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2009年8月31日 (月)

テレビ開局56年

Img_0013 「赤ちゃん誕生」昭和41年 松方弘樹 小林千登勢

   日本テレビは昭和28年8月28日に開局し、先日56周年を迎えた。30日の日曜日の夜。「24時間テレビ」加山雄三の「サライ」が流れるなか、放送内のゴールが絶望的でも雨の中を懸命に走るイモトアヤコ。その画面の隅には民主党の当確と自民党大物の落選確実。NHK大河ドラマでは徳川家康(松方弘樹)が北の政所(藤純子)を巧みに取り込む陰謀。テレビはベテランの実力派の活躍とともに絶えず新しいタレントも生まれている。それにしても126.585㎞を完走したのは立派だ。朝ドラ「つばさ」は作りものなので万理の完走に感動はなかったが、イモトはトレードマークの濃い眉毛が雨で無くなり、本当の彼女の姿がみえたような気がする。

秋岡梧郎と安全開架

Img_0012 Img_0011 昭和57年、自宅庭内に作られた案内掲示板

   秋岡梧郎(1895-1982)は明治28年、熊本県下益城郡豊福村大字竹崎で生まれる。大正8年、熊本県下益城郡教育会明治文庫司書となり、生涯図書館活動に従事する。大正11年、日比谷図書館に就職後、麻布、両国、京橋の各主任を経て、昭和6年、京橋図書館館長に就任。以後深川図書館、江東図書館などを歴任する。

   秋岡梧郎の功績で知られることは、当時閉架制が全盛であった図書館で、昭和4年から京橋図書館で開架式(安全開架)を実践したことであろう。安全開架式とは、開架式(接架式)の一種で、書庫と閲覧室を区画し、利用者は書庫には自由に出入でき本を選択できるが、閲覧室で本を読むとき、あるいは、貸出をうけるとき書庫・入口カウンターで館員のチェックをうける。館員のチェックをうけず自由に書架から図書を出し入れできる閲覧方式が自由開架式といわれている。

   秋岡梧郎の図書館人生で学ぶことは生涯実践者であることであろう。ともすれば図書館界においては図書館学の研究論文や著書の膨大さを誇る傾向があるが、何らの現場実践なく海外の文献を翻訳して図書館学者として事足れりとする弊風が見受けられる。最近でも若い図書館研究者が海外調査に行き外国の図書館事情の報告をして一定の成果を拝聴したが、大学では研究者は養成するが、実践者は養成できない。87歳にわたる秋岡梧郎の人生は文庫に始まり文庫で終っている。晩年、邸内に私設図書館を開設している事など実にほほえましいものである。(参考:「秋岡梧郎著作集」日本図書館協会)

平井房人と関西グループ

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    昭和31年刊行の須山計一「漫画100年」(鱒書房)によると、関西グループとして平井房人、南部正太郎、広瀬かに平の名前があがっている。平井房人は大阪朝日新聞連載の「思ひつき夫人」などで関西では知られた漫画家ではあるが、全国的な知名度が低いのか、今日では忘れされた偉大な漫画家といってよいだろう。もっと評価されよもよいと思う。ある人に「思ひつき夫人」を見せたら、「サザエさん」のルーツだと言っていた。手塚治虫や長谷川町子は「思ひつき夫人」を読んでいたことは間違いない。

   昭和30年頃の漫画界の主な人たちを列記しておこう。

A漫画集団
近藤日出造、杉浦幸雄、清水崑、石川進介、益子善六、秋吉馨、利根義雄、矢崎武子、金親堅太郎、加藤芳郎、六浦光雄、中村伊助、塩田英二郎、境田昭造、改田昌直、山下紀一郎、那須良輔、和田義三、横山泰三、富田英三、岡部冬彦、松下井知夫、西川辰美、小川哲男、井崎一夫、南義郎、永井保、御法川富夫、やなせたかし、萩原賢次、服部みちを、小比賀新二、佐川美代太郎、アヤタクニオ、佐藤六郎、小林治雄

B独立漫画家
小島功、井上洋介、金子泰三、中川蚊巣、赤川童太、八島一夫、中島弘二、馬場辰夫、加藤八郎、長新太、芳の次郎、関根義一、山本一郎

C新漫画協団
宍戸左行、鈴木厚、関根公三、森比呂志、筑摩鉄平、古田久三郎、志村恒平、榎本映一、芳垣青天、大野鯛三、山崎善一、池田寿雄

D旧YYクラブ(現在解散)
森熊猛、松下紀久雄、清浦ちづ子、小泉紫郎、吉崎耕一

E児童漫画会
島田啓三、山根一二三、秋冷二、手塚治虫、倉金章介、都築敏三、大田二郎、畠山一夫、馬場のぼる、石田英助、水野二郎、桂たろ、菅大作

F労働漫画クラブ
中畑春雄、鈴木平八、木村しゅうじ、山崎定雄、片寄貢、宮下森、佐々木哲、茂原俊二、全哲、澄迷二、長井泰治

Gあまからくらぶ
石川まさや、佐次たかし、永井清彦、安藤利一

2009年8月30日 (日)

落椿

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  NHK大河ドラマ「天地人」。豊臣秀吉が亡くなった。秀吉のツバキ好きは有名で、文禄3年築城の伏見城の庭に、全国の珍しいツバキを集めたという。だがツバキが散るときは、花がぱっと落ちる。潔く散りゆく姿に「武士椿」(ぶしつばき)という言葉もある。このように椿は首が落ちる様子を連想させるので、俳句でも「落椿」と表現され、椿を入院の見舞いに持っていくことはタブーとされている。競馬の馬の名前も落馬を連想されるので、「○○ツバキ」という馬名は避けられるという。
   天下分け目の関ヶ原の戦いがあっけなく終わり、人々が勝ち馬に乗るのは昔も今も変わりはない。落選した大物センセイたちも首が落ちる心配はないだけ平和な世であろう。

戦後の或る小図書館の研究(守屋図書館の場合)

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    昭和22年、東京都目黒区にあった柿之木坂旧町会事務所は、柿之木坂文庫に改装された。図書館施設なのに名称を文庫としたのは、図書館令(図書館法制定前の法令)に基づき種々規定が設けられ、一つでも欠けると認可されないためであった。僅か20数畳の居間の回りに簡単な本棚があり、席は六尺机を4つ備えて、30名ほどが利用できる。利用方法は受付で住所氏名を記載すれば、自由に図書を選び読むことができる。昭和24年には宮ヶ丘文庫が設立された。宮ヶ丘文庫の運営規則は次のとおり。
閲覧時間:午前9時から午後5時まで
閲覧料:1回1円
休館日:毎週月曜日、国民の祝日、毎月14日(館内整理のため)

   昭和27年4月には、柿之木坂、宮ヶ丘文庫を一ヶ所にまとめて、目黒区立守屋図書館が誕生した。創設時の守屋図書館は台湾日日新報の創業者・守屋善兵衛(1866‐1930)の邸宅を整備したものである。1階には一般閲覧室、集会室、事務室、書庫がある。2階には30畳のタタミの間の児童読書室と新聞雑誌室がある。また4畳半の和室は児童研究室として使用されていた。このような小図書館の歴史であるが、文庫から図書館へ、閲覧料の有料制から無料化へ、昭和20年代の公共図書館の発展の軌跡が典型的に現われている。

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(参考:「目黒区の図書館、目黒区立図書館創立四十周年記念資料」)

