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2009年11月30日 (月)

小野道風と白氏文集

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  白楽天の詩文集である「白氏文集」は、その在世中に筆写請来された恵蕚(えがく)書写本をはじめとして、早くからわが国に伝来された。そして、10世紀のころには広く愛読されるようになった。当然にように「白氏文集」の揮毫は多くなり数々の名跡を今日に伝えているが、なかでも「三体白氏詩巻」(正木美術館)は小野道風の手にかかる優雅な日本的書風である。

   小野道風(894-966)の詳しい伝記は明らかではないが、藤原佐理、藤原行成と共に三蹟の一人にあげられるが、三蹟の中で最も早く世に出ている。花札に描かれている、柳に飛びつく蛙を、傘をさしてじっと見ている人が小野道風。実はこの逸話は江戸時代につくられたものらしい。

「坂の上の雲」日本人の生き方を考えさせてくれる骨太のドラマだ

   「まことに小さな国が、開化期をむかえようとしている」という有名な書き出しで始まる司馬遼太郎の「坂の上の雲」がついにNHKでドラマ化され、昨夜第一回を見た。日清日露の軍人の生涯を描いた内容のドラマ化には賛否両論の意見がある。朝日新聞「声」の欄にも日露戦争は侵略戦争に繋がるもので美化されることは許されないとする趣旨のものは多い。では過去を反省した反戦ドラマでないとダメなのか。自分は戦前を否定する考えの人たちとは与しない。明治という時代を21世紀を生きるわれわれがどう考えるのか、祖先の歩みをわかりやすい形で映像化して考えることは、ひとつの手がかりとなりうると思う。昨夜のドラマで薪割りのシーンがあった。子ども時代、風呂を沸かすのは子どもの仕事で、薪を割って紙をつけて、たき付け火をつけて、それから燃えだして、風呂に水を汲んだ。それが今ではボタンを押したら風呂が沸く。ボタンを押すとなんでも勝手に機械がやってくれると今の子どもは思っている。はたしてボタンを押すのが進歩だろうか。この150年、都市化は止まらない。地球環境を守れと今頃になって政府は言っているが、国土を破壊したのは昭和という国家だった。サラリーマンが増えたことが最大の悲劇だ。社会やマスコミは大多数のサラリーマンに有利な環境を作っている。農林水産業を見捨てて自活できない国になってしまった。学校へ行って就職するというレール、そんな生き方しかないと日本人みんなが思っている。ドラマでも職業軍人を選んだのは給料が支給されるからだといっていた。福沢諭吉の思想「独立自尊」が背景にある。司馬遼太郎は「明治というのは、あらゆる面で不思議で大きくて、いろんな欠点がありましたが、偉大でしたね。ただ明治時代という時代区分で話さずに、明治国家という、この地球上の、地図の上にはない、1868年から44、45年続いた国家が、この世にあって、できれば他の国のひとびとにも知って欲しいというか、聞いてほしい」と語っている。ドラマの続きを楽しみにしている。そして未来志向で「平成が偉大な時代だった」と100年後の子孫にいわれるようにしたいものである。(ちょっと無理だろうなあ・・・)

ムンフバト・ダバジャルガル

   横綱白鵬が12度目の優勝と年間勝ち星の最多記録を更新した。現在大相撲には34人のモンゴル出身力士が在籍している。だが日本人にとってモンゴルのことをどれぼど知っているのか疑問である。あまりにもモンゴルの情報は少ない。他国の文化を知る第一歩としてモンゴル力士の本名を調べる。名前はその国の文化のひとつと考える。ムンフバト・タバジャルガル(白鵬)、ドルゴルスレン・ダグワドルジ(朝青龍)、ダワーニャム・ビャンバドルジ(日馬富士)、マンガラジャラブ・アナンダ(鶴竜)、アンタンガダス・フチットバータル(時天空)、バダルチ・ダンニャム(朝赤龍)、バトジャルガル・ムンフオソギル(玉鶴)、ダグダンドルジ・ニャマスレン(翔天狼)、ガンボルド・バザルサド(猛虎浪)

   九州場所、幕内力士のモンゴル人対日本人の対戦成績は91勝59敗で、モンゴル勢の圧勝であった。

仏像ブーム

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    仏像ブームだそうだ。お寺で古仏を拝むことはいい。だが最近は、仏様も全国各地に出張して、露な姿にさらされて、お金を稼がされているようで気の毒だ。とくに阿修羅はイケメンが人気をよび、東京国立博物館で94万人もの入場観客数の新記録を作った。それも入館料が1500円なり。(高い!!ぜ)いまは万事が金、金、金の時代だ。来年の平城遷都1300年もどんな経済効果をもくろんでいるのだろうか。

  阿修羅とは梵語「アスラ」で「呼吸」の意味。ペルシアの善神アフラと同義で古くはすぐれた精霊の意味にも用いられたが、のちインドで戦闘を行なう鬼神の一類とみなされるようになり、常にインドラ(帝釈天)と争う闘争的な悪神とされた。仏教では「阿修羅」または「非天」「不端正」として漢訳経典にあり、八部衆の一として仏法を守護する神とされた。とくに興福寺の阿修羅像は知られている。
   光明皇后が亡き母橘三千代のために、その一周忌の天平6年(734年)に造営した西金堂の本尊釈迦三尊像に随侍していた像で、八部衆像中の一帯である。三面六臂の奇怪な姿で、細い蜘蛛手のような六本の腕がある。阿修羅の眉を寄せた憂いの表情には仏の深い愛情がよく表現されている。澄んだ瞳ではるか彼方を凝視する顔には、純真な少年のような親しみが感じられる。仏の真実がこれほど芸術の香気高く表現された例は稀であり、天平芸術の精華が、まさにここにある。

2009年11月29日 (日)

産業革命と女流作家

225pxhannah_more Hannah More

  フランス革命からナポレオン戦争へとヨーロッパの戦乱が続き、イギリス国内には産業革命が進行した。文学の世界ではロマン主義運動が盛んであった。工場と資本主義農場の発達は、婦人たちの生活にも大きな変化が現われた。やがてマリア・エッジワース(1767-1849)、ジェーン・オースチン(1775-1815)、ハンナ・モア(1745-1833)、メリー・ルイーズ・ミットフォード(1787-1855)らのように自ら作家となるほどの教養を積んだ女性が現われる。とくにオースチンほど驚嘆すべき女性作家はおそらくいかなる国の小説史にもいないだろう。夏目漱石が晩年創作の原理とした「則天去私」は、オースチンの小説上に実現されているといわれている。ロマン主義的な女流作家では、アイルランドの因果な地主の搾取を描いた「ラックレント城」(1800年)の作者エッジワースがいる。そのほかオウピ夫人(Mrs.Opie Amelia 1769-1853)、スコットランド人でスコットの友で「結婚」の作者スーザン・フェリア(1782-1854)、また恐怖小説の「フランケンシュタイン」の作者のメアリー・シェリー(1795-1851)がいる。

2009年11月28日 (土)

楓橋夜泊

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月落ち烏啼いて霜天に満つ(張継)

   月は西に没し、烏の啼く声がきこえて、満天霜をはらんで寒さがきびしい

桂樹の冬栄を麗とす(楚辞)

   桂の冬の寒気にもしぼまず青々と栄えるのをうるわしとする

一灯独り寒宵を守る

   一灯に対してさびしく寒い冬を送る

独り残灯を守って断編を理む

   独り夜明の灯に伴うて糸切れた書物を整理する

五更雁を聞き満林の霜

    夜明けに飛雁の声を聞いて霜の林に満ちるを推知する

閑日冬と雖も亦自ら長し(陸遊)

    冬の短き日といえども閑暇なれば長き心地がする

山峰月を染めて寒し(簡文帝)

独り釣す寒江の雪(柳宗元)

寒窓夢成らず(蘇東坡)

霜天酒を煖むる遅し(張宛丘)

冬来りて幽興長し(唐庚)

   冬がきてから殊に物静かなる興趣が深い

書燈茅屋静

   読書する冬の灯火は草屋に於て殊に静かである

山月夜窓寒し

   山より出でた冬の月は夜を照らして寒い

山鐘夜雪の時(鄭城)

   山寺の鐘が鳴るのは丁度夜の雪の降る時である

洋画スターあの人は今

Img_0012 ブランドン・デ・ワイルド

   毎年いまごろになると、年賀状の喪中欠礼の葉書が届くころである。今日も一枚来た。年々知った方が亡くなっていく。
   映画スターも1950年代の作品だと生存している可能性のほうが少ない。やはり男優より女優のほうが長生きするようだ。子役なら生きているだろう。子役といえば、アラン・ラッドの名作西部劇「シェーン」のジョーイ少年が忘れられない。「シェーン、カムバック」と叫ぶ声は永遠に耳に残る。調べてみた。ブランドン・デ・ワイルド(1942-1972)。1972年7月6日夜、コロラド州デンバー市の郊外で交通事故のため死亡していた。享年30歳。事故当夜はデンバー市内の劇場での実演舞台に向かう途中、折りからの豪雨に運転をあやまり、ガードレールに激突、4時間後かつぎ込まれた病院で死亡した。
    舞台監督を父に、女優を母に生まれたブランドンは7歳のとき舞台デビュー、10歳で映画デビュー、翌年「シェーン」(1953年)の名作に出演し、世界中に知られるようになった。その後も「夜の道」(1957)「ゆきすぎた遊び」(1959)「ハッド」(1962)「われらキャロウェイ」(1964)「危険な道」(1965)などで若者らしいひたむきな持ち味で将来が期待されていた。

