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2009年7月31日 (金)

李白と阿倍仲麻呂

Img_0009 阿倍仲麻呂の記念碑 西安の興慶宮公園

   生涯酒を愛し、放浪の旅をした詩人の李白(701-770)の生地については異説が多いが、蜀の青蓮郷とするのが通説である。20歳代の半ばまで、東厳子という仙人と峨眉山と岷山の間で、道教の修行に励んだという。その後、湖北、洛陽、太原で遊侠と行動をともにしたり、山東で導士たちと隠棲したり、会稽に遊んだりしていた。天宝の初め、長安に出て、賀知章にみとめられて、その推挙によって玄宗に仕えた。当時、玄宗の信任も篤く、並ぶ者なき権勢を誇っていのは高力士という宦官であった。だが李白は、この宦官におもねらなかった。それがために、わずか3ヵ月で朝廷から追われた。天宝3年(744年)、李白44歳のことである。そのころ日本から遣唐使として唐に留学していた阿倍仲麻呂は長安に留まって、玄宗の厚遇を受け重用されていた。李白と阿倍仲麻呂が出会ったのは、おそらく天宝2年のことであろう。両人は同じ年でおそらく話もあったであろう。それからの李白は都長安を去り、梁、宋、呉、越、金陵、江東、南陽、新平、邯鄲、蘇州、幽州など各地を転々とする。仲麻呂は天宝13年(753年)日本へ帰国することになる。だが途中で暴風雨にあい安南(ベトナム)に漂着、再び長安に戻って官人となり、玄宗、粛宗、代宗の三代の皇帝に仕えて、日本に帰ることなく唐土で没した。年73歳。

   李白は噂で船が海に沈んだと聞き、仲麻呂が死んだものと思い込み、「晁卿衡を哭す」という仲麻呂を哀悼する詩を作っている。晁衡とは仲麻呂の中国名である。終生漂白の人生を送った李白は宝応元年(762年)当塗(安徽省)の李陽冰の宅にて病没する。行年62歳だった。

納豆売りの少年

Img_0008 マッチ売りの少女 茂田井武 1946

   終戦の年の寒い冬の日のことであった。挿絵画家の茂田井武は、「マッチ売りの少女」の挿絵を頼まれた。大好きなアンデルセンの童話だ。何時になく張り切って数枚描いてみたが、どうしても少女の表情が上手く描けずに悩んでいた。そんなとき、2人の娘たちの無邪気な笑い声が聞えた。「毎朝売りに来る納豆売りの少年、冬でも薄着でおんほろの服なのよ」「こないだは鼻水たらしていたわ」「たべもの売っているのきたないね、アハッハ…」それを聞いてた茂田井は娘たちを厳しく叱った。当時は、父を戦争で失い、納豆売りで母親を助ける子供たちもおおかった。そして茂田井は「まだ納豆が残っているのなら、全部買ってあげなさい」といってアルミの器を姉に渡した。姉妹たちは父のやさしい言葉を聞いて、喜んで買いに出かけた。そのとき、茂田井の脳裏にマッチ売りの少女が現われた。純真無垢なその表情は、いまも観るものの心の中に灯をともし続けている。

公園で愛を交わす男女

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 公園で愛を交す男女 ムンク

   エドヴァルド・ムンク(1863-1944)。ノルウェーの画家。孤独・嫉妬・不安・病患・死などを主題とした。

2009年7月30日 (木)

そうなれたらいいな

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    韓国ドラマ「空くらい地くらい」第87・88話。ムヨンとウナは2人とも高卒認定試験に合格しました。第66話でジス父のジョンフン(ホン・ソヨプ)とミョンジュ(ユン・ヘヨン)の結婚式で新郎ジョンフンが「そうなれたらいいな」という詩を読み上げ、新婦のミョンジュに詩を捧げるシーンがありました。とてもいい詩で心温まる詩なので紹介します。