2009年8月29日 (土)

容儀帯佩

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   容儀帯佩(ようぎたいはい)とは、礼儀にかなった容姿と身のこなしをいう。ケペルはいままで学校の授業で正式な礼法の教育を受けた覚えがない。あったのかもしれないが記憶にない。そのようなテキストも知らない。だから「礼法」小川淑子著、柴田書店、昭和31年、72ページ、という本を見たときは興味をおぼえた。国立国会図書館で検索するが、所蔵していない。不思議である。戦後の刊行物であるから納本制度によって所蔵しているはずである。国立国会図書館の収集は万全ではないということなのであろうか?この本は高等学校の礼儀作法の学習用としてつくられたもので、主に私学の女子高などの授業には使用していたものであろうか。以下、初めの部分だけを紹介する。

礼法の要旨

民主主義に基づく健全な社会や家庭をきずくために、いま日本の民族は非常な努力をつづけている。古い習慣と新しい思想との間に起こる摩擦に戸まどいしたり行きすぎたりしている事実は日常生活の面にも少なからず見受けられる。そこで新しい道義の上に立って古い制度でも善きはとり入れて新旧の調和をもとめ社会生活や家庭生活が出来るよう努めなければならない。そしてこの役割を果たすものこそ礼儀作法である。即ち礼儀作法は社会の秩序を正し、人々相互の融和をはかり、もって人間生活の幸福を得ようとするものである。

礼法の基本・容儀

毎朝丁寧に洗顔・うがいをし、手足も清潔にする。髪もよく手入れをし男子はひげをそる。衣服は正しく着用し、またボタンやスナップは必ずかけ、バンドの下らないようにする。帽子は正しくかぶる。男子は室内では脱ぐものであるが、かぶる時も脱ぐ時も室の入口でする。帽子を手に持つ時は内側が人の目に触れないようにする。はき物は正しくはく。靴のひもはきちんと結ぶ。脱ぐ時はよく揃えておく。化粧はあまり目立つようにしないのがよく、また人の前で化粧直しをするものではない。

   著者の小川淑子については、「東京女高師卒。東京女高師の礼法教授担当・弘道会礼法研究調査会委員。現在は桜蔭学園において中・高校生の礼法教授に当っている」とある。現在でも桜蔭中学校・高等学校(文京区本郷)は小笠原流礼法を授業で教えている。猪口邦子や菊川玲が卒業している進学校である。

めずらしい動物だけの教科書

先日、神戸の美術商、アンティーク・ギャラリー「ボン」様から寄贈でいただいた資料を見ていたが、その中の一冊がとても気になる。「動物教科書」(改版)帝国書院、昭和3年のものだが、内容がとても充実している。著者の戸澤冨壽も著名な方だ。一応、国立国会図書館で検索したが所蔵していない。戦前で教科書はないのだろうか。あるいはこの本は副読本のようなもので稀少なのかもしれない。理科、生物ではなくて動物だけを扱っているのもめずらしい。旧制中学校が使用したものだが、内容も高度で図版がすぐれている。カラーも豊富である。174頁だが、付録もあり、良質の紙を使用しているので変色もしていないし、かなり分厚く感じられる。戦前の教科書がこれぼどデラックスだとは知らなかった。

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2009年8月28日 (金)

今日の名画

Img_0010 ジュリアン・デュプレ  乳しぼりの女 

ジュリアン・デュプレ(1851-1910)は風景画から動物画へと活躍したフランスのサロン画家。

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「女性の書斎」からのお知らせ

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   ケペルが経営する家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」がNHKのラジオで紹介されます。放送日は次のとおりです。関西エリアだけですが、興味のある方は聞いてください。

放送日 9月2日(水) NHKラジオ第一放送

時間  午後5時30分頃から

内容  「関西ラジオワイド」の生中継。リポーター岸有佳里さんのインタビューにケペルがお答えします。主に日常生活と読書の話をします。

   なお、以降もほかのマスコミからも取材が殺到しており、続々出演予定があり、ケペルがメディアに露出します。新人歌手のキャンペーンのようにガンバリマス!!

9月4日(金) おはようコールABC 朝日放送 午前5時20分頃(朝の早いテレビですが、予約録画して観てください)

9月4日(金) FM宝塚ハートフルスタジオ835 午後3時40分から4時10分まで。逆瀬川駅前アピア2にスタジオがあり、ガラス越しにケペルが見えると思います。

2009年8月27日 (木)

今日の名画

Img_0011 ブーダン  トルーヴィル近郊の浜 1986年頃

   トルーヴィルは上流社会に好まれた夏の保養地。毎年夏、パリから移動して海水浴を楽しみながら、社交を繰り広げている。

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2009年8月26日 (水)

懐かしの関西のマンガ家たち

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   日本人はたいへんよくマンガを読む。おそらく世界で一番マンガが好きな民族ではないだろうか。なぜ、外国の人はこれまでマンガを読まずにいたのだろうか。答えの一つは、かれらの国には手塚治虫(1928-1989)がいなかったからだという。手塚治虫の生まれは大阪府豊中市であるが、5歳のときに一家で宝塚に引っ越して、24歳で上京するまで宝塚で過ごしている。戦後マンガの原点ともいうべき「新宝島」が大阪の育英出版からでたのが昭和22年のことである。さて戦後に大流行した「赤本」とは、主に関西の版元から出版され、駄菓子屋などで売られていた、こども向けの描き下ろし単行本のことである。手塚は南部正太郎(1918-1976)や武田将美と3人でスリー・マンガ・クラブを結成していた。そのほか大阪には戦前から平井房人が関西のマンガ集団のリーダー的存在だった。平井は若いころ宝塚少女歌劇の美術部で活躍したが、手塚の作品にも宝塚歌劇団に象徴されるきらびやかな洋風文化の影響が明らかにうかがわれる。関西のマンガ文化は昭和初期からの阪神モダニズム文化の所産ともいえる。

花売り娘

Img_0007 アドレール 花売り娘 1899年

   ジュール・アドレール(1865-1952)の花売り娘を描いたこの作品にはパリで見かけた貧しい人たちへの愛情が感じられる。

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2009年8月25日 (火)

五能線の旅

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   水森かおりの歌でも知られるようになった五能線は能代(秋田県)から鯵ヶ沢(青森県)までは日本海沿いの荒々しい海岸がよく見える。岩館、深浦、広戸あたりが海岸の景色の見所で、特に沈む夕日が素晴らしい。五所川原付近では青森名物の林檎畑の中を走るが、岩木山が長く裾野を引いて聳えている。原始のままのブナ林で知られる白神山地へ分け入るための、唯一の鉄道線路で、あきた白神駅は白神山地への登山口の一つである。

近代生活の画家ギース

Img_0013 ギース 虚栄の市 水彩 フィリップス・コレクション

    挿絵画家コンスタン・ギース(1802-1892)は19世紀パリの都市風俗をいきいきと描いている。

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2009年8月24日 (月)