特高のルーツは御史(ぎょし)

    李朝に実際にあった官職「暗行御史」(アメンオサ)がいまコミックやドラマなどでブームとなっている。地方官の監察を秘密裏に行った国王直属の官吏のことである。ウィキペディアでは「あんこうぎょし」と正しく日本語読みがされているのだが、なぜかコミックでは「あんこうおんし」となっている。もちろんコミックの独自性があるので読み方は作者の自由で許されるのであるが、「御史」という官職は古代中国の伝統を引き継いでいると思われるので、「ぎょし」と読むほうが一般的には素直に理解できると考えている。

    ここで一言申しそえたいのは、韓国の暗行御史は物語の中でだいたい正義のヒーローだそうだが、中国の御史そのものは高官であり、国家権力の中枢を担う職掌である。とくに御史が歴史に登場するのは、有名な秦の始皇帝の焚書坑儒の話の時である。

    方士の侯生と廬生とは、焚書事件の後に夜逃げした。始皇帝はこれを捕えようとしたところ、儒者たちはふたりをかくまったので、御史をして学者を取り調べさせた。学者らは伝え聞いて、次から次へと他人を告げて引き合いに出し、自分だけは罪を逃れようとした。そこで460余人を捕えて、みな咸陽に穴埋めにしたという。有名な史記の焚書坑儒の記述にでてくる御史である。御史は監察を掌る官職であることは、朝鮮、日本でも同じである。図書の検閲などもこの御史が行う。例えていえば、戦前日本の特高(特別高等警察)に似ていないこともない。治安維持法をふりかざし、国体維持の名の下に社会主義、共産主義などあらゆる政治的、思想的自由をふみにじる暗黒政治をおこなう機構である。正義の味方「暗行御史」と悪名高い「特高」のルーツは秦代の「御史」なのである。

2009年11月27日 (金)

人はなぜうらむのか

   本日の朝日新聞から二つの気になる漢語をテーマにする。「怨望」と「里山」。一つ目の「怨望」とはあまり現在ふだん使われないに思うが、由緒正しい漢語で広辞苑にもある。東京大学の苅部直の講演で福沢諭吉「学問のすすめ」をとりあげ、第13篇にある語である。福沢の頃はまだ暗殺が横行した時代で、差別社会に怒りをもって凶行に走る壮士といわれる人も多かった。そんな中にあって、寛容をもつことの大切さをのべたもので、小林秀雄や大江健三郎たちも福沢の「怨望の人間に害あるを論ず」を評価しているという。現代のいじめに通じるものがあるという。苅部は「怨望」をJ・S・ミルの著作から「envy」(嫉妬)を「怨望」と訳したとある。面白い指摘だ。ところで「学問のすすめ」を昔読んだきりで、最初の部分に感動したが、おそらく13篇までに行かなかった。改めて読んでみて、いまの自分の態度に反省すべき点あり、福沢先生に教えられた気がする。福沢は「門閥制度は親の仇なり」とあったので、ある意味で「怨望」の人かと思っていたら、富のある人を社会的に認めているところが、経済界にも福沢が受け入れられた点なのであろう。この13篇をどう評価するかが分岐点になるかもしれない。

  「オージー・ビジット」という明治大学や朝日新聞が主催しているだけに、他の講演も素晴らしい。作家の平野啓一郎、鹿島茂。鹿島茂の古書に関する面白い話を読むと羨ましいかぎりである。怨望ではなくて羨望であろう。鹿島の講演にでてくる中世フランスの王シャルル5世(1337-1380)は、賢明王といわれ、百年戦争でイギリスを国内から退けた王である。趣味が蔵書収集で、写本を1500部所蔵。これが後にすごい貴重な財産となったという。

   二つ目の言葉は「里山」。森林生態学の四手井綱英は1960年代に薪を採取するなど農山村の人々の生活を支える山を「里山」呼び、その意義と保全を提唱した。1991の「広辞苑第四版」では「里山」はなかった。もちろん最新版にはある。「里山」という言葉も近年、国土保全、環境保護から生まれた新語だったのだ。ケペルは「里の秋」という童謡になじんできたので、「里山」という言葉もかなり前から使われているという感じがしていた。

2009年11月26日 (木)

江戸昭和平成の格差社会

    平成不況のためか高級品は売れないご時世だそうだ。それでもよく売れるものもある。宝くじだ。いつみても販売所は行列だ。年末ジャンボ2億円、トト6億円。わが国の宝くじの歴史は江戸の富くじにはじまる。寛永期から始まり元禄期以後盛んになった。最盛期には江戸で33ヵ寺に富くじがあり、なかでも谷中の感応寺は有名である。

 感応寺 いのちからがら 一分すて

    「いのちからがら」とは、群衆にもまれる庶民と箱をゆすって札を交ぜる音を暗示している。富くじは賭博的行為なので天保の改革で禁止された。だが富くじは、敗戦後の資金の調達のため「宝くじ」と改称して復活した。戦後第1回東京復興宝くじが売り出されたのは昭和21年3月10日。そのころの庶民は耐乏生活を強いられていた。筍生活という言葉も流行した。他方、長者は次のとおり。①上原謙150②三門博120③春日井梅鶯④玉川勝太郎108⑤灰田勝彦106(単位:万円)インフレがひどいので150万円といっても現在いくらぐらいか検討もつかない。昭和22年5月に成立した片山哲首相は施政方針演説において国民に耐乏生活を要請した。昭和27年の吉田茂首相も耐乏生活を要請したが、政治家が汚職や収賄ばかりやっていたので国民はあきれていた。鳩山由紀夫首相の2億円を超える偽装献金。何時の世も変わらぬ世の中の有様である。

漢字テスト

次のカタカナの語を漢字に直しなさい。

 ①風景をカンショウする

 ②絵画をカンショウする

 ③事務をカンショウする

 ④政治にカンショウする

 ⑤退職をカンショウする

  *  *  *  *  *  *  *

答え①観賞②鑑賞③管掌④干渉⑤勧奨

2009年11月25日 (水)

漢字とビジネス産業

Img_0015 「礼記」楽記

    朝日新聞夕刊のニッポン人脈が面白い。本日からの新シリーズは「漢字の森深く」。ずいぶん難しい漢字を勉強している若い人がいるものである。「諸橋大漢和」が家にあるという。貧乏なケペルには、とても高価で買えない。代わりに中国で刊行された「漢語大詞典」がある。こちらのほうが語彙は多い。「嫗伏孕鬻」も収録している。「鬻」は「育」と同じ。「鳥や獣が子を産み育てること」出典は「礼記」楽記にある。ところで読み方だが、新聞には「うふうよういく」とあるが「うふくよういく」と素直に読めばいいように思うのだが、「うふうよういく」が正解だそうだ。手許に大漢和がないので確認できないのだが、もともと儒家の経典にある語なので、日本人がどのように読むかは古来からの慣例に従うしかない。漢字検定一級レベルの「四字熟語」問題だそうだが、ひっかけ問題みたいでもある。広辞苑や手許の四字熟語の辞典には見当たらないので、「四字漢語」といったほうが近い。思考するに、エコノミックな日本人は神聖なる儒教の経典の語句やら漢字そのものをビジネス市場化したようで哀しいかぎりである。諸橋轍次がこのような事実を知ったら如何に嘆くことであろうか。だがこのように難しい漢語もおそらく、江戸から明治までは漢学者は、さっと礼記を引きずり出して講釈をしたであろう。もちろん漢字を知っているとかが問題ではなくで、もっと本質的なもの、訓詁学、字句の解釈が問題なのである。今日のような検定試験で知識を競うことにどんな意味があるのか疑問だ。ところがいくら検定料が高額でも希望者は多い。ライセンス社会なのだろう。そもそも漢字を学ぶことは無料でだれでもが使用できるものなので、検定料とか、テキスト代とかを費やすことは愚かしいことである。無料で寺子屋(漢学塾)で学べるような社会にもどればいいと思う。金とかライセンスとか博学を誇示するためでなく、知ることを愛する精神を大切にしたい。

上杉家浪人だった原惣右衛門

    原惣右衛門元辰(1648-1703)は三百石足軽頭で、大石内蔵助、片岡源五右衛門につぎ高禄であり、上方急進派の中心人物だった。

    遠祖は美濃の土岐氏の流れといい、原加賀守昌俊のとき、甲斐の武田信玄に仕えて重んじられた。その子と子孫は、信玄と勝頼に仕えた。しかし勝頼のとき、武田氏は滅亡した。その後、出羽の最上義光の家臣となった。ところが、元和7年、最上家は断絶した。原氏は、米沢の上杉定勝、ついで綱勝に仕えた。この綱勝の妹、富子は吉良上野介義央の正室となる。

    元禄義挙のとき上杉家の家臣のなかに、原氏の一族がいた。しかし、原定辰は定勝の娘が、加賀百万石の支藩、大聖寺七万石の前田利治に嫁したとき、付人となって行って、のちに浪人となった。この定辰の嫡男が、惣右衛門である。原家は戦国悲運の家系であり、いわば旧主家米沢上杉家の近親である吉良義央を討つというめぐり合わせとなったのである。

2009年11月24日 (火)

