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2009年10月31日 (土)

交尾と性交の文化人類学

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  おおよそ45億年ほど前に誕生したこの地球に人類が出現したのは、今から約440万年前のことである。近年、エチオピアでラミダス猿人の全身骨格が分かる化石が発見された。学名をアルディピテクス・ラミダスといい、女性であることから愛称「アルディ」という。アルディは身長120センチ、体重50キロで、すでに直立二足歩行しているものの、男女の性差は少なく、乳房も小さい。のちのアウストラロピテクスに比べて繁殖力は弱い。類人猿のラマピテクスは二足歩行していないので、生殖器を直接つなぎあわせる生殖行為は交尾であるが、直立二足歩行のアルディは性交により子孫を残さねばならない。だが乳房が未発達のため、男性の性欲をいかに増進させるかが大きな課題となった。二足歩行した女性にとって尻(臀部)にかわって乳房の発達が進化の課程で求められていく。旧石器時代のヴィーナス像は子孫の繁栄を願い、巨大化した乳房が特徴的であるがそのことを物語っている。

マティスとその仲間たち

    アンリ・マティス(1869-1954)は今世紀最高の革新的な画家の1人である。マティスの芸術は「心を慰める絵画」といわれるが、彼の一生も画家仲間やパトロンに恵まれ幸福なものであった。

    マティスは北フランスの町ル・カトー・カンブレンスに生まれた。1892年にパリ美術学校に入り、ギュスターヴ・モローに認められる。モローのアトリエでアルベール・マルケ(1875-1947)、シャルル・カモワン(1879-1965)、ジョルジュ・ルオー(1871-1958)、アンリ・マンギャン(1874-1949)等と知り合う。1899年にはレンヌ街のアカデミー・カリエールに学び、そこでアンドレ・ドラン(1880-1954)、ビエット、ジャン・ピュイ(1876-1960)、ピエール・ラプラード(1875-1931)、オーギュスト・シャボー(1882-1955)等と知り合う。1903年に創設されたサロン・ドートンヌではシャルル・ゲラン(1875-1939)、ラプラード、マルケ、ルオー、マンギャンらと作品を並べた。1904年、サントロペ滞在中にアンリ・エドモン・クロスとポール・シニャック(1863-1935)に出会った。1905年マティスはマルケ、モーリス・ド・ブラマンク(1876-1958)、ドランとともに、サロン・ドートンヌに出品。ルイ・ヴォークセルによって「フォーヴ(野獣)」と名づけられる。マティスの生涯において、次に重要な出来事はよき理解者との出合いである。スタイン家との出合いである。スタイン家の紹介で進歩的な批評家のグループや画商、美術愛好家とも知り合った。またロシアの教養ある豪商セルゲイ・シュチューキンの庇護も受けた。1909年、マティスはシュチューキンの自邸を飾る2点の壁画「ダンス」「音楽」を制作した。パブロ・ピカソとは1906年ころ知り合った。このほか、フォーヴ仲間の画家たち、キース・ヴァン・ドンゲン(1877-1968)、ルイ・ヴァルタ(1869-1952)、ラウル・デュフィ(1877-1953)、エミール・オトン・フリエス(1879-1949)、ジョルジュ・ブラック(1882-1963)など多くの仲間がいる。

図書館は社会の未来をはぐくむ

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    活字離れ、不景気などで本をめぐる状況が悪くなっている。かってどこの町にも小さな本屋さんがあったが、ここ数年、閉店が目立っている。もちろんチェーン化している大型書店はかなり儲けているが、もう本屋は小さな店では営業は成り立たないのだろうか。そんなときテレビ番組「エチカの鏡」で江戸川区篠崎町の書店の清水克衛さんのことが紹介されていた。彼は「本のソムリエ」といわれ、お客さんが全国から彼のオススメの本を教えてもらうために来店するという。そこの書店はベストセラーよりも、10年前、5年前に出版された本でも置いていて、お客の悩みにあった本をさがしてくれる。店員が本をよく読んでいて、その本の良いところを紹介するのである。もちろん図書館でも調査相談業務はあるが、個人的なメンタルな部分は業務外であろう。民間がその部分を行っているというユニークな試みが評価されているのだ。だがそのような個人的な努力されているかたもいるものの、本が売れないのもの事実であろう。学習雑誌の老舗「小学5年生」「小学6年生」も休刊するという。少女マンガ誌「ちゅちゅ」も休刊する。アイドル誌「KIDAI」(近代映画)も休刊した。当たり前に小さな書店の店頭にあった雑誌が消えていく。今、なにかが起こっているのだろう。

    図書館をめぐる状況も悪くなっている。図書館雑誌の最新号のデータによると、都道府県立図書館の資料費はグラフのように近年、急激に減少している。学術的な出版物を扱ういい出版社の経営はますます悪くなるだろう。専門書はやはり大学図書館、都道府県立図書館の予算が頼りになるからだ。図書館の人の問題も深刻だ。専任職員が減少して、非常勤、臨時職員が増えている。これは市町村の公立図書館でも見られる現象である。「本のソムリエ」の清水さんのように、本のことをよく知っている人が図書館にいてもらえたら、利用者はよく図書館に来館するだろう。たんに検索して蔵書があるのか、ないのか、ではなくて、さまざまな要求に、会話を通じて応えられるような専門性がいま図書館員にもとめられている。

    そのような厳しい環境であるが、今日、明治大学では米沢嘉博記念図書館がオープンする。マンガとサブカルチュアの専門のユニークな図書館である。2014年には「東京国際マンガ図書館」(千代田区猿楽町)も開館する予定である。

    図書館は名著と向き合い新たな自分を発見する場であるが、マンガも100年以上の歴史があり、ふるい作品にはなかなか出会えることはできない。図書館がもっとマンガを収集保存するべきだと思う。日本の出版物の半分以上はマンガや雑誌であり、海外にも多く流布している。ほとんどがそのとき出版されると数年後に入手しようとしても不可能なものばかりである。マンガや雑誌には時代を反映した情報や広告など総合的な文化が反映されている。公共図書館がマンガの収集に積極的でないことは私の図書館経験から実態を知っている。職場でも無理解な人が多くて呆れ果てた。いま少しずつではあるが図書館内でもその必要性に気づきはじめたようだ。

濹東綺譚にみる東京風物

    震災後の東京風物は小説になりやすい。川端康成の「浅草紅団」や浜本浩「浅草の灯」など多数ある。なかでも永井荷風の「濹東綺譚」には昭和11年頃の東京風物がいろいろ克明に描写されていて興味深いものがある。浅草の活動写真、古本屋、吉原、震災後東京の変わり様、円タク、ラジオの騒音、場末の私娼街、カフェなどなど。たとえばこんな会話がある。

「この辺は井戸か水道か」
とわたしは茶を飲む前に何気なく尋ねた。
井戸の水だと答えてから、茶は飲む振りをしておく用意である。

チフスにならないよう注意していたようだ。お雪の髪型について詳しく描写されている。

盛り場の女は700から800人くらいだが、その中で、島田や丸髷を結っている女は、10人に1人くらいだ。大体は女給まがいの日本風と、ダンサー好みの洋装とである。

    そして、玉の井のお雪はドブ際の家に住んでいるが、いつも島田潰か丸髷を結っている。震災で消えていった過去の幻影を再現させてくれるのである。

    「濹東綺譚」は新聞に連載されたそうだが、たいへんな人気だったらしい。当時の読者は、消えていく江戸情緒を哀惜する明治人が多かったのであろう。

2009年10月30日 (金)

帝政ロシアの南下政策と海峡通航権問題

C01 ダーダネルス海峡の要衝の町チャナッカル

    18世紀後半以降、不凍港を求めて南下政策をとるロシア帝国と、地中海に利害をもつイギリス、フランスなどが対立した。1829年ロシアはアドリアノープル条約によって、ボスフォラス、ダーダネルス両海峡の通航権の確保をトルコ側に認めさせた。そして1833年、ロシアとトルコ間で相互援助条約であるウンキャル・スケレッシ条約を結んだ。しかし、この条約の秘密事項に、ボスフォラス・ダーダネルス両海峡のロシア軍艦の独占通航権があるとして、イギリスは強く反発した。1840年のロンドン会議で両海峡はあらゆる国の軍艦の通航が禁止されていた。つまりウンキャル・スケレッジ条約はわずか数年で反故になった。そしてクリミア戦争はロシアの敗北に終り、パリ条約によって黒海沿岸地域が中立地帯とされて、ロシアはいっさいの軍事施設の撤去をよぎなくされ、一隻の軍艦も黒海に浮かべることができなくなり、南下政策は挫折した。1870年からの普仏戦争でナポレオン3世が失脚すると、ロシアは外交攻勢をかけてパリ条約を改定することに成功し、黒海艦隊を再建した。その後幾度かの変遷を経て、ようやく1923年のローザンヌ会議で両海峡の国際化および非武装化、ならびに、原則としていかなる国の商船、軍艦にも開放されることを内容とする海峡協定が締結されて一応の決着をみ、1936年の海峡制度に関するモントルー条約によって再確認された。