宝塚少女歌劇と平井房人

    漫画家の平井房人(ひらいふさんど、1903-1960)と言っても、御存知の方は相当のご年輩の方だろう。むかしの人は新聞の漫画が面白くてためになるので、切り抜いてスクラップに貼っていたようだ。平井房人は明治36年、福岡県久留米で生まれる。大正10年に上京したが、関東大震災で神戸に移る。同時に宝塚少女歌劇の美術部に所属し、雑誌「歌劇」の編集、舞台の台本やポスター制作にその才能を発揮した。関西の漫画家たちと「大阪グルっペ」を設立。昭和13年、大阪朝日新聞に「思ひつき夫人」を連載し、好評を博す。翌年には竹久千恵子、山野一郎で東宝映画「家庭報国思ひつき夫人」(斎藤寅次郎監督)が作られる。続いて、毎日新聞に「ポッポおばさん」を連載する。作品はほかに「花百合ダン子」など漫画や子ども向けの絵本、イラストなど膨大な量が残る。今回、寄贈された資料の中になんと「思ひつき夫人」の新聞切り取りスクラップが見つかった。そのほんの一部を紹介するが、平井房人のセンスの良さをうかがうことができる。

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ジェイ・グラック「ペルシア陶器の世界」

Img_0007 藤原銀次郎 昭和33年撮影

    先日、ある地方紙に「女性の書斎ひとり好き」の紹介記事が掲載されたので数人の篤志家から本のご寄贈があった。なかには随分と珍しい本もある。私のような小さな本屋で利用者とどのように結びつけるかが問題であるが、とりあえずブログで記載しておくことで資料検索を可能にしたい。

「カタコト英語で十分です」イーデス・ハンソン著、実業之出版社、昭和57年
「庄内地誌」中島東次著、帝国書院、昭和8年
「最近動物教科書」戸沢富寿著 帝国書院、昭和3年
「7000年の歴史とあそぶペルシア陶器の世界」ジェイ・グラック著、西武ホール、昭和55年
「礼法」小川淑子著、柴田書店、昭和31年
「農業教科書園芸篇」兵庫県教育会 森棟二著 宝文館 昭和12年
「私のお茶」藤原銀次郎著 講談社 昭和33年
「花心 鈴木剛画集」 昭和55年
「国史絵画集」伊勢神宮歴史絵画館 昭和44年
「思ひつき夫人」平井房人
「家庭生活刷新資料、家庭応急看護法」神戸市 昭和18年
「後楽園スタヂアム50年史」平成2年
「近世きもの万華鏡、小袖屏風展、国立歴史民俗博物館所蔵、野村コレクション」平成6年
「やきものとエマーユ、あんていーく9、色の造形」読売新聞社 平成3年
「品川祐治郎画集」友月書房 平成14年
「日本大地図帳5訂版」平凡社 平成13年

    寄贈された資料のなかで、一般的に著名な人物は大正・昭和の財界人・政治家の藤原銀次郎(1869-1960)だろう。90歳まで長生きしたので、晩年は「お茶人」さんになりすましている。実に人生の達人ともいうべき人物である。個人的には芦屋に住んでおられたジェイ・グラックさんのペルシア陶器の図録が入手できたことは嬉しい。開業して看板をあげると自然とご寄贈本が集ってくるのは嬉しいが、どのように感謝を申し上げていいのやら、ともかくお店を長く継続し、広く利用に供し、寄贈者の御厚志にむくいたいと思う。

2009年8月23日 (日)

思い出のメロディー

Img_0007 昭和39年5月号

   懐メロといえば東海林太郎、ディック・ミネ、淡谷のり子といった戦前派の歌手が主役だった。しかし時は流れ、もはや昭和40年代の流行歌は立派な懐メロになった。昨夜放送されたNHK「思い出のメロディー」の主役は、「ブルー・ライト・ヨコハマ」(昭和44年)いしだあゆみだった。風邪薬ルルのコマーシャルや「アッちゃん」の主題歌を歌っている頃の彼女はボーイッシュで元気なお姉さんという感じだった。「ブール・ライト・ヨコハマ」で見違えるようにキレイになって昭和40年代はヒット曲連発の女性歌手の中心的存在だった。日本女性らしい独特の情緒を醸しだし、台詞のような長い歌詞に新境地を開いた。「喧嘩のあとでくちづけを」「あなたならどうする」「砂漠のような東京で」など長い題名の曲も流行となった。昨夜の彼女は夏らしく涼やかな和服をステキに着こなしていた。まるで和風オードリー・ヘプバーンといったところだ。久しぶりのマドンナの登場に癒されたおじさんも多いだろう。

2009年8月22日 (土)

ドラマの中では秀頼は誰の子か?

    淀殿は文禄2年、豊臣秀頼を産む。このとき秀吉は57歳。しかも秀吉には正室北政所ほか多数の側室に子ができなかったことから、当時から秀頼は秀吉の実子ではないのではないかという噂は存在していた。事実は謎であろうが、ドラマ上ではどうなっているのだろうか。大河ドラマ「功名が辻」(2006年)では永作博美の淀殿が好演で、中村橋之助との愛欲の場面もかなりあったように記憶する。現在放送中の「天地人」で深田恭子・淀殿は永作博美のような驕慢なところがなく、おっとりした姫君にみえる。これからどのように変化するか見ものであろが、小栗旬の石田三成との男女の交わりがないように見える。「天地人」はかなり歴史に忠実に作っているので、秀頼は秀吉の実子としているのであろうか?。それにしては笹野高史との寝所の場面がないので、見ているものには秀頼が誰の子か、今ひとつはっきりしない。

今日の名画

Img_0007 モネ  サンラザール駅 1877年

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2009年8月21日 (金)

青衣の女人

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  鎌倉時代のある時のこと、集慶というお坊さんが東大寺の修二会(三月に行われる厳しい行法)で、過去帳を読み上げていると、青い衣を着けた美しい女の人がすうっと闇の中から現れた。そして、いかにも恨めしそうな細い声で「どうして、私の名前を呼んでくださらないのですか」と言った。女人禁制の場所に、このような女の人が現われるわけがない。集慶は余りのことに幻かと自分の眼を疑った。集慶は咄嗟に低い声で、「青衣の女人」と読み上げた。すると、美しい女人は、いかにも満足したように微笑をうかべて、闇の中へ消えていった。修二会の「東大寺上院修中過去帳」には、この名も分からない「青衣の女人」の名が加えられ今もなお読み継がれているという。

2009年8月20日 (木)

長者の万灯より貧者の一灯

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    阿闍世主が釈尊を請じて供養をし、宮殿から祇園精舎への道すじに灯籠をともしたとき、貧乏な一老婆がとぼしい中から一燈をささげた。そして、王の献じた燈籠は消えたり油がつきたりしたが、老婆の燈だけは終夜消えず、明け方に目連尊者が三度消そうとしたところ、ますます明るくよく光ったという。

今日の名画

Photo シニャック ヴェニス、サルーテ教会 1908年 宮崎県立美術館

サンタマリア・デラ・サルーテ教会は17世紀に建てられたバロック式の建物(1681年完成)で、サン・マルコ寺院の対岸にある。

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2009年8月17日 (月)

今日の名画

Img_0007 ドラン  郊外  1905年

    アンドレ・ドラン(1880-1954)は、パリのアカデミー・ジュリアンで絵画を学び、はやくから才能をあらわして1905年、画商ボラールと契約した。サロン・ドートンヌに出品し、輝かしい色彩とはげしい筆さばきによる多くの風景画は典型的なフォーヴの様式を示し、フォーヴィスムの強力な推進者の一人として大きな影響を与えた。一時セザンヌの影響のもとにキュヴィスムにも近づいたが、1920年ごろから形体の構図に次第に新古典的な要素を増しながら独自の様式を示した。

