顔回
孔子の門人は、史記によると「3千人と推定される。六芸に通じたものが72人あった」と記している。孔門十哲とは、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏、顔回である。これ以外にも曾子、有子、子路、有若、曾皙、公西草、孔鯉、子羔、冉雍、子容、子思、子遅、子華、子與、子張、子羽、子牛といった人物がいた。その中でも孔子は顔回(顔淵)を非常に大事に思った。
顔回(前522-前482、一説には前514-前483)。字は顔淵。顔回は貧しい暮らしのなかでも、つねに勉強を怠らない人物であった。孔子はいつも彼を誉めていた。「顔回は立派だ。粗末な食事をし、清水を飲み、狭い路地の奥に住んでいて、ほかの人なら憂い悩むところを顔回は道を学ぶ楽しさを忘れない」また、こう言ったこともある。ある人が「弟子のなかで、だれが一番学問好きか」と質問すると、孔子はただ一人、顔回の名をあげ、「それ以外に学問好きなものはいない」と答えた。しかしながら、顔回は若いときからの苦労のせいか29歳のときねすでに頭髪は総白となり、魯国に帰国した2年後、41歳で死んでしまった。孔子は「ああ、天われをほろぼせり」といって嘆いた。
孔子の母は顔徴在といい、顔氏の娘なので、顔回は母方の一族かもしれない。
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