スターの気になる年齢

 BBの愛称で知られた1950年代のセックス・シンボルであったブリジッド・バルドーは75歳。1974年に引退宣言をし、熱心な動物愛護運動家として知られている。CCの愛称のクラウディア・カルディナーレは71歳でユネスコ親善大使として元気な姿を写真で見た。アラン・ドロン74歳の消息はよくニュースとなるが、ジャン・ポール・ベルモンド76歳は闘病中なのが心配。ケペルは70年代ニューシネマの世代に洋画を見たので、キャサリン・ロス66歳、キャンディス・バーゲン63歳、フェー・ダナウェイ68歳、ジャクリーン・ビセット65歳が気になるが映画出演は無さそうだ。男性ではロバート・レッドフォード73歳、ダスティン・ホフマン72歳、ジョン・ボイド71歳も元気だが、ジャック・ニコルソン72歳が一番大物スターになるとは考えもしなかった。だがクリント・イーストウッド79歳が監督業で成功を収めることのほうが驚きである。もっと驚きはレスリー・ニールセン83歳だ。長いこと脇役俳優だったのに、56歳のときにTV「フライング・コップ」(82)のキャラクターを活かした「裸の銃を持つ男」シリーズが大当たり。大器晩成というべきか。

   現在のトップ男性スターはジョニー・デップ46歳、ブラッド・ピット46歳、トム・クルーズ47歳あたりだろうか。女優ではアンジェリーナ・ジョリー34歳とミラ・ジョヴォヴィッチ34歳がアクション女優としてライバル関係にある。キャメロン・ディアズ37歳とメグ・ライアン48歳もラブ・コメ女優としてライバルか。ナタリー・ポートマン28歳、キーラ・ナイトリー24歳、メラニー・ローラン26歳、スカーレット・ヨハンソン25歳、ケート・ボズワース26歳、アン・ハサウェー27歳、アナ・パキン27歳、レーチェル・ビルスン28歳、レーチェル・クック30歳が美人女優のライバルか。

   若手の有望株では、エミー・ロッサム23歳、エレン・ページ22歳、エマ・ワトスン19歳、クリステン・スチュアート19歳、エマ・ロバーツ18歳、ダコタ・ファニング15歳というところか。

   ベテラン女優では、ジョディー・フォスター47歳とダイアン・レイン44歳がライバルか。ジェニファー・ビールス46歳も「フラッシュ・ダンス」で人気スターとなり、低迷期もあったがTVシリーズ「Lの世界」で人気が再燃してカムバックに成功。

   二コール・キッドマン42歳、キャサリン・ゼダ・ジョーンズ40歳、ケート・ブランシェット40歳、ジュリア・ロバーツ42歳、サンドラ・ブロック45歳も熟女の魅力満点。

    近年の傾向としてアジアの女優の活躍も光る。コン・リー44歳、チャン・ツィイー30歳、シュー・ジンレイ35歳、ジュウ・シュン33歳、ヴィッキー・チャオ33歳、タン・ウェイ30歳、イ・ヨンエ38歳などアジアン・ビューティーにも目がはなせない。

水戸黄門と暗行御史

    東映時代劇が好きだ。だが今年は大原麗子、山城新伍、千原しのぶ、かつてのスターが亡くなられて淋しいかぎりである。せめてもの救いは里見浩太朗、北大路欣也、松方弘樹らが大物スターとしての貫禄をテレビで見せてくれていることだ。朝日新聞夕刊連載の「黄門は旅ゆく」も欠かさず読んでいる。水戸黄門の印籠に似たような話が韓国にもあるという。李朝の国王直属の密偵で「暗行御史」という。ケペルは東洋史専攻なので興味を覚える。「御史」とはもともと古代中国の官名で、君主に侍御する史官のことで、秦以後監察官の名称となった。監察とは、監督・視察することである。そういえば、黄門というのも中納言の唐名であり、中国の制度に由来していることも共通する。

  暗行御史は地方官の不正陰謀を糾弾するため、国王がみずから人をえらんで面接し、探索すべき事柄を書いた親書および辞令、旅費を手交する。暗行御史に任命されたものは即刻出発し、都城を出てはじめて自分の行き先や探査事項を知る。使命をはたすまではどんな事情があっても帰京できず、家族への通信も許されなかった。任命されたものの官位は低いものの、国王の分身として絶大な権限が与えられ、誰もその行動を防げることはできなかった。暗行御史が都城を出たという噂がたつと、各地の官吏は畏れた。水戸黄門と言うよりも、「隠密剣士」の秋草新太郎や「薩摩飛脚」の嵐寛寿郎に近い。薩摩飛脚とは大仏次郎の小説だが、幕府の密命を受けて薩摩藩に入る隠密のことである。薩摩藩は西南の雄藩で、砂糖の専売や琉球貿易で財政が豊かである。洋式軍備と藩営工場の建設で謀反の惧れがある。幕府としてはその動向に警戒しておく必要があったのだ。江戸時代の地方監察制度は知らないが、朝鮮の暗行御史の制度など正確な書物があれば研究したい。

忘れられぬスター

Pro9a1   東映時代劇の初期の作品には○○童子というのが多かった。たいていは子ども向きで、短くて連続活劇、「主人公危うし!!」と、いい場面で終る。続きが見たくなる。テレビがまだ家庭に普及していない時代の話だ。「笛吹童子」「夕焼童子」「百面童子」「天兵童子」「緑眼童子」東千代介、中村錦之助、大川橋蔵のスターがいた。橋蔵の前にもう一人忘れられないスターがいた。伏見扇太郎だ。めんこの絵にもなって子供達のスターだった。だが錦之介や橋蔵はその後も活躍したが、なぜか伏見扇太郎は映画やテレビでは見かけなくなり忘れられた。昭和58年、刃傷事件を引き起こし新聞に出ていた。高知で土さ回りの役者となっていた。今日の新聞で千原しのぶが亡くなったことを知った。二人はよく共演していた。伏見扇太郎がどうなったか知らない。羅門光三郎、片岡栄二郎とともに没年不詳のスターである。スターといえどもいつか人気は衰えるもの。伏見扇太郎や千原しのぶの作品は娯楽作品で映画の賞とは無縁の作品、いつか忘れられ去られるものなのだろうが、子どものころ見た映画のほうが印象が強い。多くの人の心の中に残っているはずだ。ハリウッドにもルイーゼ・ライナーという大女優がいた。彼女はアカデミー主演女優賞を二年連続受賞しながら、その後作品に恵まれずロンドンのアパートで(かつてヴィヴィアン・リーが住んでいた)ひっそりと暮らしているらしい。来年1月で100歳を迎える。もしかして伏見扇太郎が生きていて、ひっそりと自分の出演映画をDVDで見ているということはないだろうか。

南部坂雪の別れ

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    浅野長矩の正室阿久里は浅野氏一族の備後三次藩初代藩主・浅野長治の次女であるから、長矩とは遠縁ということになる。夫の浅野長矩の凶報に接したとき、阿久里は何よりも先に内匠頭の弟の浅野大学長広に吉良上野介の生死を確かめたが、答えを得ることができなかったので、「兄の刃傷を聞きながら、相手の生死のほども確かめず、まことに惜しいことです」と、あわてる大学をたしなめるほどの気丈な女性であった。その夜、阿久里は鉄砲洲の江戸の上屋敷で髪をおろし、寿昌院と号して殉じたが、のちに将軍綱吉の生母の桂昌院の「昌」の文字をはばかって、瑤泉院と改めた。夫の内匠頭が切腹したとき、阿久里は28歳であったが、浪士の遺児たちの赦免に尽力をつくすなどしたが、正徳4年(1714年)6月3日、41歳のはかない生涯を終えた。

    瑤泉院の俗説では「南部坂雪の別れ」が巷間よく知られる。討入りを翌日に控えた13日の夜、内蔵助は瑤泉院に永のお別れの挨拶をしたいと考え、南部坂(港区)にある浅野家下屋敷を訪れた。ところが吉良方の密偵が奥女中となって潜入に気づいた内蔵助は、座が定まるのも待ちきれず瑤泉院は仇討ちはいつ、とつめよるのだったが、心中にこみあげるものをぐっとこらえ、「法事が終りしだい、山科に立ち帰り、かの地に永住の所存でございます。今生のお別れに、御霊牌の前に御焼香をお許し下さいますよう」と申し出たが、瑤泉院は「折角ながら、その儀はなりませぬ」と、屹ッとして言うと、静かに仏間の方へ去った。内蔵助は、じっと差しうつむいたまま、ついに一言の弁明もせず、座を蹴って去った瑤泉院のうしろ姿に平伏するのみであった。これが有名な南部坂雪の別れの泣かせどころであるが、この話も講釈師(桃中軒雲右衛門といわれる)の作り事で、実際は討入りより1年前の元禄14年11月、事件後はじめて内蔵助は瑤泉院のご機嫌伺いに行っている。瑤泉院、それも瑤泉院付きの士・落合与左衛門宛に書状を認め、自身は赴かず、「預置候金銀請払帳」を添えて近松勘六の家来・甚三郎に三次藩邸へ届けさせたと言われる。

剣豪とは何か

    「剣豪」とは「剣術の達人」と広辞苑にてでいるように今日、当たり前に使われる。例えば、塚原ト伝、宮本武蔵、上泉信綱、柳生十兵衛などの伝記を書くとき、「剣豪列伝」などと使かうのに重宝な言葉だ。ところが「剣豪」という語は、そんなに古くからある語ではない。立川文庫には出てこない。つまり明治、大正にはなく、おそらく昭和になってから流行したらしい。おそらく「剣豪」という言葉を誰が考案したかということを知る人はあるまい。

   一説によると流泉小史(りゅうせんしょうし)というあまり知られていない作家の独創であるという。本名は小原敏丸。岩手県の生まれ。流泉小史の著書に「剣豪秘話」「剣豪異聞」「新選組剣豪秘話」などがある。いまではなかなか手に入らない本だろう。作品は残らずとも、日本語を生み出し、それがあたりまえのように使われているとすれば、作家として大きな業績だと思う。