岸辺のアルバム

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  昭和49年9月、台風16号の影響で増水した多摩川が決壊した。3日間に民家18戸が流出した。この出来事に着想をえた脚本家・山田太一はドラマ「岸辺のアルバム」を描いた。これまで昭和40年代のテレビはホームドラマの全盛期であったが、妻の浮気という負の面とマイホームの喪失というインパクトのある二要素が物語の骨格となっている。家が川の氾濫で流されることは、タイトルバックで当初から視聴者に知らせている。つまりどのようにして平凡な家庭が崩壊していくかを予告しているのである。このドラマは名作としてあまりにも有名である。シナリオライターを目指すものには教科書のような筋の展開である。またキャスティングがこれ以上のものはありえないというほどの絶妙さがある。脇役も光っている。とくにヒロイン八千草薫の友人・原知佐子の存在は重要であろう。良妻賢母、そしておとなしい感じの八千草が竹脇無我と単なる話相手の友だちから浮気の相手へと一線を超えるには何かの契機が必要である。原は重い病気で入院している。八千草は見舞いにしばしば病院を訪れ、若い男性と交際していることを話す。すい臓ガンと死の宣告をされた原は最後に八千草に自分も浮気をしていることを告白する。相手はなんと大学生。別れの話を八千草にことづけて死んでしまう。その大学生は単なる金めあての遊びで八千草は女の人生の儚さを感じる。生きている間、もっと人間らしい自由な生き方をしたいと考えるようになる。内気で世間知らずな女性だけにかえって思い切った行動に走ることがある。このように話の展開が自然にはこばれている。その大学生を演ずるのは穂積ペペ。かえるの風邪薬で有名に子役タレント。青年になって「飛び出せ青春」では、ダメな高校生。そしてこのドラマではイカレタ大学生。そういえば村野武範も杉浦直樹の生意気な部下として出演している。そして「ずうとるび」の新井康弘。歌手デビューして3年目、歌手がダメなので女優に転身したばかりのカワイイ風吹ジュン、と脇役が見逃せない。

2009年10月29日 (木)

若き日の釈迢空

   本名、折口信夫(1887-1953)は大阪府西成郡木津村(浪速区)に生まれた。はじめ服部躬治(1875-1925)の門をたたき、明治42年から根岸短歌会に出席、大正6年にはアララギの同人となった。古典的教養を踏まえた浪漫的な匂いのする作風である。

たびごころ  もろくなり来ぬ。志摩のはて 安乗の崎に、燈の明り見ゆ。(大正元年作)

どこの子のあぐらむ凧ぞ。おおみそか むなしき 空の ただ中に鳴る(大正5年作)

    大正3年、大阪の今宮中学校教諭の職を退いた折口信夫は、上京して小石川の金富町に下宿していたが、たちまち生活は窮迫していった。友人の武田祐吉が万葉集の口訳をして出版したらどうかとすすめた。「口訳万葉集」は参考書一冊もなしで書き上げた。訳了したものの、どこから出版するというあては無かった。いろいろ頼みまわって、芳賀矢一博士監修の「国文口訳叢書」に加えてもらえることになった。その第三篇として「万葉集・上」が出版されたのは大正5年9月、中・下巻が出たのはその翌年の6月であった。

ケルキラ島

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   ケルキラ島はギリシア北西部、イオニア諸島のうちもっとも有名で、島名もコルフ島(イタリア語)のほうがよく知られている。長くヴェネチアの支配を受け、現在もイタリアの影響が強くみられる。歴史的にはコルフ事件(1923年)、コルフ海峡事件(1946年)がある。

    1923年夏、ムソリーニはギリシアに軍艦を派遣し、コルフ島を砲撃、ついで占拠した。ギリシアの提訴をうけた国際連盟は列国大使に問題を任せ、大使会議はイタリア軍の撤兵とギリシアの賠償支払いを定めて事件を解決した。第二次世界大戦にさいし、コルフ島はイタリア・ドイツ軍に占領されたが、1944年10月イギリス軍より奪回された。1946年10月、コルフ海峡北部を通航中のイギリス艦隊のうち、2隻の駆逐艦が触雷大破し、86名の死傷者を出した。1946年11月、イギリスは艦隊を派遣し、同水域を掃海したことからイギリス・アルメニア間に紛争が発生した。イギリスは国際司法裁判所に提訴し、アルバニアはこれに反対したが、同裁判所は裁判管轄を認めた。1949年、イギリス軍艦の無害通航を認めてアルバニアに賠償責任ありとし、他方、イギリスの掃海作業については国際法違反とする判決を下した。同年末さらに賠償額認定について、イギリスの主張する額を認める判決を行った。

2009年10月28日 (水)

金森長近と飛騨高山城

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    金森長近(1524-1608)は織田信長に仕えて柴田勝家を寄親として各地を転戦、戦功を立てた。賤ヶ岳の戦いでは秀吉方につき、天正14年飛騨高山に3万8000石で入封。天正16年、天神山に高山城を着工。関ヶ原の戦いでは徳川方に属した。晩年は素玄と号し、茶人として知られる。6代目金森頼旹(よりとき)の元禄5年、高山は天領となる。代わって関東郡代が飛騨代官を兼ねたが、高山城の在番すなわち維持管理には、加賀藩主前田綱紀が命じられた。在番にはとほうもなく費用がかさむ。前田家はあの手この手で働きかけ、ようやく幕府から破却命令をえた。元禄8年に大がかりな破却作業が完了、高山城の姿は消えた。城に代わる高山陣屋は、金森家の下屋敷が改造して使われ、城内から稲荷神社や米蔵が移され、明治時代には飛騨県事務所などに利用された。ドイツの建築家ブルーノ・タウトは、陣屋としては日本でただひとつ残る高山陣屋をみて、「高山で興味をひいたのは、旧陣屋を改造した飛騨支庁の建物であった」とその日記に記している。

インケツの政

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    映画「秋深き」(池田敏春監督)は織田作之助の短編「秋深き」「競馬」を映画化したものである。とくに「競馬」の筋をベースに現代に置き換えている。原作は青空文庫で読むことができるらしい。ここでは「競馬」と映画との共通事項を取り上げてみる。

   「競馬」の主人公・寺田は小心者の教師。実家は仏具屋。見初めた女・一代は癌で死ぬ。競馬で迷いもせず「1」の数字を買う。映画では「1-4」の馬券。病気快癒のため神社などお百度参り。映画ではインチキの壺を買う。かつての一代の愛人「インケツの政」という男。映画では佐藤浩市が演じる。

   つまり映画と小説とでは大きくことなる。当然、テーマも違う。これは織田作之助の遺族側との話し合いで改変が可能だったのだろうか。ともかく原作を自由に変更しても、なおかつ原作の味があるというのは異例のことである。とくに「インケツの政」の存在は映画のほうがウェートが大きい。

「そんなある日、一代の名宛で速達の葉書が来た。明日午前11時、淀競馬場一等館入口、去年と同じ場所で待っている。来い」とある。葉書いっぱいの筆太の字は一代を自由にしていた男にちがいない。淀競馬場にいた男を寺田は再び浴室で見つける。背中に「一」という刺青がある。炭鉱のあらくれ坑夫が、稚児いじめに刺青をさせられたのだ。オイチョカブ賭博の一(インケツ)、つまりこの札を引けば負けと決まっている「インケツ」の意味である。競馬の好きないい女を知っている。よせばいいのに教師などと世帯をもったのはばかだった。

    原作に登場する「インケツの政」はこの程度の扱いである。織田作之助の「競馬」はタイトルどおり競馬小説のようで、夫婦愛があまり感じられなかったが、映画「秋深き」には切ない愛情が十分に表現されているように思う。

2009年10月27日 (火)

アルブケルケのマラッカ征服

    1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を発見して以来、ポルトガルはアジアの生産地と直接香料の取り引きができるようになった。まず1503年に胡椒の生産地である南インドのマラバル海岸に商館を築いて交易の拠点とし、さらに1509年にはディウ沖でマムルーク朝エジプト(イスラム軍)の連合艦隊を撃破、西インド洋の制海権をほぼ手中に収めた。

