象徴天皇論と筧克彦
敗戦後、新憲法の制定が問題になったとき、従来の神権天皇制をどうすべきかが争点となり、天皇制廃止論も一部にはあった。しかしアメリカの判断によって、新憲法は天皇主権・神権主義は否定しつつも、天皇という世襲的機関は、まったく政治的権力をもたない儀礼的役割をもつものとして認めることとなった。つまり象徴天皇制は主にアメリカの意向によるものとされているが、日本の憲法学者たちはいつごろから象徴天皇論を唱えるようになったのであろうか。古くは明治期に小野梓(1852-1886)の著書「国憲汎論」に象徴天皇の理念が説かれている。
戦後の新憲法制定には三宅正太郎、横田喜三郎、金森徳次郎ら憲法学者の名前が挙げられる。ところが戦前、美濃部達吉よりも優秀な人材として知られた筧克彦(1872-1961)の名前については今日では秘されることが多い。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、帰国後、すでに大正初期から独自の古神道論を展開し、キリスト教の神と天皇制との融合を試みようとしていた。この筧克彦から貞明皇后はキリスト教に接したといわれる。その仲介となったのは関屋貞三郎の妻である関屋貞子である。また戦時中には吉田茂らのグループは敗戦を想定して、戦争放棄と天皇の象徴制を構想していたらしい。つまり筧の象徴天皇論は明確な形ではないものの、独自の神道哲学とヘーゲル哲学の融合から、天皇を非権力的な存在にしようとする戦前の思想がすでに国内にも存在しており、新憲法の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という戦後の思想潮流へと帰一するのである。
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