「天地人」立川文庫の世界

    NHK「天地人」が終了し、直江兼続のことを調べていると、坂口安吾の小品に「直江山城守」がある。戦後書かれたもので(昭和27年)、山城守を山本五十六に喩えている。新潟出身の安吾が上杉謙信や直江兼続に詳しいのは当然のことかもしれない。安吾史観がインスパイアーされて火坂雅志が書いたのかもしれない。ケペルは関西の人間なので子どもの頃、貸本マンガのような赤本を知っている。多くは時代劇で猿飛佐助が活躍し、徳川家康が悪玉だった。これは明治末から大正に流行った立川文庫の影響が関西にはあったからだ。真田幸村、後藤又兵衛、霧隠才蔵、猿澤飛助、熊谷鬼王丸、真田小太郎、猿飛小源吾、後藤又十郎、薄田小隼人、というデタラメな名前のものから、直江山城守というのも立川文庫にはある。石田三成と結んでいたので山城守も関西では善玉だったのだ。

2009年11月23日 (月)

百歳万歳

    今月の訃報には高齢の有名人が多かった。レヴィ・ストロース100歳、森繁久弥96歳、水の江滝子94歳。「棺を蓋いて事始めて定まる」というが、人間の成功、失敗、遇不遇は、その人の死後棺にふたをしてはじめていえることであろう。百歳まで生きたいと思うのは万人の願いであり、私は間違っているとは思わない。しかし、そこに一種いいようのない幼稚さを感じてしまうといったら、私は怒られるだろうか。

今年、松本清張、太宰治が生誕百年でブームとなった。死後もかわらず読まれている作家の代表であろう。来年、生誕百年を迎える有名人を調べてみた。つまり明治43年(1910年)生れの人である。

  まずは芸能界から。三益愛子(「流れる星は生きている」「母の曲」)、原駒子(「剣難女難」)、阿部九州男(「鳴門秘帖」「荒神山」)、黒川弥太郎(「南国太平記」「関の弥太ッペ」)、山村聡(「山の音」)、坊屋三郎(俳優)、松本白鸚(俳優)、アナベラ(「巴里祭」「ル・ミリオン」)、ジャック・ホーキンス(「ベン・ハー」「アラビアのロレンス」)、ジャン・ルイ・バロー(「天井桟敷の人々」)、デビッド・ニーブン(「天国への階段」「八十日間世界一周」)、バン・ヘフリン(「シェーン」)、レッド・スケルトン(「水着の女王」)、ジョーン・ベネット(「飾窓の女」)、シルビア・シドニー(「市街」「暗黒街の弾痕」)、ルイーズ・ライナー(「巨星ジークフェルト」「大地」)。文学歴史ではアヌイ(劇作家)、ジャン・ジュネ(作家)、レオ・レオニ(絵本作家)、白洲正子(作家)、村上元三(作家)、石上玄一郎(小説家)、保田與重郎(文芸評論家)、篠原梵(俳人)、艾青(中国の詩人)、小川環樹(中国文学)、白川静(漢字学)、宇野精一(中国哲学)、山本達郎(東洋史)、佐伯富(中国史)、羽田明(中国史)。
大庭秀雄(映画監督)、黒澤明(映画監督)、田中友幸(映画プロデューサー)、双葉十三郎(映画評論家)、安藤百福(実業家)、久野収(哲学者)、伊藤久男(歌手)、渡辺はま子(歌手)、西田修平(陸上競技)、木内信蔵(地理学)、大平正芳(政治家)、鈴木俊一(政治家)など。これらのかたがたは物故者である。
まど・みちお(詩人)、吉行あぐり(美容士)のように100歳を超えて元気な著名人の方は少ない。
  「死んだ子の年を数える」というが、もし早世した著名人が現在も生きていたら何歳になっているか考えることは無意味なことだろうか。ジョン・F・ケネディは来年で93歳になる。三島由紀夫は85歳、マリリン・モンローは84歳、チェ・ゲバラは82歳、ジェームズ・ディーンは79歳、アベベ・ビキラは78歳、ガガーリンは76歳、サッダーム・フセインは73歳である。みな若くして亡くなったものである。

トリビア来年どんな年?

  2009年もあと一月と少し。2010年はどんな年だろうか?歴史年表で100年前の1910年を調べると、重要な出来事は「日韓併合」と「大逆事件」である。ここではトリビアのネタを紹介する。

日本メキシコ友好五百年 日本とメキシコとの正式な国交樹立は明治21年11月30日であるが(最初の対等条約)、慶安15年、徳川家康がピペロを三浦按針建造の船でメキシコに遣使をおくっている。

京阪電車百年 会社の設立は明治39年であるが、明治43年4月15日、大阪天満橋と京都五条間で開通した。

不二家創業百年 明治43年、藤井林右衛門が横浜市元町2丁目で不二家洋菓子舗創業。

文芸雑誌「白樺」百年 明治43年、学習院出身の武者小路実篤、志賀直哉、木下利玄、園池公致、柳宗玄、郡虎彦らが、反自然主義を掲げて文芸雑誌「白樺」を発行した。

「修善寺の大患」百年 夏目漱石は伊豆修善寺の菊屋旅館に行くが、8月24日、大吐血、脳貧血を起こし、人事不省、危篤状態に陥る。「生き返るわれ嬉しさよ菊の秋」の句がある。

英国エドワード7世没後百年 エドワード7世はヴィクトリア女王の長男。しばしばヨーロッパ諸国を訪問して国際協調に努め、日本とも1902年、日英同盟を結んだ。庶民的な性格で人気があった。心臓発作のためフランスの保養地で死んだ。

生誕記念 上杉憲実生誕600年、角屋七郎兵衛生誕500年、葛飾北斎生誕250年、緒方洪庵生誕200年、嘉納治五郎生誕150年。
    葛飾北斎は「富嶽三十六景」などで有名な江戸の浮世絵師。北斎の曾祖父が吉良義央の家臣小林平八郎だという説があるが確証はない。

2009年11月22日 (日)

「天地人」から80年後は「忠臣蔵」

   「天地人」第47話愛を掲げよ、最終回。直江兼続は元和5年に亡くなり、4年後には上杉景勝も亡くなった。そして長子定勝の娘富子は吉良義央に嫁ぐ。ここから元禄忠臣蔵・赤穂藩と上杉家・米沢藩との関係が生ずる。寛文4年、米沢第3代藩主・上杉綱勝は吉良邸に訪れた直後に発病した。死因は食中毒であるか毒殺であるかは不明である。ともかく綱勝は嗣子が無いまま急死したので、上杉家と米沢藩は取り潰されるところであった。そこで吉良義央と富子との間に生れたばかりの子、三之助を末期養子として綱勝の後継ぎとすることで家名存続が許された。米沢藩第4代藩主・上杉綱憲である。そして元禄14年に殿中刃傷事件が起こった。翌年の赤穂義士討入りの快挙によって謙信公以来の武門の名家・上杉家の名声は地に落ちたことはいうまでも無い。歴史は転変する。

艱難のなかから名著は生まれる

    周の文王は捕えられて「周易」を述べ、孔子は厄に遇って「春秋」を作った。左丘明は失明して「国語」が生まれ、孫子は両足を断たれて、その兵法が完成し、呂不韋が蜀に流されたため「呂覧」が世に伝わり、韓非が秦に囚われて、「説難」「孤憤」の篇ができた。楚の屈原は憂国のなかから「離騒」を作った。西洋においても、ルネサンスの始祖ダンテはフィレンツェを追われて、「神曲」が作られた。イギリスの詩人ミルトンは不幸にも盲目となったが、このため「失楽園」が生まれた。ジョン・バニヤンは罪なくして牢屋に入れられたが、そこで不朽の名作「天路歴程」を書き上げた。まことに世を憤り、身の不遇を悲しむ激情で書き上げられた書物は古今東西の例をみても名著が生れる。

タケノコと孝行

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   孟宗竹は中国南部の原産で、日本には1736年に薩摩藩主島津吉貴(1675-1747)によって鹿児島にその苗が移入され、またたくまに全国に広まった。孟宗竹がこのように普及したのはタケノコを採るためである。

   孟宗とは中国の晋の時代の親孝行な青年の故事に由来する。孟宗の母が年老いて病気が重くなり、冬、タケノコが食べたがった。孟宗は竹林にいったが、そんな季節にあろうはずがなく、彼は思わず泣いた。すると、たちまち数本のタケノコが出てきた。孟宗は持ち帰って吸い物をつくり、母に供したところ、その病気はたちどころに治ってしまった。

  涙滴ッテ朔風寒シ

  瀟々タル竹数竽

  須庾ニシテ春筍出ヅ

  天意、報ユルコト平安ナリ

       (郭居敬「二十四孝」)

阿波十郎兵衛は実在した!?