    2代目インド総督に就任したアルフォンソ・デ・アルブケルケ(1453-1515)は、1510年にインドのゴアを占領し、ポルトガル・インド帝国の首都とした。この余勢をかって1511年末インド洋の要衝マレーシアのマラッカを攻略した。マラッカのイスラム教のスルタンはマレー半島の南端ジョホールに逃れ、中国に支援を求めた。中国はシャム王にアルブケルケと戦うよう命じたが、スルタンと敵対していたシャム王は、むしろポルトガルのマラッカ征服を歓迎した。ポルトガルのマラッカ征服によって東南アジア貿易が確保され、アルブケルケは部下をモルッカ諸島に派遣して、1512年アンボイナに商館を設立した。1513年、当時ペルシアの領土であったアデンを攻略するため、アルブケルケはわずか3500人の手勢を率いて、紅海の入口に侵入したが、3時間の激戦の末、失敗に終わっている。ともかくアルブケルケはポルトガルでは軍神として崇められている。

秋深き

    映画「秋深き」(池田敏春監督)を見る。園田競馬場とか近場の風景が楽しい。原作は織田作之助の短編。新婚まもない妻が乳がんで死ぬ話だが、お涙頂戴ものではなくて、そこは大阪の夫婦もの、「夫婦善哉」のような味をうまく映像で表現できている。八嶋智人と佐藤江梨子のコンビがいい。もちろん男性視聴者はサトエリをめあてに見るのだが、露出シーンを排除したことがかえって成功している。乳がんをあえて切除しなかったことは愚かしい行為なのだろうが、そのことは若い夫婦のいちずな愛が乳房に象徴されていていいシーンだ。佐藤浩市など大物スターが脇役で出演しているが、日本映画の今の底力を見たような気がする。

    織田作之助は最初の妻、宮田一枝を病気で亡くしている。一枝はカフェーの女給、映画のサトエリは一代でホステス。時代は現代に変更しているものの、原作者・作之助の体験も少しはうかがえるように思う。

2009年10月24日 (土)

宿敵

   昭和28、29年当時、五島慶太(1882-1959)傘下の小田急電鉄は、新宿を起点に箱根湯本まで特別車を乗り入れ、さらに小田原ー湯本ー小涌谷ー強羅を走る箱根登山鉄道を子会社として、一応、東京ー強羅間を支配下に収めた。しかも、強羅から早雲山の間にケーブルカーも開設した。

    ところが、そこから前面に広がる箱根観光の中心で、箱根火山の火口原湖である芦ノ湖は、宿敵・堤康次郎(1889-1964)傘下の駿豆鉄道の手中になり、その結果、五島勢の西進政策は行き詰っていた。

    これに対して、堤勢は、熱海を起点に五島勢が喉から手が出るほど欲しい芦ノ湖には、元箱根ー箱根町ー湖尻間に遊覧船を浮かべていた。しかし、東進政策をとる堤勢にとっても、箱根登山鉄道は大きな魅力であると同時に、越えがたい障害であった。

    そこで、堤康次郎は箱根権現に「我が社が占有する箱根の道路を、東急の五島慶太、小田急の安藤楢六という札付きの大悪党が、自分の会社のバスを乗り入れて勝手気儘に振る舞っている。神様、どうかあなた様のお力で、このような悪党が一刻も早く処罰されますように、伊豆箱根鉄道の従業員1167名ともども、精神をこめ、涙をもって祈願し奉ります」と願をかけた。

    とにかく、天下の難所箱根をめぐって、「ピストルの堤」と「強盗慶太」の宿敵の競争は執拗で、五島慶太は昭和34年に満77歳で生涯を閉じたが、そのとき、堤は、五島の葬儀の日にもかかわらず取材にきた新聞、雑誌記者を前に、「五島が死んで世の中が急に明るくなった。あんな悪党の葬儀なんか行くものか」と、盛大な祝杯を挙げた。

    一方、病魔に襲われた五島は、常に、枕元に、箱根一帯の地図を置き、深夜、眼をさますと明かりをつけて「堤奴に箱根山をとられてはだめだ」と、地図を食い入るように見つめていた。しかし、病状が悪化したとき、病院の窓からスズメの飛ぶのを指し、「俺も鳥になって箱根山にも飛んで行きたい。」と漏らしていた。

2009年10月23日 (金)

出処進退

Photo_2   今季のプロ野球も日本一をめざして終盤を迎えている。そんな中、一人の偉大な野球人が球界を去ろうとしている。野村克也である。現役時代の活躍はもちろんのことだが、長い監督時代も多くのプロ野球ファンを楽しませてくれた。本当に心から「お疲れ様でした」といいたい。最後の野村語録は「監督失格。4年やっても何も教育できていない。解任されて当然」と。野村一流の皮肉が面白い。球団から要請された名誉監督と背番号19を永久欠番にする話を蹴ったという。「楽天イーグルスは好きだが、楽天は嫌いだ」という発言も痛快である。いまつまらない日本人が多くなった。1565勝1563敗76分。弱小球団を采配したことを考えれば立派な数字である。もう野村のボヤキが新聞の活字にならないのかと思うと淋しい。

   ところで名誉監督というポストが何時頃から流行りだしたのか知らないが、あまりいいイメージはしない。一流企業や官公庁などでも第一線を退きながら元老格として、影で権力をふるおうとする仕組みだ。スポーツ、芸術家、小説家などは自由業で本来地位、名誉より白球を追う、美しい音を奏でる、文字で表現する、など人間的な行為の所産である。それをビジネスにして管理される組織人となることは悲しむべきことである。コーチ、監督、大学教授、医師、弁護士、芸術院会員、ノーベル賞、これらの地位、肩書き、賞状は人間の優劣とは無縁のものであろう。獲得的地位に固執する人ほど見苦しいものはない。ある老政治家がなかなか引退しないので、総理大臣がお願いに行ったところ、激怒したという話は有名であるが、なにごとも晩節はけがしたくないものである。獲得的地位はいずれは返上するものなので、時期がくれば、潔く後進に道を譲るほうがいいと思う。

2009年10月21日 (水)

冬近し

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   10月も半ばを過ぎて、秋も終わりに近づくと、野山にも街のたたずまいにも、冬のきざしが漂い始める。

    鶏頭きれば卒然として冬近し

                   島村はじめ

「佐分利信」芸名の謎

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  佐分利信、本名は石崎由雄(1909-1982)。昭和5年、日活に入社し、翌年、島津元の芸名でデビュー。昭和10年に同じ年の上原謙(本名、池端清亮)と揃って松竹蒲田に入社。島津保次郎監督は自分と同じ苗字ではまずいということで、「佐分利信」と改名した。名前は箱根冨士屋ホテルでピストル自殺した駐華公使・佐分利貞男に由来する(左利きの公使が右手にピストルを持っていたことから他殺の疑いもある)。また画家の「佐分真」に由来するともいわれる。このほか小津安二郎が川中島で雌雄を決した上杉謙信、武田信玄の両雄から1字ずつを上原謙、佐分利信に与えてライバル意識をかりたてたともいわれる。佐分利貞男は昭和4年に、佐分真(1898-1936)も昭和11年に亡くなっているが、故人とどのような関係があるのか不明である。

2009年10月20日 (火)

服部姓の研究

   平凡社の「世界大百科事典(1973年版)」で服部の苗字の人物を調べる。服部宇之吉(1867-1939)、服部南郭(1687-1759)の2人が採録されている。学研の「グラント現代百科事典(1983)では、そのほかに服部土芳(1657-1730)、服部半蔵(1542-1596)、服部嘉香(1886-1975)、服部嵐雪(1654-1707)の6人である。「コンサイス日本人名事典」(1990年版)ではそのほかに、服部安休(1619-1681)、服部因淑(1752-?)、服部英太郎(1899-1963)、服部金太郎(1860-1934)、服部之総(1901-1956)、服部四郎(1908-1995)、服部伸(1880-1974)、服部蘇門(1724-1769)、服部卓四郎(1901-1960)、服部達(1922-1956)、服部中庸(1757-1824)、服部撫松(1842-1908)、服部栗斎(1736-1800)、服部良一(1907-1993 )の19人が採録されている。「日本人物文献目録」(1974年版)ではそのほかに、服部綾雄(教育者)、服部有恒(芸術家)、服部勇、服部一三、服部鋭太郎、服部嘉十郎、服部倉次郎(水産)、服部けさ子(女医)、服部健三(薬学)、服部静雄(文学)、服部菅雄(文人)、服部轍、服部権、服部文四郎(経済)、服部平右衛門、服部甫庵、服部正己、服部躬治(歌人)、服部元好(狂歌)、服部保敏、服部米次郎、服部与兵衛、服部亮英(美術)の33人である。

