李白と阿倍仲麻呂
生涯酒を愛し、放浪の旅をした詩人の李白(701-770)の生地については異説が多いが、蜀の青蓮郷とするのが通説である。20歳代の半ばまで、東厳子という仙人と峨眉山と岷山の間で、道教の修行に励んだという。その後、湖北、洛陽、太原で遊侠と行動をともにしたり、山東で導士たちと隠棲したり、会稽に遊んだりしていた。天宝の初め、長安に出て、賀知章にみとめられて、その推挙によって玄宗に仕えた。当時、玄宗の信任も篤く、並ぶ者なき権勢を誇っていのは高力士という宦官であった。だが李白は、この宦官におもねらなかった。それがために、わずか3ヵ月で朝廷から追われた。天宝3年(744年)、李白44歳のことである。そのころ日本から遣唐使として唐に留学していた阿倍仲麻呂は長安に留まって、玄宗の厚遇を受け重用されていた。李白と阿倍仲麻呂が出会ったのは、おそらく天宝2年のことであろう。両人は同じ年でおそらく話もあったであろう。それからの李白は都長安を去り、梁、宋、呉、越、金陵、江東、南陽、新平、邯鄲、蘇州、幽州など各地を転々とする。仲麻呂は天宝13年(753年)日本へ帰国することになる。だが途中で暴風雨にあい安南(ベトナム)に漂着、再び長安に戻って官人となり、玄宗、粛宗、代宗の三代の皇帝に仕えて、日本に帰ることなく唐土で没した。年73歳。
李白は噂で船が海に沈んだと聞き、仲麻呂が死んだものと思い込み、「晁卿衡を哭す」という仲麻呂を哀悼する詩を作っている。晁衡とは仲麻呂の中国名である。終生漂白の人生を送った李白は宝応元年(762年)当塗(安徽省)の李陽冰の宅にて病没する。行年62歳だった。
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