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    娘お鶴は巡礼姿で父母を捜す。やっと会えたが、母のお弓はわざと名乗らずに帰す。父の十郎兵衛は連れ戻し、お鶴が持っていた金を奪い、殺してしまう。近松半二の「傾城阿波の鳴門」の十郎兵衛は極悪非道な人間だ。ところが十郎兵衛には坂東十郎兵衛(1646-1698)という実在のモデルがいた。一説によると、彼は船頭曾一兵衛の女房に横恋慕、海賊用右衛門に依頼し、曾一兵衛を殺害をさせたという。ともかく十郎兵衛の素性は残忍な海賊というイメージがあった。ところが明治になって十郎兵衛冤罪説、義人説も生まれた。十郎兵衛は他国米を監視する役人であったが、不正を知り、その責任を負わされて処刑されたというのである。現在、坂東十郎兵衛の屋敷跡が阿波十郎兵衛屋敷として一般公開されている。3人の墓も近くの宝生寺にある。

山霧

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   早朝、近くの山に登る。山道は険しい。枝枝を踏みしだいて回りこんで一歩一歩進む。晩秋ながら全身から汗が流れでる。あたり一面は霧が山を包んでいる。その時、白い雨粒が真珠を撒いたように、ぱらぱらと降ってきた。しばらくすると、こんどは大地をまきあげるように、風が飛来して、たちまち雲や雨を吹き払い、木と木、枝と枝の間から新しい光がまばゆくきらめいていた。

2009年11月21日 (土)

野島崎灯台

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  千葉県房総半島南端の野島崎灯台は、明治2年正月、フランス人技師F・L・ヴェルニーの設計により灯火を点じた日本最初の灯台で、海面からの高さ40m、光達距離33㎞である。2月には神奈川県の観音崎灯台が完成し、和歌山県の潮岬灯台とともに日本の近代洋式灯台の歴史が築かれた。

八百長疑惑

    台湾プロ野球や欧州サッカーで八百長疑惑が持ち上がっている。だが八百長といえば相撲がご本家である。むかし石原慎太郎が日刊スポーツ紙に大鵬・柏戸戦の全勝同士の対戦を、八百長試合であるかのように書いて物議を醸したことがあった。そういえば八百長の語源も相撲と関連している。明治の初め頃、相撲会所に八百屋の長兵衛という男が出入りしていた。長兵衛はよく伊勢海五太夫という年寄の囲碁の相手をしたが、本当は強いのにお得意様だからと思って、わざと負けた。これが仲間の人たちに知れわたり、いつしか相撲の隠語となっていたのが、いつのまにか人々の間に広まり、イカサマやインチキでなれあいの勝負をすることを八百長とあざけりののしるようになった。そこから、わざと負けることを八百長と呼ぶようになった。

地獄の釜の蓋もあく

Soteiou 冥府十王の七番目の裁判官「太山王坐像」

    仏教では世に十界あり。はじめの六界、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天上を「六道」という。それは迷い世界であり、あとの四界、声聞、緑覚、菩薩、仏は悟りの世界である。

さて、地獄というのは、地獄絵や地獄変で見るように、生前に犯した罪過によって呵責されるところで「呵責の牢獄」といわれる。人間は死後、冥府(地獄の役所)におもむいて閻魔ら10人の裁判官から裁きを受ける。閻魔の両隣に魔神がおり、どんな些細なことでも生前の行ないを漏らすことなく記録している。閻魔はこの記録が書かれた帳簿(俗にエンマ帳という)を細かく点検し、死者の善徳と悪徳とを判別する。また浄玻璃鏡を持っていて、死者が生まれたときから死ぬときまでをビデオのように映し出す。そのため、いかなることも隠しだてできないといわれている。

夜の図書館

  書を伏せて太宰を語る夜学の師

                 町田しげき

    夜でも勉強している人は多い。日本の公共図書館は決まって夜間は閉まっているがアメリカでは夜間開館していることが普通だと聞いた。むかしヒッチコックの映画「疑惑の影」ではテレサ・ライトが夜間閉まっている図書館に無理やり入館して、新聞を閲覧するワン・シーンがあった。「ある愛の詩」や「さようならコロンバス」でも幾つかのシーンに図書館がでてくるので目を皿のようにして見た記憶がある。今なら海外旅行でアメリカの図書館を見学することはそれほど珍しい話ではないだろうけれども。やはり図書館に関心を寄せる者はいつまでもアメリカの図書館は憧れの存在なのだろう。下の写真はボストン近郊にあるブルックライン公共図書館。

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2009年11月19日 (木)

記録は破られるためにある

   プロ選手の現役寿命が確実に延びている。通算記録でもこれまで不滅の大記録でも何十年のちに破られることがある。ベーブ・ルースの本塁打総数714本は絶対にやぶられないと誰もが思っていた。しかしハンク・アーロンが755本を記録し、762本のバリー・ボンズが現在記録保持者である。

    日本野球の王貞治の868本塁打や金田正一投手の400勝、福本豊の盗塁1065という数字は今後もまず誰も破ることのできない不滅の記録かもしれない。

    相撲でいえば常勝双葉山定次の69連勝がある。これまで何人もの横綱が挑戦したが、69という数字がいかに大きいかを知らされた。だが幕内通算800勝を超えた魁皇には実に大きな記録が待っている。一歩、一歩着実に積み重ねることによって、前人未踏の大記録を達成してほしい。記録は破られるためにある。

シャーリー・ナイト

Photo  シャーリ ー・ナイト

   TVドラマ「逃亡者」(1963-67)の最終回は全米史上最高の視聴率を記録したといわれる人気ドラマである。毎回のゲスト出演のスターも楽しみだった。男優ではウォーレン・オーツ、ロバート・デュバル、ロイ・シネス、チャールズ・ブロンソン、J・D・キャノン、テリー・サバラスなど。女優ではパメラ・ティフィン、アン・フランシス、アンジー・デッキンソン、キム・ダービー、ブレンダ・バッカロ、ダイアン・ベーカー、スザンヌ・プレシェットなど。最終回でリチャード・キンブル(デビッド・ジャンセン)と結婚するのはダイアン・ベーカーである。ブレンダ・バッカロ(真夜中のカーボーイ)やダイアン・ベーカー(アンネの日記)は現在も活躍している。現在で活躍中といえば、ジェラード警部の息子だったカート・ラッセルはいまや大スターだ。第28話「闇の中の声」に出演したシャーリー・ナイト(73歳)も現役俳優。彼女はこの「逃亡者」に3回も別役で出演している。主な出演映画はデビュー作の「野獣部隊」(59)をはじめ、「北海の果て」「階段の上の暗闇」「渇いた太陽」「あしやからの飛行」「グループ」「華やかな情事」などあるが代表作はフランシス・フォード・コッポラ監督「雨のなかの女」(69)か。最近でも「恋愛小説家」(97)「モール・コップ」(09)などに出演している。繊細で上品な感じの娘だったが今では老婆の役であろう。いずれにしてもアメリカの上流階級の女性といった雰囲気で長い演技派女優としての地位を築いてきたようだ。

「雨のなかの女」あらすじ ある雨の朝早く、ナタリー(シャ-リー・ナイト)は目がさめるとまだ寝ている夫に「すぐ帰ってきます。心配しないで」とだけ手紙をのこして家をでた。泣きながら、ステーションワゴンに乗って。彼女はニュージャージーへ向かう車の中で新婚時代を思い出していた。あれから1年がたつというのに、ナタリーはいまだに結婚生活に対する不安と不満を消すことが出来ないでいるのだ。あくる日、ヒッチハイクの若者を車に乗せてやった。学生時代フットボールの選手で、みんなから「キラー」とあだ名されていたというそのジミーという青年は、女友達のエレンのところへ仕事口を紹介してもらいに行くのだとナタリーに語った。やがてエレンの父親が働くドライブ・インに着いた。しかし、エレンはじめ母親もジミーの来訪を迷惑がり、結局、またナタリーはジミーを乗せてそこを去らなければならなかった。ある郵便局の掲示板で仕事口が見つかった。すでに子どものように無邪気なジミーを愛しはじめていたナタリーは、彼を後ろ髪ひかれる思いでそこを置き去り、運悪く警官に捕まって、もとの場所へ引き戻されてしまった。その夜、ナタリーとジミーは警官の住むトレイラーを訪ねた。酒を飲んでダンスをしてすっかり興奮した警官は彼女をトレイラーの中へ誘い込み、いきなり体を求めてきた。その様子を外でみていた警官の娘がすさまじい悲鳴をあげた。その悲鳴を聞いたジミーは無我夢中でトレイラーの中へ飛び込み警官を殴りつけた。その姿に拾った拳銃を続けさまに射ち込んだのは娘だった。翌朝、ナタリーは雨の空港で夫のあたたかな胸の中に抱擁されていた。人間の愛の悲しみ、喜びを知った短い孤独な旅は終わったのだ。

2009年11月18日 (水)

ビタミンK

   「逃亡者」第26話「誘拐」。リチャード・キンブルは誘拐されたジミー少年を診察したが、血友病で内出血を起こしていた。血友病とは遺伝的な病気で、もっぱら男子のみに現われる。擦り傷やちょっとした怪我でも危険な場合がある。キンブルは止血剤がないので、ビタミンKを薬局で買う。

   ビタミンBやビタミンCはよく耳にするが、ビタミンKとはあまり知らなかった。ビタミンKとは骨髄、もつ、トマト、キャベツ、緑葉、海藻、肝油などに含まれる。欠乏すると血液が凝固しにくくなり出血する。

   リチャード・キンブルは小児科医が専門なのでよく少年が登場する。医学的知識を踏まえたシナリオに当時のアメリカ・ドラマの水準の高さを物語る。

   誘拐犯(兄)で出演していたクロード・エイキンズ(1918-1994)。頑丈な体格で忘れられない個性的脇役。英語版ウィキペディアで調べると、15年前に亡くなっていた。

魁皇800勝を祝う

   モンゴル力士全盛にあって日本人力士の活躍は今ひとつである。そのなかにあって大関魁皇の幕内通算800勝は快挙である。国民栄誉賞の千代の富士の807勝にあと7勝にせまってきた。野球で例えれば、金田正一の400勝、王貞治の868本塁打に匹敵するものと思う。相撲はほかのスポーツよりも選手寿命は短い。大関でありながら横綱よりも勝ち星が多いというのは、節制と精進のたまものである。強さは瞬発力や一時的な好調よりも、持続した強さが人間には大切であることを教えてくれた。魁皇こそ真の意味で国民栄誉賞にふさわしいといえよう。