    「そうなれたらいいな」

心が通じ合い

言わずとも 互いを思いやり

感謝し合えるような 仲になりたい

防風林のように風を防いで

いつも同じ場所に立っている木のように

君と僕もそうなれたらいいな

高い山に守られた水は深く青く澄んでいて美しい

そんな関係になれたらいいな

山と水が無理に混ざろうとせず

山は山のままで 水は水のままでいる

だから美しい風景になる

「そうなれたらいいな」

2009年7月29日 (水)

ウンジュとサンヒョンの復縁

Img_0010 立っているのが新人のカン・ジョンファ 笑顔がよく似合う

    韓国ドラマ「空くらい地くらい」第85話、86話。ウンジュは嫌々ながら母のすすめたお見合いをした後、サンヒョンをドライブに連れ出し、海へ行く。沈む夕日をバックに抱擁する2人。あれあれ、あれほど怒っていたのにサンヒョン君どうなっちゃったの。肉食系女子ウンジュは強引にラブホテルへサンヒョン君を連れて行った。(いいんです。結婚式を挙げた2人だ)どうやら、ウンジュとサンヒョン、2人の愛は本物です。人の交わりにはおのずから相性の合う合わぬがある。それも不思議な縁によるもので他人には図り知れない。夫婦善哉、合縁機縁。サンヒョン役のイ・ジュヒョンは長身でスポーツマンですね。剣道のシーンですり足がとても上手でした。韓国でも剣道が盛んなんですね。ウンジュ役のカン・ジョンファ。笑顔がとても可愛いです。役が超わがままのお嬢様なので最初は嫌いでしたが、どんどんファンになっていきました。デビューは「宮廷女官チャングム」です。女医チョドン役でチョットだけど出演しています。イ・ヨンエやハン・ジミンら美人に囲まれても見劣りしません。

川越は歌麿の出生地かもしれない

Utamaro3 歌麿の墓 専光寺(世田谷区)

   いま放送中の朝ドラ「つばさ」の舞台である川越は小江戸といわれ、江戸の浮世絵師・喜多川歌麿(1753-1806)の出生地としても古くから言われている。だが浮世絵師の伝記はきわめて資料が乏しく、歌麿の出生地は複数の説がある。①川越説②江戸説③大坂説④京都説⑤栃木説などあって決め手はない。どこか地方で生まれて、母とともに上京し、鳥山石燕(1712-1788)の門人となったらしい。歌麿の没年は菩提寺専光寺(東京都世田谷区)の過去帳によれば、「文化三年寅年九月二十日、行年五十三」となっている。これを基にして、宝暦3年(1753)生まれたとするのが、通説となっている。

    川越説の根拠となる資料は、明治23年刊行の「名人忌辰録」(関根只誠編)である。それによると「号を燕岱斎、名は信美、武州川越の産、本姓小川氏、文化二巳年五月三日歿す、歳五十三」とある。歌麿の没した年月日が過去帳と合わない。大坂・京都説は上方の好色本に歌麿のことが記されていたのであろうが、歌麿は幼少にて上京したので上方の風習は身につけていなかったと思われる。江戸説は、歌麿は忍岡歌麿と名乗っていたことによるものであろうか。上野はかつて忍ヶ岡(しのぶがおか)とよばれいた。「浮世絵類考」「浮世絵備考」「浮世絵百家伝」「浮世絵画人伝」などの説である。

    つまり歌麿は江戸で活躍していたので江戸の人としている人名事典は多い。だが名人忌辰録の「武州川越産、本姓小川氏」という説には捨て難いものがある。もし歌麿が本姓小川氏とあって、これを武家出身とみるとき、享保9年の川越町屋敷図面に、「小川才兵衛」の屋敷名が記されている。武家出身の小川市太郎(歌麿)は放蕩となり、遊里の巷に出入し、遊女等の姿を描く版画家となったため他姓(北川)となったとも考えられる。昔から川越では言い伝えに歌麿の出身説は根強く残されている。

