寂光院と建礼門院
「平家物語」の最終章「大原御幸」は、壇ノ浦の合戦から1年ほどたって、大原の寂光院で平家一族の菩提を弔う建礼門院徳子(1155-1213)を後白河法皇が訪れるという話で始まる。だが、建礼門院のやつれはてた姿に法皇は思わず涙を流した。さらに、建礼門院はこう語る。「わたしは生きながら六道を見てしまいました」と。地獄も極楽浄土もすべて体験したという意味であろうか。
建礼門院、つまり中宮徳子は、平清盛の娘で6歳のときに高倉天皇の後宮に入内。1172年高倉天皇の中宮となり、1178年に皇子(のちの安徳天皇)を産む。1181年、その皇子が3歳で即位して安徳天皇となり、徳子は国母として、建礼門院と称した。1183年、木曽義仲の入京によって、平家一族は西海に落ちていく。1185年、壇ノ浦で平氏一族も滅亡し、建礼門院も入水したが、助けられ帰京。やがて落飾して、大原寂光院に住む。没年は諸説あり、平家物語は36歳で、源平盛衰記では68歳となっている。寂光院で死んだとも、法性寺の辺りに住んでいたともいわれる。
ともかく寂光院は建礼門院の閑居の寺として知られるようになったが、もともとは聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられている。建礼門院死後、退廃したが、慶長年間には淀君が再興した。平成12年に放火により本堂は全焼したが、平成17年に再建された。
建礼門院は源平の合戦での悲劇のヒロインとして知られるが、寂光院での静かで淋しい生活こそ、本人にとっては心安らぐ人間らしい暮らしというものであったかも知れない。
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