「GEグッドエンディング」にメロメロ

   ケペルは朝汐が表紙の「少年マガジン」を記憶している。初期は西部劇、ウェスタンの記事が多くて、だんだんと大和、零戦の戦争ブームになった。昭和40年ころで読まなくなった。何十年ぶりかで毎号読みだした。「はじめの一歩」や「ダイヤのA」も少しは面白くなりだしたが、ギャグマンガにはついていけない。だが心の琴線にふれたマンガがあった。流石景の「GEグッドエンディング」である。最初の印象としては少女の瞳が大きくて、絵柄がなんとなく好きだったが、よくみるとアングル、構図と相当に作画に注意をはらっていることがわかる。たとえば二人の会話の場面でただ平面的に横からのアングルで描くのではなく、真上からのアングルを多用している。少女が斜めからふりむいた姿とか顔を少し傾けた仕草とかとてもかわいい。萌え系美少女キャラではなくて本格的な作画が好感がもてる。たとえていえば、ボッティチェリやピエロ・デラ・フランチェスカのような輪郭線の美しさである。少し後のダ・ヴィンチはフスマートといって色彩のぼかし技法で量感を生み出したが、ボッティチェリなどは線の美しさ、それと身体バランスの美しさが際立っている。流石景の作画も入念に、その状況や雰囲気にあわせた構図を作り出している。ストーリーは内海聖志という内気な高校生が黒川雪(通称・ユキ)のアドバイスをうけながら、池谷晶(通称・晶先輩)に求愛する。私小説的なところがいい。作家が女性であることも驚いた。いわゆる少女マンガではなくて、男子がよろこびそうな新しいスタイルの漫画である。萌え系の一種かもしれないがケペルは高く評価する。

今日の名画

Photo 高畠達四郎 「セント・ポール」

8059  +33

7968  -91

8005  +37

7834  -171

   高畠達四郎(1895-1976)は大正10年、渡仏して7年間滞在、アカデミー・ラソンで学び、エコール・ド・パリの影響を受ける。

2009年11月17日 (火)

由井正雪の生家

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   東海道16番目の宿場が由井宿である。この地はまた由比とも、湯井、あるいは油伊、湯居とも書かれている。明治22年に庵原郡由比町となったが、現在は静岡市に編入合併された。町の家並みも漁師町で、伊豆半島の山々を遠望する眺望が素晴らしい。庵原山地が駿河湾に面して、急な崖をなし、そこに薩埵峠があり、由比の断崖として、古くから最大の難所として知られていた。

    由井といえば、だれもが想起するのは由井正雪(1605-1651)であろう。彼は慶長10年にこの地に生まれた。今もその紺屋の生家が残っている。17歳のとき江戸に出て、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがて神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。多数の門弟が集り、その数3000人を超えたといわれる。慶長4年に三代将軍の徳川家光が亡くなると、浪人を集めて倒幕を計画した。宝蔵院流の槍術家の丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷三郎兵衛、加藤市右衛門、吉田初右衛門らが集結して天下を狙うようになったが、事前に発覚し、正雪は駿府の宿で自殺した。これを慶安の変という。

2009年11月16日 (月)

近松忌

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    江戸中期の歌舞伎狂言・浄瑠璃作者、近松門左衛門の墓と称するものはいくつかあるが、国指定史跡となったものは、広済寺(尼崎市久々知1丁目)と大阪市妙法寺の2基の墓だけである。近松門左衛門(1653-1724)は京都や大坂に住んだが、広済寺の住職・日昌上人と親交が深く、母の供養を行うなど晩年に関係が深かった。高さ48センチほどの緑泥片岩の自然石の墓石で、裏面には「享保九年十一月二十二日」と没年が刻まれている。(11月22日)

2009年11月15日 (日)

政治家は健康管理は万全に!!

   谷垣禎一自民党総裁が15日午前9時20分ごろ、自転車が転倒して、顔を数針縫う怪我をされたというニュースを聴いた。今年、56歳の若さで急死した中川昭一さんといい、政治家は健康がまず第一と思う。岡田克也外相を今日テレビでみて驚いた。痩せていて顔色が悪い。多亡で十分な休養もとれないとは思うが、健康管理には十分に気をつけてください。

千姫を救出したのは直江兼続だったのか!?  

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    NHK大河ドラマ「天地人」も終盤を迎える。第46回「大坂城炎上」徳川の攻撃により大坂落城、豊臣秀頼は自害する。だが秀忠の娘の千姫(川島海荷)は真田幸村(城田優)の手はずにより城内の井戸に匿われていた。千姫を救出したのはなんと直江兼続(妻夫木聡)だった!?主役だから当然のこととはいえ、坂崎出羽守はどうなるんだ。紅蓮の炎に包まれた大坂城の中を千姫を求めて探し回り、ついには火傷を負いながらも坂崎は千姫救出に成功する。家康は姫を助けた者には妻として与えることを約束していた。しかし千姫は坂崎を嫌がり、桑名城主・本多忠刻に嫁ぐことになった。坂崎としては約束を違えられては武士としての面目がたたない。元和2年、江戸から桑名へ向かう途中、坂崎は千姫の輿を奪おうと謀ったが、自分の家臣に殺害された。この逸話の方が、史実ではないにしても大河ドラマよりもドラマチックな気がする。

   その後の千姫は姫路に移り、忠刻の病死後、江戸に戻り、竹橋御殿で余生を送り、70歳で亡くなっている。

2009年11月14日 (土)

腰麻痺ってどんな病気?

   TV「逃亡者」第20話「純血種」リチャード・キンブルは犬の牧場ではたらく。そこの犬の様子がどうもおかしい。キンブルは医学書を読んで「腰麻痺」であることに気づく。ところで「腰麻痺」ってどんな病気なのか知らなかった。家畜の病気。牛、馬、山羊、ヒツジなど。腰の運動が不自由になって、立つことができないほど腰が弱くなる。このとき多くは前あしには変化はなく、後あしだけが不自由になることが多い。これを腰麻痺という。病気の原因は指状糸状虫(フィラリア)が羊や山羊に寄生することによって、運動機能障害が現われる。腰麻痺の予防には駆虫薬を用いる。ヒツジや馬が腰麻痺をおこして、横たわると、体の下側になった所の皮膚が体重と床面との圧迫で、皮膚にとこずれができる。そしてここから細菌の感染がおこって敗血症で動物が死ぬ場合が多い。

豊臣秀吉暗殺計画

   京の南禅寺の三門あたりに居を構える大盗賊石川五右衛門の隠れ屋敷に、人目を忍んで一人の武将が尋ねてきた。名を木村常陸介重茲(?-1595)という。常陸介は豊臣家の後継者に定められた秀吉の甥、関白秀次の無二の忠臣である。常陸介が五右衛門に告げたのは「太閤殿下を暗殺してくれ。大願成就のあかつきには、そなたを大名に取り立てよう」という。実子のなかった秀吉は、甥の秀次を跡継ぎにしておきながら、昨年、淀君に秀頼が誕生すると、一転して秀次に冷たくなった。五右衛門はニヤリと頷いた。かくして常陸介から伏見城の絵図面を手に入れ、秀吉の寝所に忍び込んだ。だが、不覚にも強力無双の仙石権兵衛に捕らえられ、釜ゆでの極刑にされた。山科言継日記によると文禄3年8月のことである。秀次も謀反の嫌疑をうけ、文禄4年7月、高野山に追放され、切腹した。8月には秀次の子女妻妾30余人が京都三条河原で斬首された。秀吉暗殺計画の首謀者、木村重茲も長男の高成とともに自害した。次男の木村長門守重成(1595-1615)は幼少のため一命を助けられ、のち秀頼の家臣として仕えた。大坂冬の陣には奮戦し、夏の陣で戦死した。

2009年11月13日 (金)

冬の宿

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  江戸時代は寒冷期でだいたい各地とも現在以上に冬の寒さは厳しかった。江戸では11月頃には雪が降った。雪見も盛んで、上野山内・日暮里浄光寺(雪見寺)・不忍池・道灌山・愛宕山・三囲・隅田川・神田明神・飛鳥山・向島などが雪見の名所として知られている。寒い日は温かい鍋をつつきながら熱燗の酒で雪見酒を楽しんだ。白身の魚を使った鍋は、鱈ちり、河豚ちり。そのほか、あんこう鍋、しゃも鍋、どじょう鍋。芭蕉は旅先の宿屋で何を食べたのだろうか。

いざ行かむ雪見にころぶ所まで(芭蕉)

魚食ふて口腥し昼の雪(夏目成美)

次の間で灯で膳につく寒さ哉(一茶)

江戸の拷問「ぶりぶり」

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   現行法では「黙秘権」が認められている。つまり黙秘していることに対して、強制を加えられることはないし、また黙秘しているために、不利益な心証をとられることはないことになっている。反対に自分の不利な事実を認めることを「自白」という。裁判の歴史で、これまで自白を強制・拷問・脅迫により強制した歴史的事実は明らかである。とくに江戸時代の裁判は、物的証拠がそろっていても、被疑者の自白がなくては断罪できなかった。そのため被疑者を拷問してでも、自白をとりつけねばならない。鞭打ち、石抱き、海老責め、釣るし責め、逆さ釣り、水責め等、いろいろの拷問が書物の中に記載されているが、「ぶりぶり」という珍妙な名前の拷問が実際にあったらしい。「ぶりぶり」とは丸裸にして、口には馬のくつわのように手拭いを喰わせ、肢体を四つ手に縛りあげて梁に吊るしあげ、輪になった男衆が「ぶりぶり」と唱えながら、棒で力まかせに打ち続ける。脱走した遊女や、駆け落ちに失敗した女郎責めであったらしい。映画「子連れ狼、死に風に向かう乳母車」(昭和47年)の中で、女郎を助けた拝一刀(若山富三郎)が身代わりに逆さづりにされて「ぶりぶり」の拷問を受けるシーンがある。

冬構え

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  木々の葉が色づき、朝夕の空気がひんやりしてきた。炬燵をだそうかな。ももひきを穿きだした。今年は開店して初めてのクリスマスを迎える。どんな飾りつけをしようかと悩んでいる。イエス・キリストの降誕に思いをはせながら、なんとなく楽しい気分である。

2009年11月12日 (木)

唐宋転換期と社会経済の推移

   中国史のうえで最も論議が盛んだったのは唐の中期から宋初にかけての時代である。わが国の学界では、この時期を古代と中世との変革期とみるか、あるいは中世と近世との転換期とみるか意見が分かれた。(変革期と転換期との用語の違いに注目!)