忘れられた名人・伊上凡骨

   伊上凡骨(いがみぼんこつ 1857-1933)という名前を知る人は今日あまりいないだろう。明治・大正・昭和の三代にわたり木版彫刻の第一人者であった。夏目漱石「心」の自序にその名がでてくる。「装幀の事は今迄専門家ばかりに依頼していたのだが、今度はふとした動機から自分で遣って見る気になって箱、表紙、見返し、扉及び奥付の模様及び題字、朱印、検印ともに、悉く自分で考案して自分で描いた。木版の刻は伊上凡骨氏を煩はした。それから校正には岩波茂雄君の手を借りた。両君の好意を感謝する。」とある。「心」の刊行には造本、装幀、装飾すべてにわたって漱石の芸術性が発揮されているが、流石に彫刻刀を持ってすることだけは名人の凡骨にお願いしたようである。漱石といえば名取春仙、中村不拙、橋口五葉、津田晴楓などの画家が注目されることが多いが、実は漱石と彫師・凡骨こそ密接な関係にあり、もっと注目されていい芸術家であると思う。凡骨は阿波の出身で川柳仲間であった若き吉川英治に阿波の話をしたことが「鳴門秘帖」を執筆する切っ掛けであったことはよく知られている。凡骨は与謝野寛、晶子夫妻の「明星」や「白樺」などの雑誌の挿絵やカットを制作し、平福百穂、冨田渓仙、岸田劉生、速水御舟など多くの画家に敬愛された。凡骨の技術は当時神技といわれ、その技術と名人肌の奇行ぶりは有名であった。

2009年7月27日 (月)

ファースト・レディはトップモデルで歌手

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   フランス大統領サルコジは26日ベルサイユ宮殿の庭園内をジョギング中に身体の不調を訴え、ペリコプターで陸軍病院へ搬送された。サルコジの趣味はジョギングで、今月訪問先のニューヨークでもセントラルパークでジョギングをしていた。サルコジはセシリアと離婚したのちモデルで歌手のカーラ・ブルーニと結婚。18日に開かれた南アフリカ元大統領マンデラの誕生日を祝うパーティーで、ブルーニは自身のヒット曲「ケルカン・マ・ディ~風のうわさ」を歌った。パーティーにはスティービー・ワンダーやシンディー・ローパーなども出席していたが、サルコジ大統領の親米ぶりに夫人の内助の功ありということか。美しいファースト・レディー、今度は献身的な介護に務めるのだろうか。

2009年7月26日 (日)

夜半の鐘声

Img_0010 寒山寺山門前の江村橋

   「水の都」とうたわれた蘇州は運河と古い石橋がその昔日の面影を伝えている。中唐の詩人・張継の七言絶句「楓橋夜泊」は我が国で、人々に最もよく知られている漢詩のひとつである。

 月落ち烏啼いて霜天に満つ

 江楓漁火愁眠に対す

 姑蘇城外の寒山寺

 夜半の鐘声客船に到る

   この詩の解釈には異説がある。第一句は、明け方の情景と思われるのに、第四句に「夜半の鐘声」とあるからである。宋の欧陽脩は「句は則ち佳なるも、其れ三更は是れ鐘を打つの時ならざるは如せん」と述べ、真夜中に寺の鐘がなるのはおかしいと言った。その後、多くの反論が出て、唐代には真夜中にも鐘が鳴るという例が挙げられた。つまり、起句で明け方の情景かと思ったが、実はまだ夜中であったということになる。こうして見るまま、聞くまま感ずるままを、そのまま表現したのがこの詩であるようだ。旅の愁いのために眠れぬ心がひしひしと読者の胸に迫ってくるのをおぼえる。

   なおこの詩について、後日再び楓橋に来て作ったという詩「重ねて楓橋に宿す」がある。おそらく後人の偽作であろうと思われる。

 白髪重ねて来る一夢の中(うち)

