺の和尚の言葉で魔球のヒントをつかんだ。諸芸相通ずるものがあるように思える。

2009年12月 6日 (日)

世界十大思想家

   「すべての人はプラトン主義者か、さもなければ、アリストテレス主義者である」ということばがある。プラトンのようにイデアにあこがれる理想主義者か、アリストテレスのような現実を重視する現実主義者か、人はこのいずれかのタイプに属しているという意味であるらしい。プラトンも偉大な哲学者だったけれども、アリストテレスもまたさらに偉大であったといわざるをえない。偉大な哲学者を10人選ぶとすれば誰か?プラトン、アリストテレス、孔子はまず確実としてあと7人。むかし中央公論者社から「世界の名著」というシリーズ物が刊行された。実はケペルはその中の1冊もまともに読んでいない。裏を返せばこれから読める楽しみが残されている。今、どれを読もうかと思案している。孔子、孟子、老子、荘子、ヘロドトス、ツキュディデス、司馬遷、聖書、キケロ、エピクテトス、マルクス・アウレリウス、アウグスティヌス、マキアヴェリ、エラスムス、トマス・モア、ルター、モンテーニュ、ガリレオ、ホイヘンス、デカルト、ホッブス、パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ニュートン、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベール、ルソー、アダム・スミス、カント、フランクリン、ジェファーソン、ハミルトン、マディソン、トックヴィル、パーク、マルサス、ヘーゲル、コント、スペンサー、ミシュレ、ベンサム、ジョン・スチュワート・ミル、ダーウィン、キルケゴール、ラスキン、モリス、プルードン、バクーニン、クロポトキン、マルクス、エンゲルス、ブルクハルト、ニーチェ、デュルケーム、ジンメル、パース、ジェームズ、デューイ、レーニン、ベルグソン、マイネッケ、ホイジンガ、オルテガ・イ・ガゼー、マンハイム、ケインズ、ホワイトヘッド、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、レヴィ・ストロース、バジョット、ラスキ、マッキーヴァー、トインビー、ハイデッガー、孫文、毛沢東。この中から7人を選ぶのは大変である。ケペルが選ぶとすれば、デカルト、ニュートン、ルソー、カント、ダーウィン、マルクス、ニーチェに孔子、プラトン、アリストテレスを加えた10人であろうか。アメリカの「有名人年鑑ハンドブック」によると、孔子、プラトン、アリストテレス、トマス・アキナス、コペルニクス、フランシス・ベーコン、ニュートン、ヴォルテール、カント、ダーウィンであった。

2009年12月 4日 (金)

とても魅力的な黒川雪

   本日の朝日新聞をめくると「少年ジャンプ」の全面広告が9面にわたりあったので驚いた。批判的なことを書くつもりはない。新聞経営が相当に苦しく広告収入にたよるしかないのだろう。いろいろな意味で記事だけではなく、紙面は現状を反映している。記事の配置や大きさなどでもデスクの裁量や主観が現われる。ウェブの情報ではそういう主観が入る余地は無い。いいことか悪いことか、どちらにしても紙情報は衰退の方向へ確実に進む。マンガもネットで配信しているらしい。でも「少年ジャンプ」はよく売れているらしい。ケペルは「少年マガジン」を読み出した。最初、少年雑誌の表紙に水着の女性があるのは抵抗感があった。しかし、現代を知る手がかりのため読んでみた。流石景「GEグッドエンディング」は萌え系の漫画のように見えた。しかし仔細に見ていくと、内海という内気な青年が恋愛を通じて人間的に成長していく過程がリアルに描かれている。内海が憧れている晶先輩よりも、ヒロインは黒川雪のようである。黒川の男っぽい口調と可愛いしぐさのアンバランスがよい。とくに注目すべきは、構図であり人物のしなやかな姿態描写である。その画力たるや鳥羽僧正や画狂人北斎にならぶべきものである。弘前出身の女性新人画家・流石景は、男子漫画界に進出した女性漫画家として注目されるであろう。やはり女性特有の細やかな内面、ストーリーの展開など並みの純愛小説では及ばないものである。肉食系男子はわからないが、草食系男子が好む漫画であることはうけあいである。

鶏口牛后

    就活戦線は厳しい。一流企業、大企業をめざすのは人の常だろう。そんなとき、「むしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ」(戦国策)という言葉は、よく引き合いにだされる故事成語であろう。「大きいものの後についていくより、小さいものでもその頭になれ」と一般に理解されている。だが中国語では「牛后」であり、「牛後」(牛のうしろ)ではない。牛のお尻でもない。「后」の漢字本来の字形は人が両足を開いた股の下に、「口(あな)」をそえた字である。つまり「牛后」とは「牛のお尻の穴」である。いくら牛がでかいとはいえ、牛の肛門に甘んじているバカはない、という意味だ。