貝の中の美女

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   波に向かって叫んでみても

   もう帰らないあの夏の日

 ある日、若者が浜辺で大きな貝殻を手に入れた。あまりに大きくて珍しいので、家に持って帰って、甕の中にしまって置いた。するとその後は、若者が野良から帰って来るたびに、家の中がちゃんと片づいていて、火がおこって、湯が沸いて、食事の用意ができているのであった。

  「一体どうしたというんだろう。わしの家には、わしの他に誰もいないのに、留守の間に、食事の支度ができているなんて、いかにも合点がゆかぬ。よし、ことの次第を見届けてやろう」

  彼はこう思ったので、ある日いつものように野良に出かけて行くふりをして、そっと引き返した。そして外からひそかに様子をうかがっていると、やがて甕の中から1人の麗しい少女が現れて来た。

  「おやっ、変なところから、少女が現れたな。あの甕の中には、いつぞやの海から拾って来たおおきな貝が入っているだけだと思っていたのに」と、なおも様子を見ていると、少女はかいがいしく煮炊を始めて、やがてすっかり食物を用意してしまった。若者はいきなり家の中に駆け込んで、驚く少女に、「あなたは一体誰です。どうしてわたしの家に来て、食事の世話をしてくれるのです」と尋ねた。

   少女はにこりと笑って、「わたしは天の河の白水素女です。天帝があなたが独身で、貧しくて、そして気立てのよいのを哀れんで、わたしをやってあなたのお世話をおさせになったのです」と答えた。

   若者はこれを聞くと、「それはどうもかたじけないことです。いつまでもわたしの家に留まって下さい」と言った。

   少女は頭をふって、「それは駄目です。わたしはあなたのために好いお嫁さんを捜し出して、それから天の河に還るつもりでしたが、あなたがわたしのことを怪しんで、時ならぬ時に現われていらっしゃったから、わたしはもうこの家に留まることができなくなりました。ここにまだ貯えのお米が残っています。これを置いて行きますから、どうかお使い下さい。決して米には不自由をなさらぬでしょう」と言った。と思うと、風が吹き雨が降り出して、少女の姿が見えなくなった。(「捜神記」)

だれもしらない

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  だれもしらない遠くの国で
  ひとりで海をながめて泣いた
  海は青くてふくらんでいた
  ハンカチみたいな波だけ白い

  せつないことをいうのはよそう
  哀しいことも今はわすれた
  海をみながらリンゴをかじり
  ひとりでぼんやり海をみていた

  だれもしらない遠くの海に
  私ひとりの涙がおちて
 海にこぼれた私の涙

 だれにもみえずにきえてしまった

              やなせたかし

「マルケ」今日の名画

Img_0010 トルーヴィーユのポスター  1905年

    アルベール・マルケ(1875-1947)はパリのエコール・デ・ボザールでギュスターヴ・モローの指導を受ける。モローは熱心で自由主義的な教師で、「わたしは橋なのだ。君らのうち、だれかがわたしを渡ってゆくだろう」と口ぐせに語っていた。マルケはここでマチス、ルオー、マンギャン、カモワンなどと知り合った。当時、マルケはサン・ミッシェル川岸の家にマチスと共同生活していた。1905年にマチスとフォーヴィスム運動に参加したが、マルケは灰色を基調とした温和な色調とマチス風の単純な形態で風景画を描いた。

2009年8月16日 (日)

結ばれない永遠の愛

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   ローマ歴訪中のアン王女は、こっそり宮殿を抜け出して新聞記者のジョーに出会う。お互い身分を隠して、知らず知らずのうちに恋におちていく2人。絶対に結ばれないとわかっているからこそ盛り上がる愛もある。「永遠のローマ」という言葉がある。「ローマの休日」は結ばれない愛であるから、「永遠の愛」なのかもしれない。

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「ローマの休日」で人気沸騰し、ライフの表紙を飾ったオードリー・ヘプバーン。珍しいセクシー・ショット。

仁阿弥道八

Img_0007 色絵桜楓文鉢

  仁阿弥道八(1783-1855)は木米とともに頴川門下の逸材として知られるが、仁清、乾山につぐ京焼の名手となり、ことに琳派風の意匠に独特の境地を築いた。なかでも桜と楓を相対してあらわした意匠は雲錦手(うんきんで)と呼ばれる色絵陶器は高く評価されている。当時の文人の中国趣味の風潮の中にあって、あくまで日本的趣味の京焼の陶器に終始し、幕末の作陶界に光彩を放っている。

2009年8月15日 (土)

寂光院と建礼門院

Img_0782 寂光院本堂

   「平家物語」の最終章「大原御幸」は、壇ノ浦の合戦から1年ほどたって、大原の寂光院で平家一族の菩提を弔う建礼門院徳子(1155-1213)を後白河法皇が訪れるという話で始まる。だが、建礼門院のやつれはてた姿に法皇は思わず涙を流した。さらに、建礼門院はこう語る。「わたしは生きながら六道を見てしまいました」と。地獄も極楽浄土もすべて体験したという意味であろうか。

    建礼門院、つまり中宮徳子は、平清盛の娘で6歳のときに高倉天皇の後宮に入内。1172年高倉天皇の中宮となり、1178年に皇子(のちの安徳天皇)を産む。1181年、その皇子が3歳で即位して安徳天皇となり、徳子は国母として、建礼門院と称した。1183年、木曽義仲の入京によって、平家一族は西海に落ちていく。1185年、壇ノ浦で平氏一族も滅亡し、建礼門院も入水したが、助けられ帰京。やがて落飾して、大原寂光院に住む。没年は諸説あり、平家物語は36歳で、源平盛衰記では68歳となっている。寂光院で死んだとも、法性寺の辺りに住んでいたともいわれる。

   ともかく寂光院は建礼門院の閑居の寺として知られるようになったが、もともとは聖徳太子が父用明天皇の菩提を弔うために創建したと伝えられている。建礼門院死後、退廃したが、慶長年間には淀君が再興した。平成12年に放火により本堂は全焼したが、平成17年に再建された。

    建礼門院は源平の合戦での悲劇のヒロインとして知られるが、寂光院での静かで淋しい生活こそ、本人にとっては心安らぐ人間らしい暮らしというものであったかも知れない。

2009年8月14日 (金)

クロード・モネ

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モネ  アルジャントゥーユのセーヌ河、秋 1873年

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2009年8月13日 (木)

松島湾に浮かぶ宝島伝説の島

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 朴島

    松島湾の外縁を限る形で浦戸諸島がある。桂島(かつらじま)、野々島(ののしま)、寒風沢島(さぶさわじま)、漆島(うるしじま)、大森島(おおもりじま)、鷺島(さぎしま)、朴島(ほおじま)、馬放島(まはなしじま)などからなる。朴島は浦戸諸島のなかでも小さい島であるが、春には島全体に一面の菜の花が咲き誇る美しい島である。名前の由来は、①伝説の鳥「鳳凰」が住んでいた②ノロシの「烽火」があったから③仙台藩の軍用金や貴重な宝物が隠されていたため宝島(ほおじま)と呼ばれた、と諸説ある。