    このなかで、注目すべき人物としては、服部躬治(はっとりもとはる、1875-1925)である。明治の歌人。歌集「迦具土」。(明治34年)福島県生まれ。上京して国学院に学び、明治26年、落合直文の「浅香社」を興すにあたり、その傘下に加わり、31年久保猪之吉・尾上柴舟らと「いかづち会」を結び、新派和歌運動の一翼となった。「国文学」「心の花」などに論文・国文評釈などを書き「文庫」の選者となり、また「明星」に寄稿した。37、38年ごろ、跡見女学校に教え、その学校を中心に蘋(かたばみ)社を結び、「あまびこ」を出したが二号で終刊。34年歌集「迦具土」を上刊。浪漫歌風であるが、古典的教養を踏まえた個性味豊かな特異な一集で、新派和歌運動期の記念作である。大正以降は歌壇から遠ざかった。著作としては「恋愛詩評釈」(明治33)「春夏秋冬名歌選」(明治44)などがある。その妹、服部てい子は水野仙子(1888-1919)の名で明治から大正期にかけて女流作家として活躍した。代表的に歌として「峠路に今ゆき合ひし巡礼の唄は霞の中になりぬる」がある。旅の途次、とある峠路で巡礼にゆき合ったが、たちまちのうちに遠ざかり、そのうたう御詠歌が今はかなたの霧の中に聞えてくる、という切ない哀感がただよう。

    現代の著名人としては、服部真湖、服部美貴、服部沙智子、服部浩子(歌手)、服部道子(ゴルフ)、服部克久(音楽)、服部隆之(音楽)、服部幸應(料理)、服部祐兒(相撲)、服部泰卓(野球)などである。服部祐兒は昭和58年から62年まで大相撲で活躍。四股名も「服部」で学生横綱として話題となった。服部金太郎は服部時計店、セイコーの創業者であるが、同姓同名の服部金太郎には図書館学者もいる。1992年、ルイジアナ州バトンルージュで射殺された留学生・服部剛丈さんも記憶に生々しい。

    服部姓は、「はたおり」(機織)のつまったもので、むかし機織木を職として朝廷に仕えた職業部の一つである。

2009年10月19日 (月)

尽く書を信ずれば則ち書なきに如かず

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   これは「孟子」の「尽心」篇の一節である。「書」というのは『書経』のこと。つまり『書経』に書かれてある記録をすべて信じ込むなら、『書経』などむしろ読まない方がよい。本というものは、著者が自分の意見をのべたものであり、その意見はあくまで著者個人のものである。それをそのまま受け入れたり、無批判に自分の意見とするならば、天下には無数の異なった見解の書物があるわけだから、迷うばかりで、全然書物を読まないのと同じことだ、というのである。これは孟子の戦国時代だけでなく、現在のように情報が氾濫する時代にあっては、ますます必要とされる箴言といえよう。

2009年10月18日 (日)

ヨーロッパ中世の大学と学問

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   12世紀にはボローニャ、パリ、サレルノ、オックスフォードに大学ができた。13世紀になるとナポリやケンブリッジやパドヴァやローマなど、ヨーロッパ各地に大学が創設される。12世紀から、アラビア語の多くの書物がラテン語に翻訳されるようになった。バースのアデラードがユークリッドの「原論」全15巻をアラビア語からラテン訳した。ほかにドミンゴ・グンディサルポ、カリンティアのヘルマン、ヴェネツィアのジャコモ、へリンクス・アリスティップス、クレモナのゲラルドらが翻訳活動をした。翻訳されたのは最初は数学や化学、光学、医学など、主に科学や技術に関する書物であったが、やがてその思想的背景でもアリストテレスの気象学や自然学、形而上学などが、直接ギリシア語から訳されるようになった。大学とは、翻訳を通じてもたらされたこの膨大な新しい学問を研究・発展させるための機関であった。アリストテレス「自然学」の注を書いたロバート・グロステスト(1168-1253)とその弟子ロジャー・ベーコン(1219-1292)は技術と科学を結びつけた点で注目される。

八木保太郎

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    戦後、生活綴り方教育で知られた無着成恭の編集した「山びこ学級」は山形県山元村の新制中学校の生徒たちの作文集「きかんしゃ」がもとになっている。本書は未読だが、先日その話をもとにした映画「山びこ学級」(今井正監督)を見た。むかし見たように思うが、改めて見て感心した。シナリオがいい。とくにみんなで「トンコ節」を合唱するところが。おしつけの道徳教育ではなくて、生活の中で自ら問題意識をもつことの大切さを強調している。その教えがトンコ節のエピソードにあらわれている。芸者のお座敷ソングが当時流行っていた。田舎の子供たちもラジオで聞いて知らぬものはない。だがなぜ芸者は帯をとかねばならぬのか、どういった境遇なのか、考えてみよ。東北はむかしから貧しさから娘売りが流行った。戦後もまた娘売りがでているという。娘は都会にでてどうなるのか。そうするとこの流行歌にも東北の現実があらわれている。歌詞の意味をよく理解してみよう、ということだ。生活教育が映画の全編にみなぎっている。この映画はおそらく劇団民芸が舞台で先にやって好評だったので、映画化されたのだろう。主演は木村功だが、ほかにも滝沢修や北林谷栄など名優がずらり出演している。民芸では下元勉が青年教師を演じていた。シナリオは八木保太郎(1903-1987)という日本脚本界の大物である。満映時代からのベテラン脚本家の壮年時代、油ののった傑作なのだ。脚本とはこういうものだというお手本ともいえる。昨今、NHK連続テレビ小説の脚本が低下している。ただ面白そうな話をつなげただけでは人のこころにひびかない。いまの脚本家は登場実物のキャラクターを設定して、あとはキャラクターが自然に動き出す、などということをよくいう。デタラメな話だ。ドラマには1本筋の通ったところがないといけない。木村功の青俳時代のNHK「アイウエオ」(脚本・早坂暁)は明治百年を記念したドラマだったが内容もすばらしかった。ギャラクシー賞を受賞している。ドラマはシナリオが大切だ。

2009年10月15日 (木)

ラスト、コーション

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    1938年。日本軍の中国への圧力が高まり、香港に逃れた女子学生のワン・チアチー(タン・ウェイ)。香港の演劇部で、レジスタンスの学生クァン・ユイミン(ワン・リーホン)を愛するようになる。ワンはイー(トニー・レオン)をハニートラップ(色仕掛け)で暗殺する計画をもちかけられる。貿易商のマイ夫人と偽り、イーに近づく。しかし彼らの計画は失敗に終る。

    1942年の上海。あの事件以来、本格的にレジスタンス活動に身を投じたクァンは、上海大学に通うワンを訪ね、もう一度、イー暗殺への協力を頼み込む。再びマイ夫人に扮し、イーに近づいたワン。彼女の仕組んだ罠とも知らずに、二人は身体の関係を結ぶ。しかし、逢瀬を重ねるうち、彼女は本気でイーに惹かれ、彼もワンを愛するようになっていった。やがて、暗殺実行の夜。イーがワンを連れて宝石商を訪ねた時、クァンとその仲間が銃を構えているのを知っていたワンは、「逃げて」とつぶやいてしまう。間一髪、危機を脱したイーは、部下に命じて暗殺を企てた抗日グループを逮捕させる。その中にはワンの姿もあった。事実を知ったイーは「ワンを夜10時に処刑しろ」という命令を下す。

    映画「ラスト、コーション」はタン・ウェイの清楚と妖艶を見事に使い分けた演技によって国際的にヒットした。タン・ウェイ(湯唯)は、1979年10月7日、浙江省楽清市の生まれ。10代からモデルをつとめ、2004年ミス・ユニバース・コンテスト北京大会で5位に選出されたことで、芸能界入り。TV「警花燕子」(2005年)の主役を獲得、中国中央テレビの女優賞を受ける。ワン・チアチーの役は1万人の候補者からオーディションで選出された。「ラストコーション」の大胆な演技により、新しいセックス・シンボルとなったが、現在、中国当局によって事実上、芸能活動を干された状態にあるという。

