マティスとその仲間たち
アンリ・マティス(1869-1954)は今世紀最高の革新的な画家の1人である。マティスの芸術は「心を慰める絵画」といわれるが、彼の一生も画家仲間やパトロンに恵まれ幸福なものであった。
マティスは北フランスの町ル・カトー・カンブレンスに生まれた。1892年にパリ美術学校に入り、ギュスターヴ・モローに認められる。モローのアトリエでアルベール・マルケ(1875-1947)、シャルル・カモワン(1879-1965)、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)、アンリ・マンギャン(1874-1949)等と知り合う。1899年にはレンヌ街のアカデミー・カリエールに学び、そこでアンドレ・ドラン(1880-1954)、ビエット、ジャン・ピュイ(1876-1960)、ピエール・ラプラード(1875-1931)、オーギュスト・シャボー(1882-1955)等と知り合う。1903年に創設されたサロン・ドートンヌではシャルル・ゲラン(1875-1939)、ラプラード、マルケ、ルオー、マンギャンらと作品を並べた。1904年、サントロペ滞在中にアンリ・エドモン・クロスとポール・シニャック(1863-1935)に出会った。1905年マティスはマルケ、モーリス・ド・ブラマンク(1876-1958)、ドランとともに、サロン・ドートンヌに出品。ルイ・ヴォークセルによって「フォーヴ(野獣)」と名づけられる。マティスの生涯において、次に重要な出来事はよき理解者との出合いである。スタイン家との出合いである。スタイン家の紹介で進歩的な批評家のグループや画商、美術愛好家とも知り合った。またロシアの教養ある豪商セルゲイ・シュチューキンの庇護も受けた。1909年、マティスはシュチューキンの自邸を飾る2点の壁画「ダンス」「音楽」を制作した。パブロ・ピカソとは1906年ころ知り合った。このほか、フォーヴ仲間の画家たち、キース・ヴァン・ドンゲン(1877-1968)、ルイ・ヴァルタ(1869-1952)、ラウル・デュフィ(1877-1953)、エミール・オトン・フリエス(1879-1949)、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)など多くの仲間がいる。
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