ギーヨマン

9801582 ベルシー河岸 雪の印象

アルマンド・ギーヨマン(1841-1927)フランスの印象画家。力感にあふれる明るい風景画を多数描いた。

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ブランデージ会長の東洋美術コレクション

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   アヴェレジ・ブランデージ(1887-1975)の名前は国際オリンピック会長として、わが国では記憶されている方も多いだろうが、東洋美術の愛好家、コレクターとしてその方面の人たちの間ではよく知られていた。ネットなどで調べるとブランデージ・コレクションはすべて現在サンフランシスコ市が管理するデ・ヤング博物館で展示されているようだ。デ・ヤング博物館は1894年のサンフランシスコ万国博覧会が開催されるときに建設されたアメリカでも有数の歴史ある博物館である。もともとでランデージはシカゴの建設業者で成功し、大富豪となった人物で、中国動機、玉、仏像彫刻、陶磁器、東南アジアの美術、インドの美術、書画など6000点以上が展示されている。

平安朝の言葉遊び

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   わが国では「嵐」という漢字は「山から吹く激しい風」という意味ですが、中国本来の漢字の意味は「山の清らかな風や空気、山気、もや」のことです。「嵐影湖光」(らんえいここう)という四字熟語の意味は「青々とした山気と湖の輝き、山水の風景のこと」です。つまり「嵐(もや)」の意である漢字を日本では強風、暴風雨という意味に宛てたことになります。百人一首の文屋康秀の歌にも「むべ山風をあらしといふらむ」とあります。文屋康秀は生没年不詳でずが、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇ごろの人だと思われます。おそらく9世紀末の人でしょう。平安時代の都では盛んにこのような言葉遊びが流行っていたのでしょうか。江戸時代の都都逸に「恋い戀という字は、いとしいいとしいと言ふ心」とか「松という字は、きみ(公)とぼく(木)との差し向い」があり、文字遊戯がお座敷で喜ばれました。アン真理子の「明日という字は明るい日と書くのね」(「悲しみは駆け足でやってくる」)も同類か。

社会の木鐸

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    世の中に警告を発し、社会を正しい方向に導くというこの意味の言葉は、新聞の代名詞としてしばしば使われる言葉である。しかしながら最近の新聞を読んでいると、「社会の木鐸」というよりも「世論誘導」というような気がする。近頃の政権交代ムードはマスコミのあおりの結果であり、真の民衆の声からの革命とは無縁のものであろう。だが日本の歴史的な出来事がこれからはじまるのも事実であろう。如何なる結果になるにせよ静かに見守りつづけよう。どうせこの世は有為転変。つくられたものは変わっていくのだから。

2009年8月12日 (水)

韓非は何故、始皇帝に殺されたか?

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韓非子肖像 北京歴史博物館蔵

    韓非は韓の王族の家柄で、かつて李斯とともに荀況に学んだ。当時、韓は秦と楚の強国に境を接してており、小国の韓は何よりも国力の充実が望まれた。しかし、韓では文学遊芸の者が重用されており、国の前途を憂えた韓非は「説難」などを著わして、所信を表明した。韓が秦に攻められると、韓王安(在位前238-前230)は韓非を秦に遣わした。秦王政(のちの始皇帝)は韓非を用いる気持があったが、廷尉の李斯の謀計によって毒殺された。

   韓非が殺されるにいたるまでには戦国時代の弱小国の歴史を語らねばならない。韓は昭侯(在位前358-前333)の時代に申不害を宰相に登用して中原に確固たる地位を保っていた。つづく宣恵王(前332-前312)の時代の前325年には、王号を称するようになっていった。しかし申不害が死んでからは見るかげもない弱小国となった。宣恵王、襄王(前311-前296)の2代の王に仕えた宰相が韓公仲である。韓侈(かんし)ともいう。韓非が非難してやまなぬ「重人」の典型である。彼は他国からも信用されていなかった。秦の昭襄王は、「韓は都合しだいでどっちにでも転び、盟約もあてにできない。いつか楚と戦ったとき、はじめ秦に味方していながら、少し旗色が悪くなると、さっさと楚に寝返った」と怒っている。韓の信用はやがてなくなり、誰からも相手にされなくなった。仕方なく韓は楚に全面的に従属するようになった。それで秦の侵攻が激しくなると、韓王は、窮余の策として、秦に一人の男を送り込んだ。男の名を鄭国という。卓越した水利技術者であった。大規模な水利事業によって秦の人力と財力を疲弊させようとする作戦だった。しかし、鄭国が韓の間諜であることが発覚した。この事件があったため、韓非は秦の者たちから最初から疑惑の目でみられていたに違いない。また荀況の門下である李斯の妬みをかっていたことも考えられる。李斯の保身のために韓非を亡き者にせねばならぬとかんがえたことは想像に難くない。韓非は生来どもりだったせいで、弁舌は不得意だったが文章の方は達者で、李斯も学問ではとても韓非にはかなわないと、自分でも認めていたという。李斯は廷尉の地位を利用して、すかさず獄中に毒を送り、君命であると偽って自殺を命じ、まんまと韓非を葬り去った。

2009年8月11日 (火)

切腹の歴史

Photo 村上義光の墓

   刀で腹を切って死ぬことを切腹というが、日本の習俗として外国人にも、「HARAKIRI」の名でよく知られている。自害の方法としては平安時代に始まり、源平争乱のころから一般化し、武士はもっぱらこれによるべきものとされた。明治になってからも軍人の間に切腹がもっともふさわしいとする観念が残っていた。乃木稀典、阿南惟幾、三島由紀夫などの切腹が知られている。

    ところで切腹の作法が未だ整わない南北朝時代、村上義光の切腹は、腹を十文字に切り、臓腑をつかみ出し、敵に投げるという壮絶なものであった。吉野神社の南約1㎞、道の脇に立つ宝篋印塔が南朝の忠臣・村上義光の墓である。義光は信濃の武将で、奪われた錦旗を奪い返し、大塔宮護良親王の身代わりとして、吉野落城のさい蔵王堂の仁天門上で自害した故事は有名である。

Murakami

松岡映丘「村上義光」

大地よ、鎮まれ。

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   今朝、強い揺れで目覚める。震源地は伊豆・東海地方。震度6弱。東京は震度4。やはりこの国は地震と台風の国。いつ何が起こるかわからない。国内のマツリゴトで覇権抗争に明け暮れているので、ついにウブスナガミ(産土神)が怒りが爆発した。はやく鎮まって欲しい。

開いた窓

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開いた窓、コリウール  1905

   アンリ・マティス(1869-1954)がこの絵を描いた場所は、友人の画家アンドレ・ドランと1905年の夏を過ごしたコリウールである。作品は同年のサロン・ドートンヌに出品されたが、このとき、彼とその仲間は「レ・フォーヴ」(野獣たち)というニック・ネームをつけられた。生涯マティスが愛することになるテーマ・窓を通して外景を望む部屋の一部の初期の作例である。

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2009年8月10日 (月)

第二のジェームズ・ディーン俳優の現在

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パトリシア・ゴッジとディーン・ストックウェル

    第2のジェームズ・ディーンと騒がれた青春スターは多数いるがその後どうなっただろうか。ディーン・ストックウェルは1936年生まれの73歳。「息子と恋人」(1960)や「かもめの城」(1965)でスターとなった。「アンネの日記」のミリー・パーキンスと結婚したが、その後あまりパッとした活躍はなかった。ウィキペディアの項目にその名前は無いだろうと思ったが、あった。なんと彼は80年代に入りデビィッド・リンチ監督作品に出演し、名脇役としての地位を確立して現在も活躍している。もともとハリウッドの名子役で「錨を上げて」(1945)や「紳士協定」(1947)などの名作にも出演しているディーン・ストックウェルは息の長い役者人生を送っていた。