   内藤湖南(1866-1934)は古代を後漢まで、中世を五胡十六国から唐の中頃まで、近世は宋代以後としている(「概括的唐宋時代観」1921年)。前田直典はマルクス史観にもとづいて、古代を奴隷制の社会とする立場に立ち、9世紀前後に古代が終り、そのほかの東アジアの日本と朝鮮でも12世紀から13世紀に同様のことがおこり、東アジアで古代の終末について連関性があったと説いた(「東アジアに於ける古代の終末」1948年)

   以下、唐宋から明清に至る社会経済的推移を略述する。北魏王朝に始まる均田制は隋唐王朝に受け継がれて、日本の班田収受の法の手本となったが、荘園制の発達にともなう新しい地主階級の勃興とともにくずれはじめ、安録山の乱(755年)以後は全く崩壊して両税法が行われるようになってしまった。宋代になると、政治のうえで大きな力をふるっていた貴族や均田農民も没落し、佃戸を小作人とする新しい地主階級が荘園を所有した。また、宋の時代以後は国内商業の発展もめざましく、行とよばれる商人の同業組合、作とよばれる手工業者の組合があらわれ、貨幣としては銅銭が広く用いられたが、元の時代を経て明の時代になると銀が最も重要な貨幣となり、税制のうえでも地税・徭役の貨幣納が進んだ結果、明の末期(16世紀後半)には地租とそれに応ずる丁税とを銀でまとめて収めさせる一条鞭法が行われて唐中期以来の両税法に代わるようになった。神宗の時代になると宰相となった張居正(1525-1582)によって全国的規模の検地(耕地の整理)を実施し、租税の確保に努力するにいたった。

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   張居正

座談会「東アジア世界の変貌」石母田正、斯波義信、堀敏一、山本達郎、米沢嘉圃 「世界の歴史6」筑摩書房所収 1961
貴族政治から文臣官僚体制へ 栗原益男 「世界の歴史6」筑摩書房所収 1961

死ぬまであと一万冊読めるかな?

Photo  サイパン

  朋あり、遠方より来たる。また、楽しからずや。雨がそぼ降る晩に、かつての職場の同僚がひょっこりと店にやって来た。(一緒に仕事したことないけど…)随分こまめに書棚をみる人。こういう人はヤバイ。やっぱり見つかった。高岡早紀の写真集。でも入館料いただいた。まいどおおきに!映画の話。ケペルは暇ができて予約録画で毎日1本は見ている。見たくても見逃した映画って結構ある。先日もジョディ・フォスターの「ホテル・ニューハンプシャー」を見る。(ロブ・ロウとは姉弟なのに…)

   あとで考えたら、一日に本や映画を1冊(1本)読んだとしたら、死ぬまでに一万冊読めるかな。

     ☆ ☆ ☆ ☆

 本日は天皇陛下即位20年を祝う記念式典が開かれ、国民はこぞってお祝いをするそうな。紅白饅頭はもらえないのかな?えぇ、もう平成は20年たったんだ。まだ昭和のような気がするのは自分だけなのかな。天皇、皇后両陛下が外国の戦場を初めて訪れたのはサイパンだった。(平成17年6月27日)平和への祈りと慰霊が続く。

  てんと虫一兵われの死なざりし

                             安住敦

一匹の天道虫は、どこか鉄かぶとの兵隊に似ている。一匹の虫に命があるように、一兵卒にも尊い命がある。天皇陛下のお言葉。「心配なのは、歴史が忘れられていくこと」

2009年11月 8日 (日)

いま空前の年下男子ブームなのか?

   近日公開の映画「理想の彼氏」40歳バツイチ女が恋に落ちたのは24歳のフリーター。なぜか今この手の年上女、年下男のカップルが流行している。近年の日本映画でも「シュガー&スパイス」(沢尻エリカ、柳楽優弥)「人のセックスを笑うな」(永作博美、松山ケンイチ)がある。永作・松山コンビはかなりな年齢差、身長差もある。童顔の永作だがら不自然さは感じなかった。

   むかしから文学では年上女・年下男の恋はある。「源氏物語」の光源氏と六条御息所。「チャタレイ夫人の恋人」のコニイとメラーズ。映画でもシモーニュ・シニョレ(年上の女、1959)、ヴィヴィアン・リー(ローマの哀愁、1961)、ナタリー・ドロン(個人教授、1968)、ジェニファー・オニール(おもいでの夏、1971)、ドミニク・サンダ(初恋、1971)。韓国映画ならイ・ヨンエ(春の日は過ぎゆく、2002)。邦画では田中絹代、高峰秀子(遠い雲)、司葉子(乱れ雲)、岸恵子(約束)など。つまり年上女を演じることは大女優の証明か。ドラマ「岸辺のアルバム」では八千草薫と竹脇無我。浮気、不倫、ヨロメキ型と童貞男を指南するレッスン型とに分類できる。キャンディーズのヒット曲「年下の男の子」(1975)はレッスン型だが、年上女恋愛史上、記念碑的作品となった。つまり年上女が年下男を「カワイイ」と声を出して公然と言える社会が現出したのである。

   もちろん江戸時代から「年上の女房は金の草鞋を履いてでも探せ」という言葉があるように、年上女は目先がきくので重宝がられた。とくに勝負事の携わる人たちには重宝がられる。落合、野村、江川、原、イチロー、貴乃花、木村拓哉、ラミレス、ペタジーニ、石井一久、松坂大輔、武豊など。みな年上女房の成功例である。料理が上手い、やりくり上手、母性で愛情を注ぐ、と姉さん女房は100点満点のいい女房たちである。

   1980年代になって男女雇用均等法と好景気は女性の社会進出を促進し、ドラマの中でも男をリードする女性が理想像となった。W浅野といわれた浅野温子、浅野ゆう子(抱きしめたい)、山口智子(ロングバケーション)、江角マキコ(ラブリボリューション)、小雪(きみはペット)、深津絵理(スローダンス)、篠原涼子(anego)、黒木瞳(東京タワー)、天海祐希(Around40)、観月ありさ(おひとりさま)など。2003年からの韓流ブームも追風となった。上流階級夫人がイケメン韓国スターを追っかけて韓国まで旅行するブームは年下男を求愛する社会現象として顕著にあらわれている。

   男女の平均寿命の差などを考えると、今後5歳から10歳くらいの年上女房は、あたり前となる時代がくるかもしれない。

2009年11月 5日 (木)

女流監督アイダ・ルピノ

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    CSでデビッド・ジャンセンの「逃亡者」を放送している。何本か予約録画して見る。「仕組まれた情事」(Garden House)ロバート・ウェーバー、アイダ・ルピノと字幕で見つける。アイダ・ルピノ(1918-1995)は1940年代に活躍していた可愛い女優である。どこに出ているのかと楽しみにしていたが、出ていない。不思議だと思った。「虫けらの命」(Glass Tightrope)レスリー・ニールセン、エド・ビンズ、アイダ・ルピノと字幕にある。アイダ・ルピノは監督をしていたのだった。映画「ハイ・シェラ」などハンフリー・ボガートの相手役の妖艶な美女というイメージだったがテレビドラマの監督を多数している。ロンドン出身で父は有名なコメディアン、スタンリー・ルピーノ(1893-1942)。アイダ・ルピーノは歌もうたうし、監督もするという多才な女優だった。

2009年11月 4日 (水)

美しい初恋の思い出がする韓国の島々

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   高校時代、授業の合間に帝国書院の地図帳をながめて、いつか愛する人ができたら二人で世界中の島々を旅してみたい、と思っていた。残念ながらそれは夢で終りそうだが、最近は映画・ドラマの舞台が美しい海がみえる小島がよくでてくるのでチョット気になる。とくに韓国は朝鮮半島の周囲に無数の小島があるのでよく登場する。「オール・イン」や「宮廷女官チャグムの誓い」の舞台である済州島はあまりにも開発が進みリゾート化されているので興味がない。映画「僕の、世界の中心は、君だ」で主なロケ地となった巨済島は慶商南道にある韓国で2番目に大きい島。釜山から近い。対馬にも近い位置にある。「冬のソナタ」で「不可能な家」が実在する外島(ウェド)も近くにある。ハンリョ国立海上公園内に位置している個人所有の島。「春のワルツ」の舞台となった青山島(チョンサンド)は全羅南道莞島(ワンド)郡青山面にある14個の島の中で、一番大きい島。お花畑のあるきれいな島だ。お金もないし、体力もない。映像や写真をみながら地理の勉強をしよう。韓国の地理は知らないので、韓国ドラマと地図帳で勉強する。

