推理小説が文学として認められるまで
昭和27年、松本清張は木々高太郎にすすめられ、「記憶」「或る小倉日記伝」を三田文学に発表した。そして「或る小倉日記伝」が翌年下半期の芥川賞受賞となった。その選者の一人、坂口安吾は、「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変わりながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った」と、その後の推理小説の作家としての資質を予見する発言をしている。清張はその後、「点と線」「眼の壁」「黒い画集」「小説帝銀事件」「ゼロの焦点」「波の塔」「砂の器」と次々と傑作を発表するが、文芸評論家の間ではまだ純文学だけが文学であり、推理小説は評価の対象にならなかった。ただ伊藤整は「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功した」と松本清張を評価した。しかし、その伊藤も自身が編集委員を務める中央公論社の「日本文学全集」全80巻の中に松本清張の名前は無かった。編集委員は谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンである。編集部では、人気作家の松本清張に1巻を与えたかった。編集会議で松本清張が俎上にのると、三島由紀夫は「松本清張?清張にどんな作品がある?」と反対し、その剣幕に押されてか、他の編集委員も強く異論を唱えることもなく、結局この全集に松本清張は採用されなかった。
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