   クリストファー・ジョーンズは日本ではよく知られた二枚目俳優である。ジェームズ・ディーンの再来といわれた。映画「ライアンの娘」は公開当時イギリスやアメリカでは巨匠デヴィッド・リーンへの過大な期待から酷評だった。しかし日本では好評だった。なかでもイギリス将校ランドルフに扮するクリストファー・ジョーンズは女性の心を鷲づかみにした。ところが彼はその後、忽然と姿を消した。何十年たってようやく舞台の端役をしている情報が入った。そして日本未公開の映画にも出演している。クリストファー・ジョーンズの失踪はいまだ謎に包まれている。おそらくピア・デゲルマルクとの恋が関係していると想像したい。2人は「鏡の国の戦争」や「さよならを言わないで」で共演している。当時2人の恋の噂はあった。だがピアは貴族と結婚し、離婚。拒食症となり、同じ病気の人を救う目的で基金を設立したが使途不明金、虚偽申告で訴訟問題へと発展。私財が無くなり、薬物中毒となり投獄される。そのようなピアの没落人生のため、人生に悲観したクリストファー・ジョーンズも映画界から離れたのではないだろうか。ジョーンズは2014年1月31日、癌による合併症で72歳で亡くなった。

Img_0010 ピア・デゲルマルク

   クリストファー・ジョーンズの生い立ちを紹介しよう。1941年8月18日、アメリカ、テネシー州ジャクスンに生まれた。3歳の時に母を亡くし、それから後11年間をメンフィスの孤児院で過ごした。ハイスクールを卒業後2年間の軍隊生活を経てニューヨークのYMCAで暮らした。ここで始め画家を志して勉強をしたが、のちに俳優志望に転換、有名なアクターズ・スタジオに学んだ。そしてニューヨークの舞台で様々な端役を演じ、それからハリウッドに行ってTVシリーズ「西部の流れ者ジェシー・ジェームズ」に出演。この好演によって映画「青春の海」(1967)でデビュー。その醸し出す孤独感、憂愁を含んだ眼差しは女性のハートを大いに揺さぶった。私生活ではアクターズ・スタジオの校長の娘スーザン・ストラスバーグ(「女優志願」)と結婚するも、離婚した。その陰にはピア・デゲルマルクとの恋があったと推測する。

主要出演作品「青春の海」(67)「熱い肌」(68)「狂った青春」(68)「鏡の国の戦争」(68)「さよならを言わないで」(70)「ライアンの娘」(70)「マッド・ドッグズ」(1996)「ユーガット・サーブド」(2004)

風のある街

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 風がわたしを呼んでいる

  風があなたに歌っている

 生きるよろこびを

  たのしみを

 風のある街を

  元気に生きよう

 しあわせな心を

  だきしめながら

 風がみんなを呼んでいる

  風はいつでも歌っている

 愛のしあわせに

  おもいでに

 風のある街を

  元気に生きよう

 しあわせのまつげを

  またたきながら

              やなせたかし

ナビ派

Photo_2 ドニ 踊る女たち 1905

    モーリス・ドニ(1870-1943)はフランスの画家。ナビ派。ナビ(Nabi)とは預言者を意味するヘブライ語で、詩人ガザリスが名づけた名称である。ナビ派は1889年、印象派と総合主義の展覧会がカフェ・ボルピニで開かれたのを機にはっきりとしたグループを形成するにいたった。ナビ派にはポール・セリュジェ、ドニ、ボナール、ビュイヤール、ルーセン、イベルス、ピオ、ベルカーデ、バロットン、マイヨールらがいた。彼らは毎月、パリのブラディ街のカフェに集って討論した。ナビ派の様式はフォービズム、キュビズム、抽象絵画を支える理論的な支柱となった。

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2009年8月 9日 (日)

ジェーン・バーキンという女性

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   新聞でジュリエット・グレコの来日公演の広告を見る。1950年代、サルトルの実存主義のミューズといわれた彼女は、現在82歳だがお元気だ。グレコは映画「悲しみよこんにちは」にも出演し、主題歌も歌っていた。主演のジーン・セバーグ(1938-1979)は40歳で早死にしたが、実はアメリカの女優だった。1960年代に活躍した「太陽がいっぱい」のマリー・ラフォレ(69歳)や「ガラスの墓標」のジェーン・バーキン(62歳)も元気に活躍のようすだ。最近の彼女を雑誌で見て少し驚く。でもスレンダーな体とジーンズはやっぱりジェーン・バーキンだ。ジェーンは今年のカンヌ映画祭で話題作「アンチキリスト」で主演女優賞を受賞した。女優、歌手、脚本家。そして「冬の子供たち」で作詞家でデビューしている。セルジュ・ゲンスブールとの間にできた娘シャルロット・ゲンスブールは人気女優(「なまいきシャルロット」)だ。自由奔放の自分流スタイルで幸福をつかんだジェーン・バーキンの生き方は素晴らしい。そして彼女が大原麗子と同じ年ということにフランスと日本の文化の違いを感じる。

のりピー音頭と日本の夏

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   花火大会、夏祭り、そしてお盆と日本の夏は本番を迎える。ところが日本は和風と洋風がごっちゃになった文化なので、なぜか違和感を感じるのもこの季節である。たとえばお坊さんがスクーターで袈裟をなびかせて檀家回りをする姿をみかけるが何かヘンな気がする。むかし勝新太郎や萩原健一が大麻で逮捕されたときは違和感を感じなかったが、のりピーと覚せい剤とはギャップがありすぎる。夫が逮捕されたとき、酒井法子に同情が集り、アジアでも大きなニュースとなったが、失踪から逃亡に変わり、のりピー逮捕という衝撃的な事件へと展開した。80年代アイドルのなかでも酒井法子は男の子に元気と感動を与えられる10年に1人という逸材の正統派アイドルだ。90年代には中国、韓国、台湾、香港でも人気者となり、玉の輿といわれた結婚、一児の母、まさに勝ち組の代表ともいえるアイドルに何があったのか知るよしもないが、日本の夏は本当にいろいろなことがある。

2009年8月 7日 (金)

夏の図書館

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   図書館は学生の城 夏休み

                     冨士谷清也

   受験戦争が激しかった時代は夏休みの図書館は閲覧室の座席を確保することもたいへんだった。朝早くから並んで抽選で当たったものだけが座席券をもらって、勉強ができる。まさに学生のための施設という感じだった。最近は、ひところのような受験戦争もみられなくなり、また学生もあまり勉強しなくなり、高齢者が多いようだ。冨士谷清也は岡山の俳人。

  図書館は老人の城 夏休み

隠者を尋ねて遭はず

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    中唐の詩人・賈島(779-843)の詩に「隠者を尋ねて遭(あ)はず」がある。隠者とは、隠遁生活をしている人という意味よりも、唐代では高潔の士で理想的な人物と讃えられる風潮があった。官吏を辞して、田舎に住み、とくに決まった仕事もせずに、一日自然とともに閑適生活を愉しんでいる人である。

 松下 童子に問ふ

 言ふ 師は薬を採りに去ると

 只 此の山中に在らんも

 雲深うして 処を知らず

   この漢詩を読むと劉備が孔明の草廬を尋ねた「三顧の礼」の故事を思いうかべる。隠者の山荘を尋ねて行く。松の木の下に立っていた召使の子どもに、「先生は」とたづねた。「先生は、朝はやくから出かけた」「いつごろかえってくるでしょうか」「さあ、わかりません。いつも、ふいっと出かけられて、1ヵ月も半年もおかえりにならないときがあります」このような三国志でのやりとりを思い出させる味わい深い詩である。