 青山改めず旧時の容

 烏啼き月落つ寒山寺

 枕を欹(そばだ)てて猶ほ聞く半夜の鐘

   江蘇省蘇州にある寒山寺は梁の時代の天監年間(502-519)に創建された名刹。寒山寺から徒歩5分の地にある楓橋は現在、江村橋とよばれている

ロトとその娘たち

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    アブラハムの甥であるロトはソドムへ逃れた。しかし天使がソドムとゴモラの街が滅びることを伝えると、ロトは夜が明ける前に妻と二人の娘を伴ってソドムを脱出し、近隣の都ツォアル(ベラ)へと向かった。逃げる際に「後ろを振り返ってはいけない」と指示されていたが、ロトの妻は立ち止まって振り返ったので、死んでしまった。その後、ロトは山中の洞窟に移住した。ここで娘たちは父ロトを酔わせ、父によって男子を一人ずつ生んだ。長女の息子は「モアブ(父親よ)」と名づけられ、次女の息子は「ベア・アミ(私の肉親の子)」と名づけられ後にアンモンの人々の祖となった。
アルブレヒト・アルトドルファー(1480年頃ー1538)作の「ロトとその娘たち」(1537年)ウィーン美術史美術館蔵

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2009年7月25日 (土)

お夏清十郎の墓

S_saigoku04_05 水間寺境内にある「お夏清十郎の墓」

   姫路本町の目抜き通りに店を構える米問屋の但馬屋九左衛門。その娘にお夏という16歳の春を迎える美しい娘がいる。男を選り好みしてなかなか縁談が決まらない。ある日、新しい手代が雇われた。それが清十郎である。まじめな仕事ぶりで主人の信頼を得る。ある時、仲居が清十郎の帯をくけ直していると、中から室津の遊女たちの恋文が山と出てきた。かくも女を酔わせた清十郎とはどんな男かと興味をそそられたお夏は、たちまち恋におちる。純真で一途な思いが清十郎にも通じ、二人は手に手を取って駆け落ちする。飾磨津から上方へ。だが「向ふ通るは清十郎ぢゃないか。笠がよく似た菅笠が」と唄に歌われ、船は一里ばかり沖へ出たところで港に戻り、二人はあえなく追っ手に捕らえられる。折りしも、但馬屋では700両の金が紛失。清十郎は身に覚えのない横領とかどわかしの罪をきせられ処刑される。お夏は子供たちが「清十郎殺さばお夏も殺せ」と歌うのを聞いてようやく清十郎の死を悟り、狂いさまよい、夜ごと清十郎の塚に参る。お夏は自害しきれず、尼となり、清十郎の菩提を弔うのであった。(小豆島に縁づいたという説もある)

    今日の朝日新聞夕刊によると、水間寺(大阪府貝塚市)境内の愛染堂の前に「お夏清十郎の墓」があるという。愛染明王は恋愛染着の至情を本体とする明王で、祈る者に敬愛の徳を授け縁を結び福を与えるという。この愛染明王は行基が椿の木に刻んだものといわれる。約700年前、水間の豪農楠右衛門の娘、お夏がこの愛染明王に祈願し、勅使であった山名清十郎との恋を成就させたといわれる。墓に備え付けられている花立てには田中絹代と林長二郎の名前が刻まれている。映画「お夏清十郎」(昭和11年)を記念したものであろう。

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2009年7月24日 (金)

セザンヌ礼賛

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  1895年の画商アンブローズ・ボラールによるセザンヌ展以後、若い画家たちの間でのセザンヌの評価は急速に高まりを見せた。モーリス・ドニ(1870-1943)もその一人で、1900年に集団肖像画「セザンヌ礼賛」を描いている。画面左から、ルドン、ヴュイヤール、批評家のメルリオ、ボラール、ドニ、セリジュ、ランソン、ボナール、それに1919年に世を去ったドニの最初の夫人マルトが、セザンヌの静物画のまわりに集っている。セザンヌの絵は「果物鉢と果物皿」ニイ・カルルスベルク美術館所蔵、1879-1882年の作品である。

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2009年7月23日 (木)