ラスト・コンサート

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   男はかつては名声を得たピアニストだったが、いまでは愛も希望も失っていた。女は不治の病に冒されながら、残された人生を懸命に生きていた。男はうつむいてモン・サン・ミッシェルの海辺を歩いていた。軽やかな少女のハミングが聞えた。白いマフラーを海風になびかせて、栗色の髪にのせたベレー帽を飛ばされぬよう右手で頭を押さえている。「私はステラ。あなたは?」男は黙っていた。「ちょっと、あなたに聞いているのよ!お名前は?」「名前なんてない。誰もいないと思ってくれ」「あら、そう。つまり、透明人間ってわけね」「いい加減にしてくれ!俺に話しかけるな」ステラのすすりなく声がした。「リチャードだ」

   フランス北西部ノルマンディーにある祈りと癒しの聖地モン・サン・ミッシェルで偶然に出会ったリチャードとステラ。2人は絶望をかかえていたが、リチャードはぬかるみを見下ろしているのに対し、ステラは星を見上げながら希望を忘れなかった。

今日の名画

Img_0014 デ・ニッティス 「戯れ」1874年

   ジュゼッペ・デ・ニッティス(1846-1884)はイタリアのバルレッタで生まれる。「戯れ」は、パリの競馬場での風景。前景の座った若いカップルと、画面の右端を散歩している2人の女性との視線が呼応している。

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2009年10月14日 (水)

春は馬車に乗って

    大正から昭和にかけて、横光利一(1898-1947)を中心とした新感覚派の活動にはみるべきものがあった。芥川龍之介が昭和2年に自殺をして、志賀直哉は全く創作をせず、奈良の高畑に住んでいた。佐藤春夫は第一線を退き、谷崎潤一郎は関西に移住し、新しい文壇との接触が絶たれていた。そのため昭和初年代には、横光利一がほとんど文壇の中心的な存在となっていたのである。

    のちに横光利一はアンドレ・ジッドの影響をうけて「純粋小説」を提唱する。「自分を見る自分」という第4人称を設定し、通俗小説の構成の複雑さと、純文学の内面的な必然性を主張している。この「春は馬車に乗って」は20代後半の妻の看護という実生活が反映されているが、そこにもすでに「自分を見る自分」という第4人称的な部分がすでにみえる。それは妻のキミの看護をする自分を客観視するという作家的態度である。

彼の此の苦痛な頂天に於てさへ、妻の健康な時に彼女から与へられた自分の嫉妬の苦しみよりも、寧ろ数段の柔かさがあると思った。してみると彼は、妻の健康の肉体よりも、此の腐った肺臓を持ち出した彼女の病体の方が、自分にとってはより幸福を与へられてゐると云ふことに気がついた。これは新鮮だ。俺はもうこの新鮮な解釈によりすがってゐるより仕方がない。

    「春は馬車に乗って」における病気の妻の看護にあって、妻の病体のほうが幸福だという気持ちは複雑ではあるが、当時としては苛酷な実体験を客観的に内面を描出するという作家的態度は新鮮に読者に写ったにちがいない。キミは1926年に23歳で結核で亡くなっている。

2009年10月13日 (火)

今日の名画

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オーヴァベック「ヴィットリア・カルドーニ」 1821年

    ヨハン・フリードリッヒ・オーバーベック(1789-1869)はドイツの画家。おもにイタリアで制作。フランツ・ブフォール、ウィンターガスト、オッティンガーらとともに1809年ウィーンで「ルカ盟社」(ルーカス兄弟団)、のちのナザレ派を結成。初期ルネサンス芸術を理想に掲げた。

    モデルとなったのはイタリアのあるブドウ栽培者の名もない娘であったが、その「いかにも古代風の、筆舌につくしがたい美しさ」によってローマの芸術家仲間で評判となり、彼女をモデルとした絵画、彫刻は40点以上にのぼった。

顔回

   孔子の門人は、史記によると「3千人と推定される。六芸に通じたものが72人あった」と記している。孔門十哲とは、閔子騫、冉伯牛、仲弓、宰我、子貢、冉有、季路、子游、子夏、顔回である。これ以外にも曾子、有子、子路、有若、曾皙、公西草、孔鯉、子羔、冉雍、子容、子思、子遅、子華、子與、子張、子羽、子牛といった人物がいた。その中でも孔子は顔回(顔淵)を非常に大事に思った。

    顔回(前522-前482、一説には前514-前483)。字は顔淵。顔回は貧しい暮らしのなかでも、つねに勉強を怠らない人物であった。孔子はいつも彼を誉めていた。「顔回は立派だ。粗末な食事をし、清水を飲み、狭い路地の奥に住んでいて、ほかの人なら憂い悩むところを顔回は道を学ぶ楽しさを忘れない」また、こう言ったこともある。ある人が「弟子のなかで、だれが一番学問好きか」と質問すると、孔子はただ一人、顔回の名をあげ、「それ以外に学問好きなものはいない」と答えた。しかしながら、顔回は若いときからの苦労のせいか29歳のときねすでに頭髪は総白となり、魯国に帰国した2年後、41歳で死んでしまった。孔子は「ああ、天われをほろぼせり」といって嘆いた。

    孔子の母は顔徴在といい、顔氏の娘なので、顔回は母方の一族かもしれない。

「連山易」「帰蔵易」

   「易経」は古代中国の占いの経典であるが、その原型がまとまったのは、西周末期か春秋初期と推定される。殷代には亀甲や獣骨を焼いてそのひび割れを見て亀卜が盛んに行われたが、周代になるとそれと並行して筮竹を数える卜筮が行われはじめ、その結果は、絹布に記録されて大切に朝廷に保管された。こうして集積された筮辞のうちから、適中したものでしかも各卦各爻にふさわしいものが選ばれて編集されたのが、現在の「易経」の原型となったものであろう。

    易には「連山」「帰蔵」「周易」と三易といわれるものがあった。連山易は神農もしくは夏王朝の易、帰蔵易は黄帝もしくは殷の易とされる。「連山」「帰蔵」は既に失伝してしまい現存するのは「周易」のみであり、「連山易」「帰蔵易」は存在しない。

   現存する易でよく知られているのが魏の王弼の「周易」で十三経注疏に収められている。このほか宋の程頤の「易伝」、宋の朱熹の「周易本義」などがある。漢易は多く滅んだが、唐の李鼎祚によって「周集解」にあつめられ、清の恵棟、張恵言らによって復元されている。夏の「連山」、殷の「帰蔵」も清の章宗源が乾隆年間に諸儒の史志にみえているもの、散逸したものを集めて一書をなした。それを道光年間に馬国翰が「玉函山房輯秩書」に収めている。

2009年10月12日 (月)

多元主義とアメリカ社会

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   バラク・オバマ米大統領がノーベル平和賞を受賞することになった。早すぎるという声もあるが、とりあえず、オバマ大統領、おめでとう。「核なき世界」にむけての行動にみんなが期待しているということであろうか。

   アメリカは、当初100万人といわれたアメリカインディアンの土地に、主としてヨーロッパからの移民によって開拓が進められた新興国である。ヨーロッパ諸国と比べて後進国であったアメリカが何故世界中で一番資本主義が発達した国となったのか。それは「人種のるつぼ」といわれるように、地球上のあらゆる人種・民族が混在する複合民族国家であることが大きな要因のひとつであろう。世界中からの移民によって建設した国家である。それが経済的にも、文化的にも、豊かさとダイナミズムとヴァイタリティをもたらした。アメリカの社会学者タルコット・パーソンズ(1902-1979)はそれを多元主義と呼んでいる。個人の進取の気性と、自由と、個々のイニシャティブ、つまりリベラル・デモクラシーの健全な発展が必要なのである。

マニエリズムの画家たち

Photo 「凸面鏡の自画像」 ウィーン美術史美術館

    宗教改革はルネサンスの芸術家たちにも深い動揺を与えた。1520年以後、若い芸術家たちは、もはや盛期ルネサンスの確信をもたなかった。彼らは人間の姿を奇妙な新方式で示しはじめ、人体をもとに複雑なポーズにねじったり、不自然な長さにひきのばしたりした。イタリア芸術の、この混乱した相は、マニエリズモとして見下されることが多かった。が、現在ではこれを一つの重要な様式として受け入れている。

   パルミジャニーノ(1503-1540)という、パルマ生れの若い画家の「凸面鏡の自画像」(1523-1524)に、ルネサンス末期のマニエリスモの新様式のはじまりを見ることができる。理髪店で半球状の凸面鏡に映った自分の姿を見て、パルミジャニーノは自分の姿を描くことを思い立った。円い凸面鏡にうつる優美な自己の姿と、手はものすごく大きく見え、壁と天井はまがっている。この奇抜な若者の発想が好まれたのがマニエリスムの時代なのである。

