長英逃亡
江戸小伝馬町の牢獄で6年を過ごした蘭学者の高野長英(1804-1850)は、もはや忍耐の限界にあった。モリソン号事件では、「戊戌夢物語」を書き、これが致命傷になったのである。そのため幕府に逮捕され、永牢となり小伝馬町の牢屋につながれた。弘化元年3月の明け方、この牢屋敷から出火した。長英に買収された牢番の雑役夫が放火したが、牢火事の場合、囚人には「お切り離し」の制度があった。ただし3日限りだ。戻らなければ死罪となる。しかし長英はそのまま逃亡する。以来数年間にわたる逃亡生活がはじまる。水沢の老母を見舞って東北各地を歩き、また四国宇和島の伊達宗達の庇護のもとに1年、だが脱獄囚を追う指名手配は執拗に追ってきた。ついに顔面を硝酸で焼いて変身、江戸にまいもどった。沢三伯の変名で青山百人町に医院を開き、精力的に研究・翻訳をつづけた。しかし、嘉永3年10月末のある日、7人の捕吏に襲われ、十手で殴り殺された。一説にはみずから喉を貫いたともいわれる。
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