ミョンジャは地球村105人の母親

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  韓国の俳優たちは慈善事業に熱心であることはよく知られている。ペ・ヨンジュンやチェ・ジウという有名スターは日本に災害があったときポンと大金を寄付していただいたニュースを耳にする。しかし中堅俳優にも慈善活動に熱心な人がいる。「空くらい地くらい」でムヨン(パク・ヘジン)の養母であるパク・ミョンジャ役のチョン・エリもその一人である。夫婦間のトラブルの実話再現ドラマ「夫婦クリニック、愛と戦争」(1999年)では、長年に渡って調整委員役を務めたりしたことから、InKBS(国際韓国養子縁組人奉仕会)に参加し、「愛の家族」という孤児救済の奉仕活動をはじめた。2004年には国際救護開発機構ワールド・ビジョン親善大使として活躍し、国内の児童5人を含み、ガーナ、モザンビーク、ウガンダ、コンゴ、エチオピア、ルワンダ、インド、ミャンマー、ベトナム、バングラデシュ、パレスチナなど地球村のあちこちに全部で105人の児童と一対一の縁を結び支援している。自伝を出版して得た印税1億ウォンを恵まれない子供たちに寄付するなど、ボランティア活動でよく知られた女優さんだそうだ。ドラマの中でナリ食堂をやりくりしながら病弱なのにムヨンに限りない愛を注ぐというミョンジャは彼女にしかできない適役である。

2009年7月21日 (火)

太陽のない夏

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夏は もうすぐ そこなのに

毎日 雨の日が続く

今年の夏は きっと淋しい季節だろうか

2009年7月19日 (日)

青空のように

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   いよいよ夏休み。真夏の青空を望んだが、あいにくと梅雨前線が日本海から南下し、西日本は夕方から雨となった。夜はNHKBSハイビジョンで「マイケル・ジャクソン・デビュー30周年コンサート」(2001年、ニューヨーク)を見る。エリザベス・テーラー、ライザ・ミネリ、ホイットニー・ヒューストンなども出演。マイケルはまさに「キング・オブ・ポップス」だ。

    今日は土用の丑の日。むかし平賀源内が、あるウナギ屋から看板を依頼されたとき。大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏やせを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も、「今日は丑の日」の看板を掲げるようになったという。

2009年7月14日 (火)

俺はお前に弱いんだ

Img32d14828zikbzj   BS朝日「空くらい地くらい」第63話、第64話。ムヨン(パク・ヘジン)はウナ(ホン・スア)のことをジス(ハン・ヒョジュ)に相談する。ジスは女同士のほうが話やすいだろうと、ウナをイジメた娘ソジョンの家へ一緒に会いに行く。ジスは「ウナに会うことは、あなたのためにもなる」とソジョンを説得する。(ジスの堂々とした態度はお見事!(拍手)「春のワルツ」のウニョンの時より一段と成長したみたい)結局、ソジョンはウナに謝り、ウナは今までのわだかまりが少し解ける。ムヨンはこのことをジスに報告する。だがウナとつきあう約束をしたため、ジスにはつれないそぶりをする。そのことはジスもわかっている。
「♪つれないそぶりしたけれど俺の胸は燃えている」まるで裕次郎みたいなムヨンである(えっ、そんな古い歌知らない…)。だが後半はムヨンとジスのラブラブのシーンがいっぱい見られるらしいのでお楽しみは後にとっておく。ところでハン・ヒョジュちゃん、イイ役をしていますね。可愛い顔して、結構、ズケズケ物言うし、心理を読むのは得意だし、人の揉め事もうまく処理するし、ドタバタしているだけのNHKのつばさとはだいぶん差がついたみたいだ。韓国の若い男性からもモテるんだろうね。このドラマが韓国でオンエアされた年、「この夏に海に連れて行くとしたら女優なら誰れ」というアンケートでなんと第一位のソン・ヘギョに次いで、第二位はハン・ヒョジュだったというのもナットクだ。

7月15日。第65話「すれ違いの2人」、第66話「そうなれたらいいな」ジョンフンとミョンジュの結婚式。内輪だけのとても温かい雰囲気の結婚式。ハートフル・ホームドラマにふさわしい。出演者、スタッフ、視聴者がみんな楽しんでいるのがわかります。韓国ドラマ最高にステキ!!

