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2009年10月24日 (土)

宿敵

   昭和28、29年当時、五島慶太(1882-1959)傘下の小田急電鉄は、新宿を起点に箱根湯本まで特別車を乗り入れ、さらに小田原ー湯本ー小涌谷ー強羅を走る箱根登山鉄道を子会社として、一応、東京ー強羅間を支配下に収めた。しかも、強羅から早雲山の間にケーブルカーも開設した。

    ところが、そこから前面に広がる箱根観光の中心で、箱根火山の火口原湖である芦ノ湖は、宿敵・堤康次郎(1889-1964)傘下の駿豆鉄道の手中になり、その結果、五島勢の西進政策は行き詰っていた。

    これに対して、堤勢は、熱海を起点に五島勢が喉から手が出るほど欲しい芦ノ湖には、元箱根ー箱根町ー湖尻間に遊覧船を浮かべていた。しかし、東進政策をとる堤勢にとっても、箱根登山鉄道は大きな魅力であると同時に、越えがたい障害であった。

    そこで、堤康次郎は箱根権現に「我が社が占有する箱根の道路を、東急の五島慶太、小田急の安藤楢六という札付きの大悪党が、自分の会社のバスを乗り入れて勝手気儘に振る舞っている。神様、どうかあなた様のお力で、このような悪党が一刻も早く処罰されますように、伊豆箱根鉄道の従業員1167名ともども、精神をこめ、涙をもって祈願し奉ります」と願をかけた。

    とにかく、天下の難所箱根をめぐって、「ピストルの堤」と「強盗慶太」の宿敵の競争は執拗で、五島慶太は昭和34年に満77歳で生涯を閉じたが、そのとき、堤は、五島の葬儀の日にもかかわらず取材にきた新聞、雑誌記者を前に、「五島が死んで世の中が急に明るくなった。あんな悪党の葬儀なんか行くものか」と、盛大な祝杯を挙げた。

    一方、病魔に襲われた五島は、常に、枕元に、箱根一帯の地図を置き、深夜、眼をさますと明かりをつけて「堤奴に箱根山をとられてはだめだ」と、地図を食い入るように見つめていた。しかし、病状が悪化したとき、病院の窓からスズメの飛ぶのを指し、「俺も鳥になって箱根山にも飛んで行きたい。」と漏らしていた。

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