   人生を長く歩んで、道半ばで振り返るとき、この言葉はシニアに大きな意味をもつ。多くの庶民は牛後でいいから長年耐え忍んだ生活をし、安定性の代償として独立心、自立心は無くなっている。だが見識や経験は誰にも負けない。もう一度、青年のときの気概を取り戻し、人生に再チャレンジしよう。

2009年12月 3日 (木)

ファースト・ラブ

    年末になるとテレビ番組は恒例の歌謡祭がある。ベストヒット歌謡祭(読売)、FNS歌謡祭(関西)など続けて見る。新しいアーティストや楽曲は知らないが、ずいぶんレベルが向上している。昨夜のFNS歌謡祭は46曲、名曲とコラボと生演奏。EXILE、コブクロ、嵐、スマップ、絢香、平井堅、ゆず、倖田来未など豪華アーチスト。宮本笑里という可愛いバイオリニストも出演していた。目玉は森高千里、槇原敬之、稲垣潤一あたり。郷ひろみ、稲垣らが最年長組だろう。宇多田ヒカル、安室奈美恵、浜崎あゆみ、らはビッグなんだろうか?出演していない。少年マガジンの連載中の流石景「GEグッドエンディング」を見ていたら、エリが「黒川ユキのファースト・ラブは絶品だよ。女のあたしでもうっとりしゃうもーん」というセリフがある。宇多田ヒカルの「ファースト・ラブ」は1999年の曲で10年前だ。今でも高校生の定番の名曲なのだろうか。着メロとかで知っているのだろう。ケペルはもちろん藤圭子の「命預けます」だ。

経塚と末法思想

   経塚とは、仏教の経典を自らの手で書き写し、これと地中に埋納して、未来永劫に保有しようという意図で築造された仏教遺跡のことである。その発祥は、中国では早く6世紀のころに経典を地中に埋納した例がある。入唐僧円仁慈覚も中国で仏教の法難のようすをつぶさに見て帰り、比叡山横川に宝塔を建てて法華経を納めたことがある。これらは経塚行為の端緒であると考えられる。経塚は初め貴族や豪族によって築かれたが、遊行僧によって広められ、11世紀から盛行した。とくに11世紀後半から12世紀にかけて、国内で末法思想到来の実感が人々の間に広まるようになると、経塚はその対策の一つとして、隆盛しはじめた。

   経塚遺物に「末法」の語のみえる最古の例は延久3年(1071年)の銘をもつ、鳥取県大時出土の瓦経である。とくに北九州地方を中心に、次第に全国的な広がりをもって隆盛していった背景には末法思想が大いにあずかっているといえる。そしてそこから弥勒の出世を期して経巻を地中に埋納するという目的が生じているのである。

毛越寺

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  毛越寺は中尊寺とともに平泉における奥州藤原氏の仏教文化を伝える名刹である。嘉祥3年(850年)円仁開基の嘉禅寺に始まり、永久5年(1117年)鳥羽天皇の勅願、藤原基衡本願によって再興されたものである。早く嘉禄2年(1226年)に焼け、のちにまた天正元年(1573年)の兵火にあって、原形をまったく失い、今はわずかに庭園と礎石を残しているだけである。大泉池と呼ばれる苑池を中心に旧伽藍の建物跡礎石を随所にとどめている。池は円隆寺と呼ばれた金堂院の全面にあり、池中央の中島を通して南と北に橋が架け渡されて南大門に通じていた。

    毛越寺には平安時代中葉に興った古代の遊宴歌舞である延年の舞が伝承されており、毎年正月20日の夜中に常行堂において行われる。

2009年12月 2日 (水)

信貴山の毘沙門天信仰

    戦国の武将上杉謙信は毘沙門天を信仰し、「毘」の字を旗印として戦った。日本における毘沙門天信仰は、仏教伝来とともにはじまる。聖徳太子は物部氏との抗争で戦勝祈願のため、小さな四天王像を髪の中にいれて戦って勝利したので、摂津の玉造に四天王寺を建立した。毘沙門天は中世においても武神として深く尊崇された。楠木正成の母親は、立派な男の子を得たいと、信貴山の毘沙門天に祈願をかけて、正成を生み、毘沙門天の武勇にあやかるように、正成の幼名を多聞丸と名づけた。信貴山には毘沙門天を祀った高僧命蓮に関する説話が伝えられている。