2009年7月13日 (月)

役名そのまんま芸名に

304567_image2_1     BS朝日韓国ドラマ「空くらい地くらい」第61話「命日」。今日もお話の中心はウナ(ホン・スア)ちゃん。ウナの高校時代のいじめっ子ソジョンを街で見かけ、彼女のあとをつけて家まで行った。でもそこまでで、彼女に謝罪させることはできず、かえって自分自身が精神的に落ち込む。ヒステリックになって家族の人を心配させる。ムヨン(パク・ヘジン)はウナを立直らせるには、ソジョンに事情を話すことだと考え、彼女の家へ行く。だがウナのことを聞かれても「そんな人は知らない」と冷たく追い返される。

   ウナの精神が錯乱状態の演技は迫力があった。「まさに韓国ドラマとはこれだ!」というホン・スア迫真の演技。スアは本当にこのドラマの後に精神病にかかったというのもうなづけるほど熱演だった。みんながウナちゃんの行く末を心配しているが、この後どうなるのかと、あらすじを読むと、なんと年下の恋人が現われるらしい。ソ・ジュニョン君という若い俳優。どこかで聞いた名前だ。クォン・サンウの「悲しき恋歌」の役名。つまりクォン・サンウの子供時代を演じた子役が役名をそのまま芸名にして、スターとして登場してきたのである。

   日本でも役名を芸名にしてデビューすることはある。南條豊は山口百恵の「エデンの海」の南條先生の役でデビューしている。本名が山川豊なので「南條豊」となった。(山川豊でなくてよかった)。藤村志保は昭和37年「破戒」の役名「志保」と原作者島崎藤村から芸名を「藤村志保」としたことはあまりにも有名である。役名を芸名にした最も大物俳優は三国連太郎だろう。昭和26年に木下恵介監督「善魔」の主役でデビュー。役名の三国連太郎をそのまま芸名にしている。「愛と誠」でデビューした早乙女愛も役名が芸名になっている。松田聖子もテレビドラマ「おだいじに」の役名が芸名となった。

2009年7月11日 (土)

モノクロ映画の回想シーン

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    映画の構成で回想形式を用いたものは、とても印象に残る。「哀愁」(マーヴィン・ルロイ監督)。第二次大戦のさなか、霧に濡れるロンドンのウォータールー橋で陸軍大佐クローニン(ロバート・テイラー)は若き日の回想に耽る。時は第一次大戦下のロンドンにさかのぼる。空襲警報の鳴り響くウォールタールー橋で、大尉のクローニンはバレリーナのマイラ(ヴィヴィアン・リー)と運命的な出会いをする。木下恵介監督の「野菊の如き君なりき」。ファースト・シーンは老人になった政夫(笠智衆)が故郷の村を訪ね、流れる小川の情景などを見て、昔の切ない思いを回想する。マイラも民子も死んでもうこの世にはいない。しかし想い出の中に若く美しい面影がいつも瞼に浮かぶ。青春の感傷はモノクロ映画の回想シーンから始まる。「哀愁」と「野菊の如き君なりき」は全然異なる映画のようでありながら、橋と川、都会と田舎、結ばれぬ二人、愛しい人の死、その構成要素は一致している。日本と外国の悲恋映画の最高傑作は冒頭に回想シーンをとることでも一致している。

2009年7月10日 (金)

