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2009年8月12日 (水)

韓非は何故、始皇帝に殺されたか?

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韓非子肖像 北京歴史博物館蔵

    韓非は韓の王族の家柄で、かつて李斯とともに荀況に学んだ。当時、韓は秦と楚の強国に境を接してており、小国の韓は何よりも国力の充実が望まれた。しかし、韓では文学遊芸の者が重用されており、国の前途を憂えた韓非は「説難」などを著わして、所信を表明した。韓が秦に攻められると、韓王安(在位前238-前230)は韓非を秦に遣わした。秦王政(のちの始皇帝)は韓非を用いる気持があったが、廷尉の李斯の謀計によって毒殺された。

   韓非が殺されるにいたるまでには戦国時代の弱小国の歴史を語らねばならない。韓は昭侯(在位前358-前333)の時代に申不害を宰相に登用して中原に確固たる地位を保っていた。つづく宣恵王(前332-前312)の時代の前325年には、王号を称するようになっていった。しかし申不害が死んでからは見るかげもない弱小国となった。宣恵王、襄王(前311-前296)の2代の王に仕えた宰相が韓公仲である。韓侈(かんし)ともいう。韓非が非難してやまなぬ「重人」の典型である。彼は他国からも信用されていなかった。秦の昭襄王は、「韓は都合しだいでどっちにでも転び、盟約もあてにできない。いつか楚と戦ったとき、はじめ秦に味方していながら、少し旗色が悪くなると、さっさと楚に寝返った」と怒っている。韓の信用はやがてなくなり、誰からも相手にされなくなった。仕方なく韓は楚に全面的に従属するようになった。それで秦の侵攻が激しくなると、韓王は、窮余の策として、秦に一人の男を送り込んだ。男の名を鄭国という。卓越した水利技術者であった。大規模な水利事業によって秦の人力と財力を疲弊させようとする作戦だった。しかし、鄭国が韓の間諜であることが発覚した。この事件があったため、韓非は秦の者たちから最初から疑惑の目でみられていたに違いない。また荀況の門下である李斯の妬みをかっていたことも考えられる。李斯の保身のために韓非を亡き者にせねばならぬとかんがえたことは想像に難くない。韓非は生来どもりだったせいで、弁舌は不得意だったが文章の方は達者で、李斯も学問ではとても韓非にはかなわないと、自分でも認めていたという。李斯は廷尉の地位を利用して、すかさず獄中に毒を送り、君命であると偽って自殺を命じ、まんまと韓非を葬り去った。

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