   イタリア語でマニエリズモ、フランス語でマニエリスム、英語でマナリズムと呼ばれている。様式、画風を意味するイタリア語「マニエラ」に由来する言葉で、一般には独創性に欠け、既成の手法や型を踏襲しながら、器用にまとめあげるような仕方を非難する意味をもっていた。ところが、今日では、盛期ルネサンスからバロックに移行する過渡期(1525-1610年ごろ)に流行した特定の様式に対して用いられる。この様式の傾向は、極度に洗練された技巧をもち、錯綜した複雑な構成、ひずんだ遠近法などを駆使し、幻想的な細部の表現、ときには不自然なまでのプロポーションや現実離れした色彩を取り入れた点に特色をもつ。マニエリズモの最初の使用例は、イタリアの美術史家ルイージ・ランツィ(1732-1810)の著書「イタリア絵画史」(1789年)の中に見られるのであるが、型にはまった新鮮味を失った状態という否定的な意味で使用している。だがマニエリズモの新様式は一種の前衛芸術であり、世の耳目を奪うのであるが、その努力は長くは続かず、またあまりにも容易に亜流を生んで、たちまち芸術的混乱を招き、やがて、健全な、またより着実な芸術思想の到来によって消滅せしめられるのである。それがカラヴァッジオに始まるバロックであった。

ここではマニエ時代の代表的な画家の名のみ列挙しておくにとどめる。

ポントルモ(1494-1557)
ロッソ(1494-1540)
ベッカフーミ(1486?-1551)
パルミジアニーノ(1503-1540)
ブロンツィーノ(1503-1572)
ダニエーレ・ダ・ヴォルテラ(1509?-1566)
ジョルージォ・ヴァザーリ(1511-1574)
ティントレット(1518-1594)
アントワーヌ・カロン
ピエル・フランチェスコ・ディ・ヤコポ・フォスキ
マゾ・ダ・サン・フリアーノ
サントディ・トト
ジローラモ・マッキエッティ
ジュゼッペ・アルチンボルド(1521-1593)
カミルロ・ボッカチーノ
クリストファーノ・アルロリ
レリオ・オルシ
ティバルディ
パラッツィ・サッケッティ
ニッコロ・デルラバーテ
サルヴィアーティ
シュプランガー(1546-1611)
ヨハン・フォン・アーヒェン(1522-1616)
ホルツィウス(1558-1617)
スペランヘル(1546-1611)
エル・グレコ(1540-1618)

2009年10月11日 (日)

イタリア・ルネサンスの画家たち

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 フラ・アンジェリコ「受胎告知」1440年代前半

   ルネサンスとは「人間が自然と人間にめざめた時代」といわれる。長い中世の間、キリスト教や封建君主のもとであらゆる自由や人間としての欲望や楽しみを束縛されていた人々が、教会の掟や中世風の考え方からめざめ、ギリシア・ローマの自由な精神にあこがれて、新しい世界を求めてたちあがった。この中心となったのが中部イタリアの自由都市フィレンツェで、数多くの芸術家が出て活躍した。

    画題はまだキリスト教関係のものが選ばれたが、中世風の神秘感から抜け出し、人間的なものが見られるようになった。人間や自然の姿を見えるままに写しとろうとして、透視画法が考え出された。ジョットは、約束にとらわれず自分の眼で見て描こうとした最初の画家で、マザッチョはジョットの態度を進めて、自然の広がりや、生き生きとした人間の動きを表わし、裸体画も残している。フラ・アンジェリコは、静かで清らかな宗教画を残し、フィリッポ・リッピは優美で世俗的な画風で人気を得た。ボッティチェルリは、古代の復活といわれるルネサンスの理想を作品の上に表わした。ピエロ・デラ・フランチェスカは明晰で静謐な世界を遠近法を駆使して描いた。

    ルネサンスの波はイタリア各地に広まり、16世紀はイタリア・ルネサンスが最盛期に達した。やがてフィレンツェにかわってローマが中心となり、新しい美術を創造しようという熱意にもえた芸術家たちは、古代を研究するとともに、透視画法、解剖学などの科学的研究をも進め、写実的に表現することにも苦心した。なかでもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブォナローテイ、ラファエロはこの時代を代表する三大天才といわれている。

    フィレンツェとローマに次いで、ヴェネツィアは、ルネサンスの第三の重要な美術の中心地となった。ヴェネツィア派の始祖ヤコボ・ベッリーニの娘と結婚したマンテーニャは古代美術を深く学び、写実的な描写を得意とした。ジョヴァンニ・ベッリーニはマンテーニャから影響を受け、細密な写実描写と調和のとれた色彩を特徴としている。ヴェネツィア派の最初の巨匠はジョルジョーネである。ミケランジェロとラファエロは形態を征服することによって理想の世界を創造したが、ジョルジョーネは光と色とで理想の世界を創造したのだ。ヴェネツィア派の傑出した画家はティツィアーノ・ヴェチェリオである。彼はジョルジョーネの助手を経て、あでやかな色彩と流麗な筆さばきで国際的にその名が知られるようになった。ヴェネツィア派の画家たちが関心を寄せたのは、デッサンや絵画の数学的構築(デイゼーニョ)ではなく、色彩を優先する配合(コロリート)であった。

    16世紀後半になると、均斉と調和が保たれていたルネサンスの様式がイリュージョン的な絵画構成へと大きく変化していく。後の美術史家はこの新様式をマニエリスムまたはマニエリズモと呼んでいる。ヴェネツィアのティントレットやスペインのエル・グレコが代表的画家である。20世紀初めの美術家たちはエル・グレコを「モダン・アートの先駆者」と高く評価している。

2009年10月10日 (土)

戦前における都市地理学の成果

    わが国で現代都市の研究が始まったのは、第一次大戦後の人口の都市集中、関東大震災後の復興などの社会変動が都市問題への関心をよび、東京市政調査会が大正14年に設立され、『都市問題』が創刊された頃からであろう。実証的調査に基づく学問的研究は、奥井復太郎(1897-1965)の『現代大都市論』(昭和15年)に結晶した。また小川琢治『人文地理学研究』(昭和3年)、小田内通敏『田舎と都会』(昭和9年)、国松久弥『経済地理学概説』(昭和10年)、西田與四郎『地文地理概説』(大正9年)などにもいくつかの新しい成果が示されている。

2009年10月 9日 (金)

穂北の久六

    小学生の頃から保下田の久六というヤクザの名前は映画でよく聞いて知っていた。実在の人物で歴史上では「穂北の久六」という。久六が相撲取りだったことも事実だ。力士だった頃、賭場でまわしを質草に取られて困っているところを清水の次郎長に助けられた。上州館林の江戸屋虎五郎の子分となり、名を久六と改める。久六は次郎長に恩があるにもかかわらず、清水の次郎長を援助してくれた尾張の巾下の長兵衛を久六が殺したことを知り、次郎長は乙川で久六を殺す。悪党とはいえ二束の草鞋の十手持ちだったので、凶状持ちとなった次郎長は清水を後にして旅に出る。

夜学の心の灯はいつまでも

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     年上の教え子もゐる夜学かな

                   村中千穂子

    昼は働き、夜、勉強する青少年のために夜学がある。ケペルもむかし夜学に通っていた。こうした「夜学」は秋に限ったものではないが、燈下親しむ秋の夜長には、学校でも落ち着いて勉強もでき、俳句で秋の季語になっている。

    高度成長期、夜間の大学は盛んだったが、「夜学」という語も死語になりつつある。自分にとっては「夜学」という語には、冬のさむさや、仕事疲れによる睡魔などの思い出があるが、青春の一頁である。関西大学天六校舎は昭和4年にできた建物で、当時から老朽化していたが、今ではどうなっているか知らない。卒業生たちの心の灯はいつまでも消えない。