かわいそうな金持娘

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    バーバラ・ハットン(1912-1979)は4歳で母を、7歳で大好きな祖父を亡くした。祖父F・W・ウールワースは総合小売業の草分け的存在の人物で、彼の巨額財産の一部が孫娘のバーバラに残された。その額は現在の額に直すと約5億7千万ドル。21歳で社交界デビュー。パーティーに出席すると「お金があると幸せも買えるんでしょ」と女性たちに皮肉られた。会場から出ると、有名人みたさに集った群衆から腐ったトマトや卵を投げつけられた。硫酸をかけられたこともあった。バーバラは少女時代ふっくらとしていたが、最初の夫アレクシスに「君は太りすぎだよ」と言われて、極端なダイエットで拒食症になった。生涯7度の結婚。最初の相手はロシア貴族のアレクシス・ムディバニ公。2番目はデンマークのコート・ハウクウィッツーレンベルトロウ、3番目は俳優のケーリー・グラント、テニスの名選手ゴッドフリート・フォン・クラムなど。60歳を過ぎて、バーバラはカリフォルニアのビーチボーイを部屋に入れるようになった。1979年、ホテルの一室ですでに亡くなっているのが発見された。かつてイギリスの俳優ノエル・カワードはバーバラを「かわいそうな金持ちの小さな女の子」と呼んだ。

2009年11月 3日 (火)

僕の、世界の中心は、君だ

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    原題は「波浪注意報」。日本公開のタイトルは、スホ(チャ・テヒョン)が星空の下で二人の永遠を願うスウン(ソン・ヘギョ)に「これからは僕の世界の中心は君だ」と究極の愛を告白をする言葉からきている。もちろん片山恭一の小説「世界の中心で、愛をさけぶ」の韓国リメイク版。世間での評価は低いかもしれないが、巨済島(コジュド)の花が咲いている美しい景色を見ているだけで癒される。ソン・ヘギョのセーラー服姿ももう見られないだろう。

   スホとかスウンを漢字で書くとどんな字になる、とお互いに手のひらに書いて見る韓国ならではのシーンがある。スホという名前は韓国ではよくある名だ。「春のワルツ」もスホだった。「スーホの白い馬」にででくる「スーホ」はモンゴル人の名前にしては変だという指摘がなされたことがある。おそらく中国の本から漢音で訳したためである。韓国人名も漢字ありきで、それに韓国流の音がつく。漢語で「約束」は「ヤクソク」とほぼ日本語と同音になることはよく知られている。たが韓国語は日本語と同じウラルアルタイ語系に属しているものの、いくら聞いてもわからない。韓国のポップスを聴くと、なんとなくカンツォーネに近い感じがする。人名で「ソルミ」(女性名)など、イタリア人の名にあったように思う。韓国人が愛を告白することがストレートなのもイタリア人によく似ている。イタリアの艶笑喜劇が好きだが韓国のラブストリーも好きだ。同じ素材で各国が競作するのも国民性がでていて楽しい。

歴史人物の評価の難しさ

    来年のNHK大河ドラマは福山雅治の「龍馬伝」である。坂本龍馬は昭和43年に北大路欣也で「竜馬がゆく」を放送している。その外これまでも何人もの役者が演じているだろう。いささか新鮮味に欠ける気がする。歴史的にみて坂本龍馬は過大評価されすぎ。龍馬が関連した幕末の事件といえば、「薩長同盟」と「大政奉還」。しかし「薩長同盟」の本当の立役者は中岡慎太郎であり、「大政奉還」は後藤象二郎の功績のほうが大きい。維新後、土佐人は薩摩や長州に負けないだけの英雄像を創り上げたのであろう。これまで大河で取り上げなかった高杉晋作のほうがいいように思う。

    このように歴史的に人物評価することはなかなか難しい。現代美術でも印象派、フォービズム、キュビズムなどの流れのなかで、ゴッホ、セザンヌ、マチス、ピカソなど巨匠とされるが、同じフォービズムの仲間でもブラマンク、ドランはやや過少評価されているように思える。これは彼らがナチスの協力者とみなされて烙印をおされたことと関連するように思える。ナチスの退廃芸術追放が芸術家にとって忌まわしいことであるが、彼らの芸術性そのものとは無縁のことと思えるのだが、なかなかそうはいかない。もう少し時代を経てみなければ評価は定まらないのだろうか。

    日本の近代文学についてもいえる。志賀直哉の小説、文体、スタイルを神様のように信奉する人は純文学のなかでは多い。評論家・小林秀雄の後押しもいくぶん影響しているだろう。阿川弘之が現代文壇の重鎮であることも関連する。ともかく志賀直哉の弟子にあたる作家が多くいることは、彼の文壇での地位をゆるぎのないものにしている。ところが志賀の全仕事、作品そのももの数では長編は「暗夜行路」のであり、珠玉の短編はあるものの、戦後は「灰色の月」か随筆くらいで文壇では老大家という印象がある。これに反発を感じていた太宰治や織田作之助たち。彼らの人生は時代が悪く、破滅、悲惨そのものであったが、不思議に現代の若い世代に共感され、表現方法は太宰の影響が見える。各種の読書調査においても太宰治がダントツで一位をなることが多い。同世代の小林秀雄や三島由紀夫などはまるで太宰を評価していない。だが50年後、どのようになるかわからないが、いまも普通の男性の作家は太宰のようなものをどこか意識して書いている風に思える。日本の近代文学史のとくに昭和からの流れは、なかなか難しくて、主流が何であるか見えにくいところがあるが、作家の本当の評価も死後100年はかかると思う。

2009年11月 2日 (月)

今日の名画

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 ホドラー 「走る女たち」 1895年 ジュネーブ美術館

    フェルディナント・ホドラー(1853-1918)はスペインのベルンに生まれ、5歳のとき父を、14歳のときに母を亡くし、貧困のなかで育った。1869年トゥーンでフェルディナント・ゾンマーに学び、1872年ジュネーブに出て風景画・歴史画家バルテルミー・メンに師事した。一方、デューラーやレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画論も研究した。1878年にスペインのマドリードに旅行している。初期にはコロー、クールベや印象派の影響のみられる自然主義的な作品を描いたが、1880年後半から作風が変わり、印象主義の影響はなくなり、シンメトリーとパラレリスム(平行原理)によって配置する独特なリズムで群像的な人物を描き、律動的な効果をあげ、表現主義の先駆者となった。後期には、近代的感覚にあふれた歴史画、寓意画などで独自の画風を確立した。

変節漢

    もうはや今年も一年を回顧する季節になったが、やはり雑誌の休刊が相次いだことが印象的である。とくに総合オピニオン雑誌「諸君!」(文芸春秋)は6月号で休刊した。創刊は昭和44年6月という。たしかに総合誌はあまり若い読者はいないし、書き手も多くは亡くなり、近頃の大学の学者たちはあまり過激な論文はないように思える。そのため「論座」「月刊現代」そして「諸君」と消えていった。「諸君!」は「正論」と並んで保守オピニオン誌の代表誌である。休刊を惜しむ人、歓迎する人、さまざまであろう。わたしは政論に無関心であるが、そのむかし清水幾太郎(1907-1988)が「日本よ国家たれ、核の選択」(諸君1980年7月号)が掲載されたときは衝撃的であった。清水幾太郎といえば、何といっても戦後の「反基地闘争」「反安保闘争」などをリードした進歩的知識人の代表であった。「転向」「変節漢」などの声が聞かれた。だが思想の世界は、基本的にとどまるも良し、変転するも良し、一個人の自由であろう。

「日本も世界も猛烈な勢いで変っている。日本の高度成長にしても、終戦直後の日本人に想像もつかないことだった。・・・・Aの時点で言ったことと、Bの時点で言うこととは、同じことであろうはずはないですよ。隠居してしまえば別ですがね・・・・」清水はこのように言っている。それから社会主義国のソビエトが解体した。大国がもろく崩壊するのを初めて見た。凡人はあとで知る。清水クラスのインテリは先を読む。清水ほどではなくても、身近にいる全共闘世代も変節するのが得意だ。むかし館長を難癖をつけて攻撃しておきながら、30年後のいま自らがその職にいる。当人にはそれなりの理由づけがなされるのだろうが、端で見て知っている者にはどうにも官の無定見さが愚かしく思える。人生、隠居するのが一番である。

2009年11月 1日 (日)

文士夫人職業十二景

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原泉              吉行あぐり

   「文学時代」昭和5年8月号に「文士夫人職業十二景」というグラビアがあり、吉行エイスケ夫人の美容院、中野重治夫人の左翼女優、中河与一夫人の託児所所長、蕗谷虹児夫人の手芸教室、山田清三郎夫人の産婆、江戸川乱歩夫人の下宿女将など紹介されている。

  吉行あぐりの美容院はドラマ化されてよく知られている。中野重治夫人とは原泉(1905-1989)のことである。舞台女優としての活躍は知らないが、戦後日本映画での老婆役では一番の女優さんだ。「獄門島」「犬神家の一族」「悪霊島」「丑三つの村」「遠雷」など祖母、祈祷師、鬼婆などの役が多い。

    本名は原政野(まさの)、戦前は原泉子(はらせんこ)、戦後は原泉(はらいずみ)という芸名で活躍していた。

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