「さよ」という女

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   女優の大原麗子さんが3日に亡くなられた。長い闘病生活と一人暮らしのため、死亡後、数日経過して発見されるという悲しいニュースである。若い頃の東映時代はおきゃんでお転婆というイメージだったが、テレビで愛らしい美女へと変身した。その後、映画へ戻ると「セカンド・ラブ」「居酒屋兆治」「おはん」、大河ドラマ「春日局」など大女優としての道を歩む。とくに「居酒屋兆治」の「さよ」という儚く病弱な女性は彼女のイメージと重なる。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

人生の虚しさ

Img_0009 火のついた煙草をくわえる髑髏 1885

   「ひまわり」で知られるゴッホの作品としては珍しいものであろう。絵画の世界では、髑髏や煙草は人の世の空しさ、はかなさを意味する図像として捉えることができる。特に「ヴァニタス」(虚栄)といって、17世紀のオランダでプロテスタンティズムの思想と結びついて盛んに描かれたものである。19世紀の人、ゴッホもオランダ人なのでこのような絵画の伝統が受け継がれているのが興味深い。ヴァニタスは虚栄、生のはかなさ、現世の虚しさなどと訳されるがもともとは旧約聖書に由来する。

エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。

コヘレトは言う。

なんという空しさ、なんという空しさ、

すべては空しい。

太陽の下、人は労苦するが

すべての労苦も何になろう。

一代過ぎさればまた一代が起こり

永遠に耐えるのは大地。

日は昇り、日は沈み

あえぎ戻り、また昇る。

(旧約聖書、コヘレトの言葉)

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2009年8月 6日 (木)

孔明の妻選び

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   最近、妻も子もある社会的高い地位の男性が暴力、不倫、浮気、覚せい剤、大麻など信じられない愚行で家族を悲しませる行動がニュースとなっている。とくに有名美人女優を妻にした男性など、ふつうなら人生バラ色であろうはずが、なぜ堕落するのだろうか。美人を妻に迎えることはハイリスクなのだろうか。諸葛孔明は妻を選ぶ時、容色よりも才智を選んだという話は名高い。

    襄陽の名士黄承彦は、「あなたは妻を求めていると聞きましたが、私に一人器量の悪い娘がいます。髪は赤茶けていて色も黒いが、才智の面ではあなたの妻として恥ずかしくない娘です。どうかもらってやってください」孔明は承諾した。すると黄承彦はただちに車で孔明の家に送りつけた。

   凡百の男ならば容姿第一に妻を選ぶだろうが、孔明は違った。幼くして両親を失い、叔父玄に引き取られるがその叔父にも死なれて家庭的に恵まれなかった。そんな孔明が黄氏と築いた家庭は素晴らしいものであった。孔明の学識は彼女の助けによるところが大きかった。当時あたりまえとされていた側室も孔明はもたなかった。そういえば本当の一流とかスーパースターの中には年上の妻をもつことが多い。それは自分の環境を最優先にしてくれる家庭的な女性を求めるからであろう。どうやら美人妻はハイリスクかもしれない。だが当時こんな歌も流行った。「孔明の妻選びをまねるなかれ。まさに阿承(黄承彦のこと)の醜女を得ん」

フラットフォードの水車小屋

Img_0010 フラットフォードの水車小屋 1817年 カンスタブル

   夏の日の午後、少年が引き馬の綱をほどき、はしけがまもなくフラットフォード橋にさしかかるさまが描かれている。右手の牧草地では乾燥つくりの農夫が長い影を落しており、1日の仕事を終えたようすが見てとれる。ジョン・カンスタブル(1776-1837)は、ターナーと並ぶイギリスの有名な風景画家。

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2009年8月 4日 (火)

象徴天皇論と筧克彦

    敗戦後、新憲法の制定が問題になったとき、従来の神権天皇制をどうすべきかが争点となり、天皇制廃止論も一部にはあった。しかしアメリカの判断によって、新憲法は天皇主権・神権主義は否定しつつも、天皇という世襲的機関は、まったく政治的権力をもたない儀礼的役割をもつものとして認めることとなった。つまり象徴天皇制は主にアメリカの意向によるものとされているが、日本の憲法学者たちはいつごろから象徴天皇論を唱えるようになったのであろうか。古くは明治期に小野梓(1852-1886)の著書「国憲汎論」に象徴天皇の理念が説かれている。

  戦後の新憲法制定には三宅正太郎、横田喜三郎、金森徳次郎ら憲法学者の名前が挙げられる。ところが戦前、美濃部達吉よりも優秀な人材として知られた筧克彦(1872-1961)の名前については今日では秘されることが多い。筧はドイツ留学時にキリスト教と出会い、帰国後、すでに大正初期から独自の古神道論を展開し、キリスト教の神と天皇制との融合を試みようとしていた。この筧克彦から貞明皇后はキリスト教に接したといわれる。その仲介となったのは関屋貞三郎の妻である関屋貞子である。また戦時中には吉田茂らのグループは敗戦を想定して、戦争放棄と天皇の象徴制を構想していたらしい。つまり筧の象徴天皇論は明確な形ではないものの、独自の神道哲学とヘーゲル哲学の融合から、天皇を非権力的な存在にしようとする戦前の思想がすでに国内にも存在しており、新憲法の「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴である」という戦後の思想潮流へと帰一するのである。

ジョージ・スタッブス

Img_0010 川のほとりの雌馬と子馬

   ジョージ・スタッブス(1724-1860)は美術史上最も偉大な動物画家である。リヴァプールの革職人の息子で、絵はほとんど独学で学んだ。年少のころに解剖学に興味を覚え、画家としてはきわめてめずらしく、実際に解剖を手がけた経験もある。彼の作品は、美術と科学への興味が一体となったもので、自然界を探求して理解したいという願望を反映している。ほかの画家にはまねのできない実験的な手法を試みたのも、この好奇心の賜物である。

   スタッブスに盛んに絵を注文して偉大な作品を制作させたのは、貴族と富裕な新興中産階級だった。そうした作品のなかには、めずらしい動物の絵、馬の肖像画、カンヴァセーション・ピース(家族団欒画)、田園風景などがある。晩年の20年間は、野心的だが金銭的には報われることの少ない作品に取りかかったためか、借財をかかえることが多かった。彼は81歳でロンドンで亡くなった。

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2009年8月 3日 (月)

連続テレビ小説「つばさ」を最後まで応援します

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   今日、本屋で「NHKステラ」のカレンダー・カードをゲットした。多部未華子の写真の顔が心なしか沈んでみえる。視聴率が一向に上昇しない。4月スタートは17.7%だったが、15.9、16.0、14.0と5月、6月は推移し、7月の前半の山場を迎えても13.8、「嵐の中で」14.2、「さよならおかん」14,4、「二十歳の夏の終わりに」13.2であった。先週は長瀞ロケで斉藤由貴が再び登場したのに、逆に下がっている。今週「太陽がいっぱいだ」で再びラジオポテトにもどるヒロインつばさだが視聴率が上昇する機運はなさそうだ。多部未華子の熱烈なファンは別にして一般視聴者から不評であることは逃れようもない事実である。「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」のようなホームドラマというふれこみであったが、暗い話が多くて、つばさや翔太も元気がない。この企画は昨年の「篤姫」ブームの影響がNHKサイドにあったようだが、宮崎あおいのようなメリハリのある演技ならばもうすこし明るいコミカルな雰囲気になったろうが、多部未華子という魅力ある素材を生かしきれなかったことが悔やまれる。多部はバレエが得意なようで、身のこなしの美しさがある。なにより素顔のままの美しさと聡明さが魅力である。いわゆる芸能人らしさがないことが最大の魅力で朝ドラのヒロインとしてはふさわしい女優であっただけに作品的にめぐまれなかったことは残念である。もちろん将来のある女優さんであるので、NHKで大ブレークして固定したイメージがつくよりも長い女優人生を考えた場合、朝ドラ大コケのほうがよかったということもありえるように思う。韓国のドラマのように不評なら中止ということがないので、ともかく安心して最後まで「つばさ」を応援することにする。