Img01 リニューアルされて天六キャパスとなっていた

長英逃亡

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    江戸小伝馬町の牢獄で6年を過ごした蘭学者の高野長英(1804-1850)は、もはや忍耐の限界にあった。モリソン号事件では、「戊戌夢物語」を書き、これが致命傷になったのである。そのため幕府に逮捕され、永牢となり小伝馬町の牢屋につながれた。弘化元年3月の明け方、この牢屋敷から出火した。長英に買収された牢番の雑役夫が放火したが、牢火事の場合、囚人には「お切り離し」の制度があった。ただし3日限りだ。戻らなければ死罪となる。しかし長英はそのまま逃亡する。以来数年間にわたる逃亡生活がはじまる。水沢の老母を見舞って東北各地を歩き、また四国宇和島の伊達宗達の庇護のもとに1年、だが脱獄囚を追う指名手配は執拗に追ってきた。ついに顔面を硝酸で焼いて変身、江戸にまいもどった。沢三伯の変名で青山百人町に医院を開き、精力的に研究・翻訳をつづけた。しかし、嘉永3年10月末のある日、7人の捕吏に襲われ、十手で殴り殺された。一説にはみずから喉を貫いたともいわれる。

2009年10月 8日 (木)

がんばれ阪神タイガース

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   ヤクルト・阪神のCS進出を決める3位争いは熾烈である。台風18号の影響でグラウンドには強風が吹いていたが、ヤクルトの館山昌平は普段どおりに淡々と投げ続け、5-0と阪神打線を完封におさえた。明日の阪神戦にヤクルトが勝てば初のCS進出が決まる。一方、阪神は最終戦なので、9日に勝つと再び3位に浮上するが、ヤクルトの残り試合の結果次第でCS進出となる。ともかく阪神タイガースにはあと一試合しかない。最後まで全力で戦って勝利してほしい。

「空くらい地くらい」すべて見ました

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   韓国ドラマ「空くらい地くらい」全165話を見ました。家族の絆、家族の大切さ、相手を思ういたわりをテーマとしており、あたりまえの日常生活が視聴者に好感をもって受け入れられたのだと思う。劇中に二度の結婚式があるのも家族の絆をテーマとしているからだ。もちろん主役の若いカップル、ムヨン(パク・ヘジン)とジス(ハン・ヒョジュ)の息の合ったコンビが魅力的だったことが一番に挙げられる。捨てた子どもとの再会、生みの親、育ての親の様々な立場で愛情にあふれたドラマだった。元気で明るい韓国という印象である。たとえばウナの予備校の友人ジミン君の明るい自信家のキャラ。将来はアニメーターになるそうで、日本のことに詳しい。アニメでは宮崎駿、押井守、大友克洋、小説では伊坂幸太郎の本を読んでいる。もう韓国には反日感情はないようで、若者の間では日本ブームみたいだ。ともかくこんな見て楽しくなれるドラマは他にない。特典映像も見ましたが、撮影現場の楽しい雰囲気が伝わってきます。視聴率がよかったので、出演者もみな仲良しですね。

尾崎紅葉と硯友社

Img_0007_2 前列左より巌谷小波、石橋思案、尾崎紅葉、後列左より武内桂舟、川上眉山、江見水蔭

   硯友社は明治18年に尾崎紅葉、山田美妙、丸岡九華、石橋思案らによってつくられた文学結社である。最初は4人の書いたものをもちより、紅葉、美妙の2人が浄書して会員に回覧させた。まもなく美妙が去り、紅葉中心の結社となった。

    硯友社の機関雑誌「我楽多文庫」はこの手写本時代を経て「非売活版我楽多文庫」となり、さらに明治21年「公刊我楽多文庫」(16冊)となった。明治中期の文学は紅葉に代表されるように、雅俗折衷文体の粋を凝らした華麗な作風と、主として女性の愛や官能を描く筋立てのおもしろさが時流に受け入れられた。しかし、その本質は世相風俗の平板な写実にすぎず、国木田独歩によって「洋装せる元禄文学」と評され、非近代文学の一面があった。

    同人、あるいは硯友社の周辺にいる作家には次のような人がいた。( )内は代表作。巌谷小波(真如の月)、広津柳浪(黒蜴蜓)、川上眉山(墨染桜)、江見水蔭(避暑の友)、大橋乙羽、泉鏡花(夜行巡査)、小栗風葉(心中くらべ)、柳川春葉(夢の夢)、徳田秋声(雲のゆくへ)、田山花袋(重右衛門の最後)、永井荷風(地獄の花)、中山白峰(風流学士)、新井雨泉、鈴木苔花、篠山吟葉(春の夢)、篠原嶺葉(新不如帰)、田村西男(芸者)、山里水葉、瀬沼夏葉、星野麦人、北島春石、後藤宙外(腐肉団)、前田曙山(檜舞台)、小杉天外(魔風恋風)、押川春浪(怪人奇談)

   硯友社の作家は一部を除いて成功せず、明治36年の紅葉の死とともに時代から葬られた。鏡花、風葉、春葉、秋声は硯友社門下の四天王といわれた。

   この時代の作家研究は最近たいへん便利になった。国立国会図書館のホームページから蔵書検索すれば、近代デジタルライブラリー(国立国会図書館所蔵の明治・大正期刊行図書を収録した画像データー・ベース)で本文画像を見ることができる。例えば、田村西男(1879ー1958)の「芸者」中島辰文館、明治44年。著者の死後50年経過していることから、知的共有財産として調査研究に活用できる環境になりつつあり、まことにありがたいことである。

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深く静かに潜航せよ

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   戦後十数年たつと日本やアメリカでは戦争映画が盛んに作られた。「深く静かに潜航せよ」(1958)はクラーク・ゲーブルとバート・ランカスターの共演が見所である。1958年というと「若き獅子たち」(エドワード・ドミトリク監督)、「突撃」(スタンリー・キューブリック監督)、「人間の条件」(小林正樹監督)などがある。戦争映画は二種類に分かれる。戦争のもつ非人間性を告発した反戦映画と攻防戦や飛行機、戦車、軍艦などのアクション映画である。「突撃」や「人間の条件」が反戦映画なら、「眼下の敵」(ディック・パウエル監督)などは潜水艦と駆逐艦の攻防を描いた戦争アクションの代表作であろう。この「深く静かに潜航せよ」も「眼下の敵」の路線をねらった作品であろう。第二次大戦の豊後水道は日本海軍が太平洋へ出る重要な海域である。ここで昔、リチャードソン艦長(クラーク・ケーブル)は駆逐艦アキカゼに潜水艦を撃沈され、多くの艦員を戦死させてしまった。いつか駆逐艦アキカゼに復讐しようと考えていた。潜水艦ナーカに乗ってリチャードソンは豊後水道に向かう。軍の命令に違反して、駆逐艦を攻撃する。副官ジム(バート・ランカスター)や艦員らと対立する。日本の駆逐艦との攻防戦はいつもながらスリルがあるが、57歳のゲーブルはさすがに往時の精悍さは欠く。ともかく潜水艦の緊張感は映画で十分に堪能できる。

エフエム宝塚の横山あづさリポーターが来店されました

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    たからづかラジオピース「とれたて街角リポート」で5日エフエム宝塚生放送のため「女性の書斎・ひとり好き」に横山あづさリポーターが来店されました。その可愛いお声はいつもラジオでよく聞いていましたが、初めてお会いしましたが、ご本人も安倍なつみさんに似た笑顔のステキな方でした。放送直後に市民の方から問い合わせのお電話がありました。さすがに地域に密着した情報なのでみなさん、よく聞いておられるのですね。

   アットホームな雰囲気の中で芸術・文化に親しみながら読書が楽しめる読書スペース「女性の書斎・ひとり好き」。読書の秋、一度御覧ください。場所は阪急逆瀬川駅、アピア2とアピア3との間の市役所通りを東へ行きますと、消防本部と神戸屋、スーパー万代があります。そこを右に折れて、小林方面に行くと伊藤整形外科があります。そこの道路をはさんだ向い側にあります。(宝塚伊子志3-16-26)開館時間は10時から20時。定休日はありません。土・日は男性も入館できます。

2009年10月 7日 (水)

デボラの歌

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 ディアズ 「デボラの歌」 1852年

 

   デボラとは、旧約聖書でいう預言者、士師の一人。紀元前1200年頃シセラ王に対する古代ユダヤ人たちの反抗を指導し、彼らをカナンの地から解放する手助けをした。ナルシス=ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ベニャ(1807-1876)は「バルビゾンの七星」の一人だが、ロマン主義的な雅宴画によって早くから売っ子の画家だった。ディアズはミレーやルソーらと違い、大衆的な成功を望み、顧客や画商らの好む作品を制作したので、バルビゾン派の絵が早くからアメリカやイギリスで支持を得て、その普及に貢献した。

2009年10月 6日 (火)