恋のライバル

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    韓国ドラマ「空くらい地くらい」のウナ(ホン・スア)が塾へも行かず、自暴自棄になっている。ドラマを盛り上げるには、「冬のソナタ」のチェリン(パク・ソルミ)を引き合いにだすまでもなく、ヒロインの恋のライバルの存在が重要なポイントである。「天国の階段」のキム・テヒは最高の悪女だったが、「秘密」のハ・ジウォン、「夏の香り」のハン・ジヘなど皆悪女からスターになっている。「春のワルツ」のイ・ソヨンは美人なので眼鏡を無理やりかけている。普通、恋のライバルは悪知恵がはたらいたり、高ピーだったり、金持ちで積極的なパターンが多いのだが、この「空くらい地くらい」のウナは、病的でひきこもりがちなので、とても手がやける。ともかくドラマをあきさせずに最後まで引っ張っていく役目を果たすだろう。ところでNHK連続テレビ小説「つばさ」の恋のライバル万理(吉田桂子)は早々と降参した。これがドラマが面白くない一つの原因と思う。強力なライバルはドラマを面白くする。NHK連続テレビ小説は韓国ドラマのような強力なライバルはあまり登場しない。最近では「ちりとてちん」の佐藤めぐみ、「ちゅらさん」の小西真奈美、「青春家族」の中村あずさ、が印象に残る。吉田桂子ちゃんもチェリンのように頑張って翔太に再度、アタックしてドラマを盛り上げてほしい。

2009年7月 9日 (木)

同情と愛「空くらい地くらい」

    韓国ドラマで盛り上がるのは、やっぱり三角関係だ。ヒロインに本命の男性がいて、もう一人の男性が現われる。彼女はステキな二人の男性から求愛されて、揺れ動く。ヒロインになりきりの女性視聴者にとっては至福の喜びである。ほんどの韓国ラブストリーはこのパターンの三角関係だが、稀に一人の男性を巡る二人の女性というのもある。ペ・ヨンジュン売り出し中のときの「愛の群像」がその代表だが、「天くらい地くらい」もそうだ。そうするとパク・ヘジン君は相当に韓国テレビ界が売り出しする期待の星なのだろう。「天くらい地くらい」はムヨン(パク・ヘジン)という男性とジス(ハン・ヒョジュ)とウナ(ホン・スア)の二人の女性の三角関係で展開している。ウナは自転車に乗ることも母親から禁じられて育てられるほど過保護だった。そして学校では酷いイジメにあい、そのトラウマのある可愛そうな女性である。だから塾でも友だちもいない。そんなときムヨンという年上の男性に出会う。ムヨンは高校を中退し、軍隊に行っていた。ジスという幼な馴染みがいる。ムヨンは捨て子で産みの母のことは何も知らない。ムヨンとジスは愛しあっているが、ムヨンはジスにはもっと相応しい男性がいい、と無理やりに思おうとしている。淋しいウナはムヨンをお兄ちゃんと慕って親しくなり、愛に発展しつつある。母はこれを知るとムヨンに塾を辞めるように言う。ジスはムヨンがウナに同情していると感じて、ムヨンに愛の告白をする。ムヨンは塾を辞め家出をする。そんな時、育ての母が手術をすることになり、また帰ってくる。ふただびムヨンはウナとジスとを巡って悩む。ウナのことを心配するムヨンは同情だろうか。ジスとムヨンの愛の行方やいかに。
   ところでウナを演ずるホン・スアちゃん。今日、見た回(第57話「2人の真実」)で目を赤く腫らして、ジスと対決するシーンを見るとなかなかの演技派だ。もともとモデル出身だが、大学で演劇の基本を学んでいる。(建国大学映画芸術科)シンデレラ・ガールのハン・ヒョジュよりもキャリアもあり、年齢も半年ほど年長だ。この役の熱演のあと、本当に鬱病になり、芸能活動を1年間休んだ。現在は回復し、新作では元気な姿を見せている。
   韓国ドラマは心の揺れや動きを一つ一つの会話を通して、丁寧に描いていく。話をとばさず、自然にドラマが展開していくので、感情移入しやすい。連続ドラマやホームドラマの醍醐味を充分に味わうことができる。

2009年7月 7日 (火)