水泳ニッポン

Img_0009 古橋廣之進と橋爪四郎

   「フジヤマのトビウオ」とアメリカ人から形容された戦後復興期のヒーロー古橋廣之進さんがローマで逝去された。前日までお元気だったが、40度を超えるプール会場の猛暑が影響したのであろうか。巨星の突然の訃報にただただ悲しむばかりである。客死といえば、柔道教育家の嘉納治五郎先生もカイロで行われた国際オリンピック会議の帰途インド洋上で氷川丸にて帰らぬ人となった。昭和13年のことで、まぼろしになったが東京オリンピックの招致に成功した直後のことだった。日本のお家芸ともいえる水泳と柔道。ご高齢の身をおしてオリンピックに尽力された偉大な指導者が2人とも旅先で亡くなられたことに深く敬意を表するものである。

今日の名画

Img_0010 いばら姫 エロール・ル・カイン

   エロール・ル・カイン(1941-1989)は、シンガポールに生まれる。子どもの頃、日本、香港、サイゴンなどを旅行したり、インドに5年間住んだりした。14歳のときからアニメーション作りにとりつかれ、また東洋の神話や伝説に興味をもった。1965年に初めて絵本「アーサー王の剣」を出版して以来、40冊を超える作品を発表し、「イメージの魔術師」といわれる。48歳の若さで他界した。

2009年8月 2日 (日)

アルプスの少女ハイジは永遠に

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   「ハイジ」の作者で知られるヨハンナ・シュピーリ(1827-1901)。(むかしはスピリと表記されていた。)医者の娘としてスイスのヒルツェルという美しい山村で生まれた。6人兄姉妹の第4子。愛称はハニー。ハイジのように、野山をかけめぐるお転婆な女の子だった。また、読書家でもあり、愛読書はゲーテ。25歳のときに結婚。幸福な家庭生活を過ごすかたわら、少年少女の物語を多く書いた。とりわけアルプスのハイジを主人公にした物語「ハイジの修行時代と遍歴時代」(1880年)と「ハイジは習ったことを使うことができる」(1881年)は世界各国語に訳され広く読まれた。ほかにも「グルトリの子どもたち」「ウィルデンスタインの城」「コルネリの幸福」などがあり、その全体が「子供と子供を愛する人々のための物語」全16巻(1879-1895)にまとめられている。ほかに「フローニーの墓の上の一葉」などがある。

「世界のミフネ」のご先祖はサムライではなくて山伏か?

Img_0009 三船徳造

    秋田と山形との県境に日本海の波打ち際に聳える鳥海山は昔から霊峰として仰がれ、信仰登山が盛んに行われていた。映画俳優三船敏郎(1920-1997)の父三船徳造は、鳥海山の麓にある寒村・由利本荘市鳥海町小川の出身。三船家は代々修験道を司る家系で、黒石神社は神仏習合による鳥海山大権現を祀る。修験道とは、山中の修行により霊験や呪力を身につけることを目的としている仏教で、密教に基づき、神仏いずれにも仕え、山伏や法印とも称されていた。つまり三船敏郎の男性的な声や風貌は日本古来の山伏の姿を彷彿させるものがある。「世界のミフネ」は武士のイメージが強いが、厳密にいうと修験道や山伏を体現化しているものである。徳造は中国青島や大連で写真業を営んでいたが、いつ中国へ渡ったか明らかではないが、おそらく大正初期のことであろう。つまり明治末期に徳造は写真技術を習得したのであろう。明治の西欧化の波は秋田にも及び、修験道の伝統ある三船家も転業を余儀なくされた。三船敏郎が映画会社に入社したのも写真技術の知識があたためであろう。明治の近代化の余波によって親子二代の労苦の中から国際的スターが誕生したのである。

2009年8月 1日 (土)

ダーリンはコメディアン

    ビビる大木と酒井若菜との交際が報道された。2人は幕末史が好きで、仲が深まったと言うユニークなカップル。明石家さんまと大竹しのぶと結婚した時、コメディアンと女優という意外な組み合わせに驚いたのも今や昔のはなしだ。藤原紀香と陣内智則のカップルが象徴するように、コメディアンと女優・アイドルのカップルが芸能界ではフツーとなった。女性はユーモアのセンスを重視するらしく、パートナーに安らぎを求めているようだが、現実生活となるとなかなか難しい場合も多いようにみえる。そもそも女優・アイドルでコメディアンを伴侶とした第1号は、松竹の看板スターだった水戸光子であろうか。相手は「男はつらいよ」のおいちゃん役の森川信であった。コメディアンとはいえないが二枚目半の柳沢真一は池内淳子と結婚している。加藤茶と歌手の小山ルミとの交際が噂になったのが、コメディアンとアイドルとの最初かもしれない。桂菊丸・泉アキ、芦屋小雁・斉藤とも子、清水圭・香坂みゆき、木梨憲武・安田成美、石橋貴明・鈴木保奈美、モンキッキー・山川恵里佳、コアラ・三原じゅん子、ガダルカナル・タカ・橋本志穂、木村祐一・辺見えみり、井戸田潤・安達祐実、庄司智春・藤本美貴。

ひれふりの嶺

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   佐賀県松浦の地方は、魏志倭人伝にも「末廬」と見えて、はやくから大陸文化と関わりの深いところである。唐津は大陸にわたる要港であった。宣化天皇のむかし(6世紀前半)新羅攻撃に向かう青年・大伴狭手彦が土地の長者の娘である松浦佐用姫と恋をした。しかし、やがて狭手彦は再会を約し、哀惜の情を1枚の鏡に託して航路についた。佐用姫は別れ易く、会うことの難いことを嘆いて、鏡山(唐津市)に登り領巾(ひれ、婦人の肩にかける布)を振って船を招いたので、その山を「ひれふりの嶺」と名づけたという伝説が残されている。さらに後日譚として、佐用姫は船を追い、松浦川を渡り、加部島の丘に果てた。七日七晩泣き続け、ついに石に化したという。

    この松浦佐用姫伝説は、万葉の歌人たちにも数多く詠まれている。

遠つ人松浦佐用比売つま恋ひに  頒巾振りしより負へる山の名 山上憶良(巻5-871)

行く船を帰れとか 頒巾振らしけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-874)

行く船を振り留みかね如何ばかり 恋しくありけむ松浦佐用比売 大伴旅人(巻5-875)

今日の名画

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   キース・ヘリング(1958-1990)。1980年代の代表的ポップアーティスト。初期の作品は、ニューヨークの地下鉄の壁や路上に描かれた。いまでは世界中のギャラリーや美術館で展示されるようになった。ユニクロのTシャツなどその人気は衰えることはない。エイズに冒され31歳で夭折した。

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