ハリウッドのキング

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   生前クラーク・ゲーブルはこう言っていた。「ぼくが死んだら、墓石にこう書いてください。‘自分の幸運を知っていた幸運児、ここに眠る’と」クラーク・ゲーブル。生まれは1901年オハイオ州カディス。父はドイツ系移民で油田鉱夫。生後7ヵ月で母を失い、苦学して多くの仕事を転々とした。その後、彼は「ハリウッド オブ キング」と呼ばれる大スターになったが、愛妻キャロル・ロンバードを飛行機事故で失い決して幸運な人生ではなかった。爽快さのゲーリー・クーパー、重厚さのクラーク・ゲーブル、天下の人気は二分したが、クーパーに比べると作品的にも恵まれなかった。だがクーパーに勝るとすれば、それは共演女優の豪華さであろう。西部劇中心のクーパーの相手役は地味な女優が多いが、クラークはジョーン・クロフォードをはじめトップ女優がズラリと並んでいる。ノーマ・シアラー(自由の魂、不思議な間奏曲、愚か者の楽園)、バーバラ・スタンウィック(夜の看護婦、スピード王)、グレタ・ガルボ(スザン・レノックス)、ジーン・ハーロー(紅塵、春の火遊び、支那海、妻と女秘書、サラトガ)、キャロル・ロンバード(心の青空)、ヘレン・ヘイス(ホワイト・シスター)、ジョーン・クロフォード(暗黒街に踊る、笑う罪人、蜃気楼の女、ダンシング・レディ、奇妙な積み荷)、クローデット・コルベール(或る夜の出来事)、マーナ・ロイ(白衣の騎士、男の世界、妻と女秘書、テスト・パイロット)、ジョン・クロフォード(私のダイナ、空駆ける恋)、コンスタンス・ベネット(或る夜の特ダネ)、ロレッタ・ヤング(野性の叫び、市への鍵)、ジャネット・マクドナルド(桑港)、マリオン・ディヴィス(スタアと選手)、ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランド(風と共に去りぬ)、へディ・ラマー(同志X)、ロザリンド・ラッセル(ポンペイの出逢い)、ラナ・ターナー(無法街、何処かで君をみつける、帰郷、叛逆者)、グリア・ガースン(冒険)、デボラ・カー(宣伝屋)、エヴァ・ガードナー(栄光の星の下で、モガンボ)、ジーン・ティアニー(私を離さないで)、グレース・ケリー(モガンボ)、スーザン・ヘイワード(一獲千金を夢見る男)、ジューン・ラッセル(たくましき男たち)、エリノア・パーカー(ながれ者)、イヴォンヌ・デ・カーロ(南部の反逆者)、ドリス・デイ(先生のお気に入り)、キャロル・ベーカー、リリー・パルマー(僕は御免だ)、ソフィア・ローレン(ナポリ湾)、マリリン・モンロー(荒馬と女)

   こうして共演者たちを並べてみてもハリウッド女優史1930-50代になるだろう。こんな彼の人望を物語る晩年のエピソードがある。エリザベス・テーラー、モンゴメリー・クリフト主演の「去年の夏突然に」(1959)のプレミア・ショーのはねたあと、スターたちが行きつけのレストランにぞろぞろ集まった。その時の最良の席は、本来ならその夜のヒロイン、リズのためにリザーブされてしかるべきだが、そうではなくてクラークのために用意されていた。彼女とても文句はない。やがてクラークが来店すると、リズはもとより、ゲーリー・クーパー、オードリー・ヘプバーン夫妻、ロック・ハドソン、ダニー・ケイなど、錚々たるスターたちが立ち上がって敬意を払ったという。キングの面目躍如たるものがある。彼女たちは冗談ではなく、彼のことを、キングと呼んでいたし、クラークもそう呼ばれてもテレもしなかった。

2009年10月 5日 (月)

ホイッスラー

Img_0007 青い波:ビアリッツ 1862年

   チョウのことを英語でバタフライ(おしゃれ、見え坊)というが、フランス語ではパピヨン(移り気な人)という。あるときドガが「パピヨンの役は、非常に疲れるんだなあ、まったく年老いた牡牛の方がいいね」といっている。パピヨンとは、彼の友人のホイッスラーのことである。ホイッスラーは、サインに図案化したチョウを、あたかも花押のように使用していた。そこから、ひとは彼を指してチョウチョウ(おしゃれ、見え坊)と呼ぶようになったのである。

   ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(1834-1903)はアメリカのマサチューセッツ州ローウェルで生まれた。ロセッティやドガと親交をもち、1870年代には「ノクターン」の連作を発表、暗い色調と日常性を無視した画風はJ・ラスキンの酷評を受け、訴訟問題となった。79年から80年はベネチアで過したが、再びロンドンに戻り、1886年には王立協会会長を勤めた。

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2009年10月 3日 (土)

池田満寿夫

Img_0007_2 光る海  リトグラフ 1986

    深夜放送で根岸吉太郎の映画「ひとひらの雪」を見ていると池田満寿夫(1934-1997)が出演している。版画家、芥川賞作家、映画監督、陶芸家など多才に活躍していたが、俳優でもあった。映画の主題歌はジュディ・オングだし、映画「エーゲ海に捧ぐ」の頃なので、何かの関係で出演したのだろう。生前の活躍は華やかだったが、彼の芸術が日本の美術界で正当に評価されなかったといわれている。1990年刊行のコンサイス日本人名事典には何故か収録されていない。1966年、棟方志功に次いでヴェネツィア・ビエンナーレ展の国際版画大賞を受賞しており、版画家として国際的に最高の評価を受けているので収録されて当然だと思うのだが。60年代後半から70年代前半までの作品には芸術性の高いものがあるが、晩年の版画類の評価はこれからであろう。

里の秋

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   秋も日ごとに深まり、この頃になると幼い日のことがなぜか思い出されます。田舎で赤とんぼの大群を追いかけてみた夕焼けの空、稲刈り後の田んぼのにおい、叱られて泣いて歩いた田舎の道、なつかしさがこみあげてきます。そんなとき道草に咲いていた野の花を見る。聖書に「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花のひとつほどにも着飾ってはいなかった」とあります。

   ふと忘れかけていた聖句が甦ってきた。途絶えていた祈りを再び捧げる。今一度花を見る。花は肩をすくめ、無邪気に笑っている。見上げた空は青く、大きく、高かった。

2009年10月 2日 (金)

桐一葉

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   「桐一葉」または「一葉」は、秋を表わす季語になっている。これは中国古代の書物「淮南子」に「一葉落ちて天下の秋を知る」に由来するからである。初秋、大きな桐の葉が風もなくばさりと音を立てて落ちる。高浜虚子の句に「桐一葉日当りながら落ちにけり」がある。

    画家ゴッホはこのような東洋芸術の真髄を直感的に理解していたようだ。「日本芸術を研究すると、このうえなく賢く哲学的で頭のいい男が、いったい何をして時を過ごしているのか分かる。月と地球の距離を測っているのか。そうではない。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼はたった1本の草の葉を研究しているのだ。しかし、この草の葉からすべての植物を、四季を、広大な風景を、最後に動物を、そして人間を描くようになるのだ。彼はこうして人生を過ごすが、人生はすべてを描くには短すぎるのだ」(ゴッホ書簡542)とある。

2009年10月 1日 (木)

推理小説が文学として認められるまで

Img_0014 江戸川乱歩 水上勉 松本清張

    昭和27年、松本清張は木々高太郎にすすめられ、「記憶」「或る小倉日記伝」を三田文学に発表した。そして「或る小倉日記伝」が翌年下半期の芥川賞受賞となった。その選者の一人、坂口安吾は、「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力があり、その時はまたこれと趣きが変わりながらも同じように達意巧者に行き届いた仕上げのできる作者であると思った」と、その後の推理小説の作家としての資質を予見する発言をしている。清張はその後、「点と線」「眼の壁」「黒い画集」「小説帝銀事件」「ゼロの焦点」「波の塔」「砂の器」と次々と傑作を発表するが、文芸評論家の間ではまだ純文学だけが文学であり、推理小説は評価の対象にならなかった。ただ伊藤整は「プロレタリア文学が昭和初年以来企てて果さなかった資本主義社会の暗黒の描出に成功した」と松本清張を評価した。しかし、その伊藤も自身が編集委員を務める中央公論社の「日本文学全集」全80巻の中に松本清張の名前は無かった。編集委員は谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、ドナルド・キーンである。編集部では、人気作家の松本清張に1巻を与えたかった。編集会議で松本清張が俎上にのると、三島由紀夫は「松本清張?清張にどんな作品がある?」と反対し、その剣幕に押されてか、他の編集委員も強く異論を唱えることもなく、結局この全集に松本清張は採用されなかった。

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