感涙「空くらい地くらい」

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    空くらい地くらい第53話「おかえり」、第54話「母の手術」。サンヒョン(イ・ジュヒョン)は家出したムヨン(パク・ヘジン)を見つけた。一緒に帰ろうというと「ほっといとくれ」と言うムヨン。サンヒョンは怒りのあまりムヨンを殴る。母が入院しているのを知ったムヨンは病院へ行く。「俺が苦しめたから病気になった」と涙を流す。「母は子供のために苦しみ悩むものだ」と話す。「あなたは私の大事な息子。だから自分自身をもっと大切にして」という母の言葉にムヨンは詫びる。サンヒョンがムヨンを探したところはソウルから100キロばかり南にある鎮川(チンチョン)という町。ドラマはスタジオがほとんどだが、ムヨンが家出した場面だけはロケ。おかげで韓国の見知らぬ町をチョットだけ見ることができる。ふたりが抱き合う場面には大きな橋があった。今日は涙、涙、涙だった。気になるのはウンジュ(カン・ジョンファ)は今もサンヒョンに未練があるようだ。少し反省したのなら許してあげてという気持ちもある。わがままだけどウンジュもかわいいところある。ウンジュの父(チョン・ドハン)がウナを元気づけようとラーメンをつくる。母(チョン・エリ)がラーメンは健康に悪いからそうめんをつくろうとする。急にチョン・ドンファンが怒鳴り出す。近頃、冷静なはずの父が意味も無く爆発するようになった。
   ところで韓国のラーメンといえば農心の「辛ラーメン」が有名だ。麺が太く、とても辛い。劇中では、何故かラメーンを「ガソリンスタンドでもらった」と言ってたが意味不明だ。調べるとGS25という24時間営業のガソリンスタンドがコンビニも兼ね、ラーメンを販売していることが判明した。

2009年7月 6日 (月)

戦後異色人物伝

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   いまNHK「プロジェクトX」のような戦後の日本を復興させるために、使命感に燃えて奔走した男たちのドラマが人気を呼んでいる。昨夜から始まった新番組「官僚たちの夏」もその一つだ。主役の風越伸吾(佐藤浩市)は佐橋滋(1913-1993)という異色官僚がモデルだそうだ。劇中の「あけぼの自動車」のモデルが鈴木自動車工業(スズライトSL型)か富士重工(スバル360)か三菱自動車(三菱500)か諸説あるが、結局フィクションで自動車は架空である。戦後社会を発展させた原動力を人物の情熱に力点を手法は、つくり話としては面白いが、日本を世界有数の工業国に仕上げたのは、あくまで個人の力というよりも、組織の力であろう。
    評論家の扇谷正造が「戦後異色人物」という短文で、政治家、財界人、産業人を省いて、12人の異色人物をあげている。三島由紀夫、勅使河原宏、羽仁説子、植木等、小沢征爾、黒沢明、坂西志保、神吉晴夫、勅使河原蒼風、三船敏郎、池田大作、船橋聖一である。(「日本歴史シリーズ22現代」世界文化社)昭和43年のものであるが、今から見てもよく選んでいるとその慧眼に感心する。

2009年7月 5日 (日)

入江泰吉、古寺との出会い

Photo_3 興福寺の五重塔

   大阪空襲で家を消失した入江泰吉(1905-1992)は郷里の奈良に戻った。ある日、古本屋で亀井勝一郎の『大和古寺風物誌』が目に止まり、題名に惹かれて買い求めた。ページを繰るうちに、しだいに感動がたかまり、一心に読みふけった。昭和20年も暮れに近いころであった。東大寺境内を訪ね、三月堂に立ち寄った。その時、お坊さんが話している声を、聞くともなく聞いて入江はびっくりした。「アメリカ軍が賠償として、わが国の有名な古美術品を持って帰るらしい。京都や奈良を爆撃しなかったのもそのつもりらしい」というのであった。そうだとすれば、この三月堂の諸像はもとより、大和の古寺のものはおろか、諸国のすぐれた古美術、わが民族の誇る貴重な文化遺産の大半が、わが国から姿を消してしまうのではないか。「そうだ、私はカメラマンである。せめて写真に記録しよう。いや、しなくてはならない」と、その場で決意した。古寺巡礼をつづけ、奈良にとどまり、急を要する仏像などの撮影を始めるに至ったのであった。

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