若き日の真田幸村
戦国の世にあって真田氏の周りには織田、徳川、北条と強敵揃いで、真田昌幸(1545-1609)はその間隙をぬって生きねばならなかった。昌幸は北条氏直に好誼を通じ、その一方で織田信長に名馬を贈ったりして臣従を誓った。信長が本能寺にて自害すると、昌幸は北条氏に従属する態度を鮮明にした。ところが9月になると昌幸はその北条氏を見限り、徳川家康につくのである。しかし家康は真田氏が支配している沼田城を、北条氏に引き渡すように命じた。昌幸は家康のこの命令をはねつけ、越後の上杉景勝に和を乞い、二男の幸村(1569-1615)を人質に差し出すことにした。
天正13年閏8月、真田幸村は上杉領の海津城へと赴いた。天正14年、昌幸は景勝の上洛の留守中に、幸村を越後の春日山城から呼び戻すと、豊臣秀吉の許へ人質として送った。これを知った景勝は怒った。さっそく秀吉に幸村を返してくれるように願ったが、秀吉は聞き入れなかった。その後秀吉は、北条氏を亡ぼす小田原征伐で、豊臣勢として参陣してきた昌幸・信之父兄の許へ、幸村に部下までつけて返してやるのだ。幸村が専属の部下を持って合戦にのぞんだ最初であった。幸村もすでに24歳になっていた。真田家存亡を賭して人質となった若き日の幸村の姿であった。
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