    信濃国の僧命蓮は、法師となり、奈良の東大寺で受戒をうけたのち、信貴山に登った。山には毘沙門天像を安置した堂があるだけであった。そこで命蓮は12年間、庵室にこもって修業した。そのころ醍醐天皇の病が篤く、僧たちが祈りや修法などいろいろつくしたが、少しも効があらわれない。不思議な霊力のある僧が信貴山にいると聞いた蔵人が命蓮に会い、祈願をお願いした。すると、祈りの効きめによって、帝は快くなられるという奇跡がおきる。そのほうびとして僧都、僧正という高い位を上げよう、また寺には荘などを寄贈しようと告げたが、命蓮はどちらもかえって煩わしさが加わるだけだと、強く辞退した。やがて姉の尼公が命蓮に会いに信貴山へやって来た。尼公は「たい」(袈裟の一種。読経などのときに身につける)を持参して二人は劇的な再会をする。

自殺防止対策を急げ

    昨夜のNHKのテレビ。クローズアップ現代で「自殺と闘う注目の戦略とは」というテーマでイギリスの現状を報告。日本でもとくに中高年ら自殺者が増加している。早めに発見することが必要だ。

    つづいて8時、ガラリと変わって歌謡コンサート。(カレンちゃん、可愛いです!)「ああ涙と酒の人生演歌」出演歌手が一言「人生にはいろいろ嫌なこと、辛いことがある。そんなとき酒をのむのが一番」ナットク。だが、まてよ、先のクローズアップ現代の話と少し違うぞ。酒で憂さを晴らしただけでいいのか、カラオケを歌えば解消できるのか。本日のNHK「生活ほっとモーニング」うつ早期発見。命を守る切り札。最近静岡市では地域ぐるみ自殺防止対策に取り組んでいる。酒屋や薬局で「2週間眠れていますか?」というチラシを配布している。うつと睡眠との関係を重視して、2週間眠れていない日が続いたら危険のサイン。早めに専門医に診てもらうことをすすめている。

    うつは誰にでも起こりうる病気。厚生労働省の調査によれば、約15人に1人が生涯に1回はうつ病を発症するという。うつ病に悩む人が多い一方で、医療機関を受診している人はあまりいないという。うつが起こりやすい年代は働き盛りや高齢者に多い。自殺する人の半数は、背景にうつ病があるという。つまり自殺防止対策には早めにうつ病のサインに気づき、受診につなげることであろう。うつ病が疑われるサインは、以前より元気がない、体調不良の回数が増える、外出することが減った、酒量が増えた、疲れて眠れない、など。うつ病の治療でまず必要なのは、しっかり休養をとり、ストレスをためないこと。酒で辛さをまぎらすのは演歌の世界だけで、しっかり自分のサインに気づくことが大切だ。

2009年12月 1日 (火)

四天王の二態

    四天王像は須弥壇の四隅に本尊を守護するかたちで安置される。右手に三叉戟を持つ持国天が東方を、両手で三叉戟をにぎる増長天が南方を、右手に筆を左手に経巻を持つ広目天が西方を、宝塔を持つ多聞天が北方をそれぞれ固めている。四天王のうち多聞天のみは毘沙門天とよばれ、福徳富貴の神として独自の信仰を得ている。

     持国、増長の二天は激しく相手を威嚇する姿であるが、広目・多聞の二天は、仏の静な叡智がうちに秘めていることを現している。このように仏敵の降伏をちかう四天王の形態には、内面的なものと外面的なものとの二態があるといえる。

恵美押勝と栄山寺八角堂

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    栄山寺(奈良県五条市小島町)は藤原武智麻呂(藤原不比等の子)が養老3年(719年)創建したと伝えられる。本尊は薬師如来で、薬師堂に安置され、天平時代の建築たる単層本かわらぶきの八角堂はその子藤原仲麻呂(恵美押勝)が天平宝宇7~8年頃、亡父母のために造営したものである。小規模な八角円堂で組物も簡素な三斗とし、全体にやや組手で清楚の趣がある。現在の建物は明治に復元されたものである。押勝は孝謙太上天皇の寵臣道鏡を除こうとして764年に反乱をおこしたが、近江で亡ぼされた。

   寺には日本三鐘の一つとして名高い小野道風筆と伝えられる鋳の銘のある銅鐘がある。

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